二、叶わないと知っていたのに

 シャルティアは金色の光を追いかけて手を伸ばす。

 美しい蝶を夢中で捕まえようとする子どものように。


 くるくると踊りながら、彼女は創造主にまとわりついて進む。

 鱗粉りんぷんめいた光は、ペロロンチーノの歩みに合わせて振りまかれる。


「ペロロンチーノ様、ペロロンチーノ様、ペロロンチーノ様」


 シャルティアは先ほどからずっと、名前を呼び続けている。

 その一つ一つの呼びかけに、抑えきれない歓喜と信じがたい驚嘆と、そして失うことを恐れるひそやかな不安を込めて。


「ペロロンチーノ様、ペロロンチーノ様、ペロロンチーノ様」


 うふふ、あははと笑いさざめく、無邪気な少女の顔を飽かず眺めながら、彼は第五階層への転移門をくぐる。視界が一瞬に切り替わり、氷雪の世界がそこに現れる。


「寒くないか? シャルティア」

「ぜんっぜん平気でありんす!」

「そっか」


 迷ってから、ペロロンチーノは手を差し出す。

 シャルティアはきょとんとして、それから犬が餌に飛びつくように両手でぎゅっとつかんで、うれしそうに見上げた。

 ペロロンチーノは空いた手でぽりぽりと頬をかき、


「いや、ほら。手をつないで歩こうかな、って」

「こ、これは失礼しんした!」


 慌てて片手に握り直し、ちら、と上目遣いをしてくる吸血鬼があんまりにもかわいくて、ペロロンチーノは笑った。


 ああ、楽しい。

 楽しければ楽しいだけ、先へ進むのが怖くなる。


 手をつなぎ、大げさに振って歩く。

 きゃっきゃっとシャルティアはうれしげにはしゃぐ。


 無心で無垢なその笑顔は、至高の御方にだけ見せるもの。

 意図せず、意識せずとも、自然とそうなってしまう。


 彼女は最初、ペロロンチーノの前を歩くと言い張った。

 『敵がいるみたいでありんす。わらわがお守りしんすぇ!』と。


 ペロロンチーノは言った。

 『今このナザリックで起きている異変はすべて、俺たちが引き起こしたんだ』と。


 その途端に、彼女は警戒を解いた。

 俺たち、の、たち、が誰かも知ろうとせず。

 彼女は恥ずかしげに顔を赤らめ、無知を詫び、そして今はなんの懸念も憂いもない様子だ。


 それほどまでに、シャルティア・ブラッドフォールンは信じ切っている。

 創造主たるペロロンチーノを。


 彼がやったことなら、正しい。

 間違いがあったなら、言われれば修正に力を尽くす。

 それだけだ。


 あまりに無考えで、あまりに無防備で、あまりに危険な。

 しかしそれゆえにこそ、いとおしくもある姿勢。


「不思議でありんすねえ」

「ん、何が?」

「わらわはいつも歩いて移動するのは面倒で、たいがい『転移門ゲート』を使っておりんした。でも今は、そちこちが興味深く思えんす。ほら、ペロロンチーノ様がまたぎ越された氷の岩や、ペロロンチーノ様のお姿がすこし青みがかって映る凍河や、あれやこれやがはっとするほど……」

「そっか。そうだね。俺もシャルティアと歩いていると、前よりもナザリックがよくなったように思えるよ。何がってわけじゃないんだけど、すごく楽しいんだ」


 言ってしまってから、ペロロンチーノは後悔する。

 前よりも、などと。


「ペロロンチーノ様?」


 唐突な沈黙と、押し殺した苦悶を察知されたのか。

 シャルティアが心配そうにこちらを見上げ、つないだ手に少しだけ力を込める。


「……うん。ちょっと考えていたんだけどさ」

「な、なんでありんしょう」

「歩いてはともかく、走って移動しないのは胸パッドがずれないようにじゃあ」

「ちちちちちちちち違いんす! い、いえ、違わないのですが……で、でもでもでも! は、走るより早いから『転移門ゲート』を使うのでありんす!」

「あはは、そうだね。ごめんごめん」

「ペロロンチーノ様が謝られることなど、何もありんせん!」


 びっくりしたように素っ頓狂な声を上げる。

 誤魔化ごまかすように咳払いして、ふと気付いたように辺りを見回し、形のよい眉をひそめる。


「コキュートスったら、挨拶にも出て来ないなんて。気付いていないんでありんしょうか」

「忙しいんじゃないかな。さあ、それより俺たちは行かなくちゃ」

「はい、でありんす!」


 どこへ、とも聞かない。

 にこにこ笑顔のまま、ついて歩いてくる。


 ペロロンチーノはいったん手を離す。

 シャルティアは怯えたようにペロロンチーノを見上げる。

 捨てられることを恐れて、おずおずと手を伸ばす。

 見えないふりをして、ペロロンチーノは前に出る。

 そして、屈む。


「俺の背中に乗りなよ、シャルティア」

「えっ!? で、ではわたしはここで初めてを迎え……っ!?」

「いや、そういうエロゲ展開じゃないんだ。ていうかどういう発想したらそんなふうに……ああうん、聞かないでおこう。とにかくさ、えっと、俺ってほら、バードマンだろ? 一応飛べるっぽいしさ。背中に乗せて飛んでみようかと思って」

