第十五節 ある月夜の話


 夜は更け、空には淡い輝きを灯した月が上る。

 星の光と混ざって、夜闇に漂う銀の欠片。月の周りで踊るように揺れている。

 それは地に堕ちた狂い神、その亡骸。元は銀の月だった幾つかの断片。

 月と星、月の亡骸の光に照らし出される《廃棄都市》。

 その中心、名も無き者達を弔う石碑の周りには、白い輝きが踊っていた。

 あの夜、月が墜ちた時からこの地にだけ咲くようになった白い花。

 月明かりに照らされる事で、その花びらから月と同じ光を星のように煌めかせる。

 夜空へ上っていくその光は、まるで死者の魂が天へと還っていく様にも見えて。

 少女の姿をした神をその膝に抱きながら、アルディオスは夜空に舞う光を見送っていた。

 何度繰り返し見てきたかも分からない情景。

 月の神の名残りでもあるその輝きを目にする度に、あの日の後悔が胸を切り刻む。

 後悔してしまった事への、後悔。あの痛みに耐えられなくなった時から、自分は英雄となる資格を失った。

 どうしようもない。過去は取り戻せないし、変える事も出来ない。

 この痛みは永遠に消えない。それは分かっている。

 それでも今、この胸にあるのは後悔という傷の痛みだけではなく………。


「………ね、アル?」

「………なんだ?」

「どうして、フェリはどこかへ行っちゃったのかしら」

「…………」


 膝を抱えながら、気落ちした様子でライアは言う。

 何故、フェリミアは一緒に帰ってはくれなかったのか。

 どうしてフェリミアは、自分の声に応えてくれなかったのか。

 ライアには分からない。この《既知領域》に生きる人間が、どれほど神の存在を恐れているのか。

 降り立った神は殺さねばならないという、この《既知領域》における常識など知る由もない。

 神であるライアを殺す為に、フェリミアは自ら騎士団へと戻った。

 そんな事実を、アルディオスは口にする事は出来なかった。


「………少し、俺が怒らせてしまってな。だから、元いた場所に戻ってしまったんだ」

「ケンカ、しちゃったの?」

「そうだな。ケンカだ」


 意見の相違をケンカと呼ぶなら、それはあながち間違いでもない。

 程なく、フェリミアは神格を討つ為の準備を整えて再びこの地にやってくるだろう。

 恐らく夜が明ける頃には戦いとなる。神威がどんな災いをもたらすか分からない以上、討伐は常に迅速さを求められる。

 この夜の穏やかさも、嵐の前の静けさに過ぎない。


「…………」


 ライアも、アルディオスも、夜空に揺れる花の光を見ていた。

 手を伸ばせば容易く砕けてしまう、脆くも弱い輝き。

 その美しくも儚い様は、まるでこれまで過ごした短い日常にも似ていて。

 失ってしまった日々の温もりを、アルディオスは思う。それもまた、胸に一つの痛みを刻んだ。

 自分で決めた事なのだから、後悔はしていない。

 それでも、自分を慕ってくれた者が突き立てた傷の痛みだけは、やはり消えそうにない。

 刃を向けねばならない程に追い詰めてしまったものは、紛れもなく自分の責任だ。

 身体についた傷は癒えても、その痛みだけは消えない。

 明日、神を討とうとする者と、それを阻もうとする者とで戦いとなるだろう。

 互いに言葉で済ませられない以上、そうなる事は必然だ。

 後悔はない。自分で決めた事なのだから、後悔などあろうはずもない。

 けれど。果たしてこの痛みを抱えたままで、自分は十全に彼女の戦意に応えられるだろうか。

 無言のままに、思考だけが澱んでいる。

 ―――それを中断させたのは、痛みの上に触れる小さな温もりだった。


「………ライア?」

「ね、痛くない?」


 ぺたり、ぺたりと。昼間、フェリミアに刺された傷の辺りを、ライアの手のひらが触れている。

 傷自体はもう殆ど塞がっている。再生能力と言う程ではないが、アルディオスの身体は傷の治りも常人より早い。

 塞がった傷に、未だ残る確かな痛み。それを壊そうとするように、白い指先でなぞっていく。

 微かに、痛みが和らいだような気がした。


「………痛いが、大丈夫だ」

「ホントに?」

