第10話 あの日

あの日

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「何してるんだ……、何してるんだよ、お前……」

 今自分が見ている光景が現実のものであると受け入れることができなかった。いや、受け入れるのに相当時間がかかった、というのがより正確な表現になるか。算六夜が見た景色は、一言で言い表すならば、絶望、だった。

 茜色の空が地上を照らす頃合に。

 誰の姿も認められない田園風景広がる道で。

 コンクリートは、〝そこの部分だけ〟血で汚れていた。

 頭から血を流している制服姿の誰か。

 その〝誰か〟を、算六夜はよく、知っていた。

 大して運動もしていないのに息をこれでもかというほど切らせながら算はその倒れている〝誰か〟のもとに駆け寄る。そして、その倒れている誰かを確認する。

 ――『一条倖啼』……。間違いなく、その人だった。

「なんで…………、なんでこんな…………」

 ここが過疎な田舎であることをこれほどまでに呪ったことはいまだかつてない。そりゃあ、近くにコンビニはあるし、バスの数は2時間に1度は通っているんだから人里遠く離れたド田舎ではないのかもしれない。しかし、それでも、それなりの田舎であることには変わりない。だから、だから…………。

「なんで…………誰もいないんだよ、ちくしょう……」

 時々、こういった〝誰もいない空白の時間・場所〟というものが生まれてしまうのもまた当然で。

「お前は…………一体なにをしているんだよおおおおおおおおおおおおおおお!」

 近くに背を向けた何者かに挨拶代りの右ストレートを算が叩きこむのもまた当然の流れであった。疑いの余地はまったくない。もしかしたらその右手のべったりと塗れた赤い何かはケチャップかトマトジュースの類なのかもしれないが、それだったらそれでそんな紛らわしいことをしている奴の方が圧倒的に悪い。

 拳の皮はあちらこちらがめくれ、血で染まった。一条(・・)を(・)岩(・)で(・)殴った(・・・・)狼藉者(・・・)を算は何度も、何度でも殴った。気が付けば、狼藉者は動かなくなっていた。そして算は気付いた。自分は、晴れて殺人者になってしまったのだと。

 算は、自分が不気味な人間であることを、この時点ではっきりと気が付いた。自分は衝動的に人を殺しているのではない。最初の一撃はたしかに感情的な、突発的なものだった。しかし、人間というものは頑丈で、最初の人間の肉体から放たれる一撃ではなかなか死ぬことはない。しかし、今、自分は考えながら人を殴っている。その事実に、少し驚いた。見る人が見れば錯乱状態の、一種の興奮状態で、言ってしまえば殴っても仕方のない状況下ではある。しかし、算はそのことすらも頭に入れて人間を殴っている。

 まず、この一条を殴った人間の顔を算は見たことがあった。

 ときどきこの辺をぶらぶら歩いている人間だった。

 見るからに精神に異常をきたしている人間で、時々理解ができない奇声をあげていた。別に肩がぶつかてもいない、その他一切の接触がないのにもかかわらず突然奇声をあげたと思いきや喧嘩をふっかけてくる(しかも何を言っているのかわからない)ことだって珍しくはなかった。ときには車が往来する狭い道路の真ん中で大の字になって寝そべるなんてこともあった。そんなような精神異常者がこの周りにはいたのだ。

 間違いなく、精神病の患者か、もしくは何かしらの障害をもつ人間であった。

 算は別に障害を持っている人間や、精神に何か異常をきたしている人間が嫌いなわけではない。しかし、他の人間に害をなすような人間は事情がかわる。

 精神に異常をきたしているから罪には問われない? 罪を憎むべきで人間を憎むべきではない? 馬鹿げている。もしかしたらこいつはきちんと逮捕されるかもしれないが、そのあときちんと無罪になる可能性だってある。この世界には人権というものをそれこそ、被害者、被害者遺族のプライバシーより大切にしようとしている人間がごまんといるのだ。別にそれに対して義憤を抱く算ではなかった。〝それは仕方のないことだ〟とすら思っていた。しかし、加えて、〝法律で守られていたとしても、だからといって安心するものではない〟という考えを算は思っていた。精神に異常をきたすと認められるもの、責任能力がないと認められれば無罪となる、なんて法律がなかったら、俺はきっと、この精神異常者の命を取ろうとまでは思わなかっただろう。恨むなら、この世の中を恨んでほしい。

 

 そしてそれらとまったく同じく、俺自身も犯罪者になってしまったのだと、算は静かに理解した。もう、永遠に普通の人間にはなれないのだ。粘度の高い泥沼に足を踏み入れた感触を、算はたしかに感じた。静かに、感じた。これからの人生、算は決して、普通の人生を歩むことはできない。簡単に一言で普通の人生、といってしまったがそれはかなり幅の広い意味での普通だ。もう算は、アメリカの地でグランドキャニオンをこの目で見ることはできないし、アンコールワットを見ることもできない。モノ湖のトゥファも見ることができない。もちろん、算は海外に行くなんて目標は持っていなかった。しかし、『行かない』と、『行けない』というのは大きな差がある。人間は、選択肢があるからこそ、自由の民なのだ。そして、その選択肢の数が多ければ大きいほど、選択肢の幅が広ければ広いほど、それはより大きな翼をもった人間となる。そして算は、ここで、人を、それがいったいどんな人間であったかどうかはさておき、人を殺してしまった。その瞬間に算という人間は社会的に死んでしまったのだ。もう二度と、生き返ることはない。どんな方法においても、ひとたび死の床についた人間が生き返ることはないのだ。一度社会的に死んでしまった人間は腐り、静かに生命が消えるのを待つだけだ。しかし不思議と後悔はしていなかった。自分は殺そうと思って殺した。決して、感情に任せて、自分を見失って殺したわけではない。自分、算六夜という人間が自分で選びとってこの精神異常者を殺した。その事実がある限り、算六夜は後悔などしない。もし後悔というものがあるとすればそれは、自分がこの精神異常者を殺してしまった事実ではなく、この精神異常異常者に一条が殺されてしまった事実に対してだった。しかしそれすらも、と思う。自分い手の届く範囲での出来事ならともかく、自分には決して手の届かない範囲で死んでしまったのだ。それは、仕方ないことなのだ。……そう思うことにした。今までの思考とまったく同じように。

 胸からこみ上げる何かを抑えながら必死に算は考え続けた。これから自分がすべきことを。何をなして、何をなさぬべきかを。


 一度、二度息をし、彼は公衆電話を探し、110番をした。殺人事件が起きたことを警察に伝えた。自分のクラスメイトが殺されたこと、そして、そのクラスメイトを殺した人間を、自分が殺したことを、淡々と電話で伝えた。そして、無駄であることはわかってはいたが、119番もかけた。自分の死亡判定は間違っているのだと、1パーセントにも満たないであろう可能性にかけたかった。心臓が動いていなくとも、死んでいないことはあり得るのではないだろうか。自分が知らない医療に、すべてをかけたかった。

 このとき、算は夢にも思っていなかった。人を、もう一度殺すことに、なるなんて。

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