「そ、そんな! 恐れ多いでありんす!」


 ペロロンチーノは肩ごしに振り返り、小さく首を傾げて「だめ?」と聞いた。

 シャルティアはびっくり顔でぶるぶるとかぶりを振り、おずおずとその背中に手を当てる。


「ほんとに、よろしいのでありんすかぇ……?」

「俺がそうしてほしいんだよ」

「そ、そういうことでありんしたら、よろこんで!」


 いそいそと膝をかける、そのシャルティアの動きに合わせて身を傾ける。

 ふわりと宙に浮かべば、彼女の体重が背中にかかる。

 見た目のわりには重いんだよな、と苦笑して、けれどその重さがまったく苦にならないだけの強靱さを己が持っていることに戸惑う。


 彼の中の記憶には、リアルでの本物オリジナルのものもいくらか含まれている。

 ゲームでは感じられなかったほどのきめ細やかな感覚に、胸が躍った。


 飛ぶ。


 背中にぎゅっとしがみついているシャルティアを感じながら、スピードを上げていく。

 知り尽くした第五階層を、ときにはあえて蛇行し、ときには回り道をして。

 白い世界は、ただひたすらに美しかった。


 気付けばペロロンチーノは笑っていた。


 風を切る感触と、重力から解き放たれたような感覚。

 楽しくてたまらなかった。


 シャルティアも笑っていた。

 はしゃいでいた。


 彼女がいっしょにいることが、よりいっそう楽しい気持ちにさせてくれた。


 ふたりで草原を飛んだならどうだろう?

 最初は地面に近いところを、草たちをびっくりさせるように飛ぶのだ。

 むせかえる緑の匂いのなかで遊び、それからぐっと上昇する。

 青空をどこまでも飛んで、鳥やらモンスターやらをからかったりしながら、ぐんぐん高く飛んで、遠い大地の美しさを眺めるのだ。

 世界を一周してしまおう。

 そのうちに太陽が沈み始める。

 夕焼けを特等席で、シャルティアといっしょに――


 ペロロンチーノは自嘲気味に笑う。

 その笑みにたゆたう変化にさえ、シャルティアは気付かない。


 彼女はすっかり舞い上がっているのだ。


「ペロロンチーノ様――」

「ん、なんだい」

「いえ、なんでもありんせん」


 くすくす、と彼女は笑う。

 ペロロンチーノはおどけた口調で、「ひどいなあ、内緒話なんて」と言う。


「そのうち言いんすよ。そのうち」


 シャルティアは考えてみたのだ。

 ペロロンチーノの背に乗って、自分の守護する階層を見てみたいと。


 いや、肩に乗せてもらう方がいいだろうか?

 腕に抱えてもらうのが一番いいかもしれない。

 なにしろそうすればペロロンチーノがふだん目にするのと同じ高さから眺められるのだから。


 第六階層の転移門に飛び込む。

 まばゆい輝きに包まれた直後、彼らの前にジャングルが広がる。


 そのまま闘技場を目指そうとしたペロロンチーノは、ふと視界になにかを捉えてゆるやかに停止する。


 動揺した気配のそれは、さっと飛び出してきて彼の前に跪いた。


「おかえりなさいませ、ペロロンチーノ様。第六階層守護者アウラ・ベラ・フィオーラ、御身の前に」


 少年のような姿のダークエルフの少女は、ペロロンチーノの姉であるぶくぶく茶釜が創造した双子の片割れだ。

 金色に輝くショートヘアはぴんぴんはねる癖っ毛で、左目は青、右目は緑のオッドアイであり、長く尖る耳をしている。

 鱗を思わせる赤い服の上から白いベストを着、白い長ズボンを履いて、先の尖った靴を履いている。


 よく知っていた。

 けれどもぴょこんと跳ねるように立ち上がり、歓喜に目を輝かせ、興奮に息づかいも荒く、「お戻りになられたとは知らず、お出迎えが遅れましたことをお詫びいたします」と叫んだその声の、溌剌はつらつとして明るいさまは新鮮だった。


 彼女ともいろんな言葉を交わしてみたかった。


 いや、ただ見ているのもいいかもしれない。

 アウラとシャルティアが仲良く喧嘩をするところが見てみたい。

 二人がヒートアップしたあたりで止める役回りをしよう。

 どちらもを立ててやりながら、やれやれと困ったふりをする。

 それでいて、また喧嘩してほしがっていることがそれとなく分かるように。


 そんな夢想を振り払い、ペロロンチーノはそっと屈んで、シャルティアに下りるよう促す。

 とん、と身軽に地面に立った彼女は、こぼれんばかりの笑顔でペロロンチーノを見上げて、手を差し出した。


 今度はまた手を繋ごうと、彼女の方から甘えてきたのだ。

 拒まれたらどうしようとか、あるいは出過ぎたまねだと嫌われないかといったような不安は微塵みじんもないようだった。


 この短い時間の中でも、彼女はすっかりペロロンチーノを理解したつもりでいる。

 心を通わせ合い、もう何をしても離れることのない一対だと信じたがっているかのように。


 ペロロンチーノは、その手を取らなかった。


 彼は彼女の肩を押しやった。アウラの方へと。


 決して強く力を込めたわけではない。

 しかしそこには、確かな拒絶があった。


 シャルティアが目を見開く。


 唇が中途半端な笑みを形作る。

 端が引きつっている。

 冗談にまぎらしてもらいたがっている顔だ。


 すがるような目つき。

 そこには謝罪が含まれている。

 調子に乗ってごめんなさい、という目つき。


 たぶんペロロンチーノ自身が、ときどきやっていたような目つきを、より女らしく愛らしくしたもの。


 ペロロンチーノはシャルティアから目をそらす。

 その傍らに驚いた顔で立っているアウラを見つめる。

 穏やかに告げる。


「はじめまして、アウラ・ベラ・フィオーラ。俺はペロロンチーノの偽物だよ。これからモモンガさんと殺し合いをするんで、闘技場を借りられるかな?」

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