「あぁ、本当だ」

「そっか、それなら良かった」


 アルディオスの言葉を素直に受け入れて、ライアは花のように微笑んだ。

 その笑みは初めて出会った時と同様に、忘れがたい過去の記憶を思い起こさせる。

 無邪気に、心のままに微笑む少女の髪を、アルディオスの無骨な手が撫でる。

 胸を刻む痛みは、少しだけ和らいでいる。

 痛みを壊す温もりに促されるように、男は己の後悔を吐き出した。


「………ライア」

「? なぁに?」

「俺は昔、お前と同じ神様を殺した事がある」


 神殺し。あの夜、銀の月を空から墜とした時の顛末。

 それを成し遂げた者以外には誰も知らない、無貌であったはずの月の素顔と、最後に残した言葉。

 ライアは黙ってそれに耳を傾けた。懺悔を語る彼がそれを望んでいると理解出来たから。


「何人も死んだ。俺以外の仲間は、全員犠牲になった。国を守る為、家族を守る為、そうする事が正しいのだと生命を投げ出した」

「うん」

「俺も、そうするつもりだった。死ぬ事は恐ろしくなかった。死んでも、自分の役目だけは果たすと覚悟して、俺はその一刀を振るった」

「………うん」

「だから俺は、後悔はしていなかった。………あの神を斬り殺す、その直前までは」


 吐き出される。ずっと抱え続けてきた痛みを、アルディオスはただ吐き出し続ける。

 ライアは頷きながら、それを聞いていた。その多くは理解出来ずとも、彼の痛みだけは理解出来たから。

 たった一人で、どうしようもなく抱え込んできたその痛みだけは、理屈は抜きに理解出来たのだ。


「………あの神は、銀色の月の神は、誰かを傷つけたかったわけじゃなかった」

「………うん」

「迷子みたいなものだ。ただ迷い込んで、自分以外の誰かがいる事を知り、ただ無邪気に自分の望みを叶えようとした」


 望み。天から落ちてきた銀月の神は、一体何を望んでいたのか。

 誰もそれを考えようとはしなかった。現れた神という災害を恐れ、それを排除する事にだけ心血を注いだ。

 アルディオスもそうだった。それが正しいのだと、全力で神に刃を届かせた。

 そして、知ってしまった。アルディオスだけが、神の抱える痛みに触れてしまった。


「………誰かと、触れ合いたい。何もかも歪ませ、狂わせる神が望んでいた事は、たったそれだけの事だったんだ」


 他者に触れる感触だけを望んで、狂った権能を振り回すことしか知らなかった哀しき魂。

 アルディオスはそれに触れた。触れてしまった。生命を切り裂く刃の感触によって、その望みを叶えながら。

 自分が殺した相手は、犠牲の山となった仲間達の屍を踏み越えてまで討ち取った相手が。

 ただ、泣き暮れて彷徨うだけの幼子に過ぎなかった。その事実に、男の魂は引き裂かれた。

 どうしようもなかった。覚悟もなにも、その後悔の前では意味を成さなかった。

 全ての犠牲と痛みを胸に隠して、神の死により呪われた身体を隠して、ただ一人この《廃棄都市》に残った。

 名も無き犠牲者――街の住人や、共に戦った仲間。そしてあの月の神を弔いながら。


「俺は………英雄なんかじゃない。俺に出来たのは、ただ死なせる事と、ただ殺す事だけだったんだ」


 何も守れなかった。仲間を犠牲にし、殺した相手は罪もない無垢な魂だった。

 故に男は、英雄ではいられなかった。誰もが口にする英雄を讃える言葉から、男は逃げ出す他なかった。

 その痛みを吐き出す事も出来ずに、ただ一人で。ずっと。


「…………」


 ライアは何も言わなかった。何も言わず、男の吐き出す痛みを受け止めていた。

 受け止めて、その指は変わらず男の胸に触れている。

 何もかも壊す指先は、今は何も壊さない。

 ただ、男の抱えた痛みだけを少しでも壊そうと触れ続ける。


「………アルは、約束を守ってくれたよ」


 英雄に成り損なった男の懺悔に、答える言葉をライアは持ち合わせてはいない。

 だから少女の姿をした神は、ただ自分の中にある言葉を口にする。

 今日と同じ、月の夜に交わした約束。神と人との間で結ばれた、尊い願いの言葉を。


「壊せないもの、壊したくないもの。この世界にいっぱいあるって、教えてくれた」

「…………」

「本当に、いっぱい。アルだけじゃなかった。フェリだってそう。壊せない、壊したくない。あたし、本当に嬉しいの」


 アルディオスと出会った事、フェリミアと一緒に過ごした日々、街で見た色んなもの。

 全部が全部、壊す事しか知らなかったライアの眼には星のように輝いて見えた。

 壊したくない。壊すことなくそれに触れられる事が、何よりも嬉しい。

 だからライアは微笑んだ。その心のままに、英雄になれなかった優しい男に微笑みかけた。


「ありがとう、アル。貴方が殺してしまった神様も、きっとあたしと同じ事を思っていたと思う」

「…………」


 胸の痛みは、決して消えない。後悔が消える事のないように、刻まれた痛みは残り続ける。

 それは変わらない。恐らくこの先、ずっと変わる事はないだろう。

 けれど今、この胸の内にあるものは痛みだけでも、後悔だけでもない。

 確かな温もりもまた、小さな灯火のように宿っている。

 ならば迷いも躊躇いもない。新たな痛みや後悔を得る事になろうとも、やるべき事は変わらない。


「………ありがとうな、ライア」

「お礼を言い合うのって、変な感じね」


 くすくすと笑う少女に、アルディオスも釣られて笑みを浮かべる。


「………ね、フェリと仲直り、出来るかな?」

「正直、あまり自信はない」

「それじゃダメじゃない」


 不満げに頬を膨らませて、ライアは頼りない事を言う男の腕をペシペシと叩く。


「あたし、三人で一緒にいるのが良いもの。それにまだ、フェリに約束ちゃんとして貰ってない」

「約束?」

「料理、教えてくれるって言ったもの。だから教えてくれないと、困るの」

「………そうか。そうだったな」


 アルディオスも、言われるまですっかり頭から抜けてしまっていた。

 フェリミアも、アレコレと頭の中で渦巻き過ぎててすっかり忘れてしまっているだろう。

 ライアだけが、その約束を忘れないでいた。

 他愛もない日常で結ばれた他愛もない約束を、何よりも大事なものであると忘れずにいたのだ。


「………俺が約束しよう、ライア」

「?」

「フェリミアとは、絶対に仲直りする。それから改めて、料理を教えて貰うと良い」

「………ホントに?」

「あぁ、本当だ」

「約束してくれる?」

「あぁ。………俺とは二つ目の約束だな」


 根拠などない。果たされる保証など何処にもない、二度目の約束。

 フェリミアは強い。アルディオスが知るのは未だその片鱗のみだが、十年前とは比較にならないレベルのはずだ。

 彼女の類稀な才覚は、何よりも師でもあったアルディオスがよく知っている。

 十年という歳月が両者の差をどれほど埋めているのか――あるいは、超えてしまっているのか。

 死ぬのは自分かもしれない。どちらかが生命を落とさない保証は何処にもない。

 それでも、アルディオスはあえて誓いを言葉にする。


「じゃあ、約束。絶対だからね?」

「………あぁ、勿論だ」


 微笑むライアの細い手に、無骨な指を触れさせる。

 折れてしまいそうな少女の指が、ぎゅっと男の手を握る。

 結んだ縁を離してしまわぬように。誓った言葉を違えてしまわぬように。

 誓い。契約。騎士たる者は決して、自ら結んだそれを破らない。


「約束だ。必ず、守る」


 アルディオスは、空いている拳を己の胸に当てた。

 痛みは消えない。後悔も消えない。けれど今は、それ以外の熱もある。

 もう決して、それを失う事はしない。

 英雄ならざる男は、言葉にせぬまま固く己に誓いを立てる。

 ―――嵐の訪れを目前にした、静謐な時間。

 人に近づいた神と、神に呪われた人と。

 未来も何も見えぬままに、ただ穏やかに時を過ごす。

 空に浮かぶ月と、揺蕩う銀の欠片達。後は星の光と、死した神の名残りである白い花弁。

 何者でもないそれだけが、二人を見ていた。

 一歩、また一歩と迫りつつある闇の存在を知らぬ彼らを、ただ優しい光だけが見守っていた。


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