下駄の男

めけめけ

第1章 傘がない

第1話 天気予報はあてにしない


『今日の東京地方の予報は、晴れのち曇り。ところによって、にわか雨が降るでしょう』



 BGMは、ロッド・スチュワートのディス・オールド・ハーツ・オブ・マイン。だが、オリジナルは、確かそう、モータウンのなんとかブラザーズ。


「今日は、傘がいるなぁ……」


 支度を済ませ、お気に入りのマグカップに注がれたインスタントコーヒーをからだに流し込む。


「ところによりにわか雨か……」


 心が揺らぐ。どこかうきうきしている自分自身に嫌悪感を覚える。


 あの日の昼間も、予報を見ていなければ、雨になるとは思えないような快晴だった。


 あの日私が体験したこと――。それは、決して私にとって『不幸な出来事』ではなかった。しかし幸運と思うこともできなかったし、どちらかといえば後悔している。


 人が後悔の念にとらわれる時、『あの時、ああしておけばよかった』とか『あんなことをしなければよかった』と自らの行動に対して、やり直したいという気持ちにかられるのだと思う。


 しかし、私の言う『後悔』とは、あの時、あの場所に行って、何度試しても、結果的に、何も変えることはできないのではという無力感を伴うものであり、もはや『自分の存在を否定するしかない』という、救いのないたぐいのものである。


 更に一巡して、自らの業というものを受け入れることで、今日の平静を保つ事に甘んじてしまっている自らの軟弱さこそが、真の後悔の対象なのである。いや、単に自責の念といったほうが、わかりやすい。


 確かにあの日、あの時、朝の天気予報を見なければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。たとえ見たとしても、それを信じるか信じないか、備えるか、しないのかで、あの夜、偶発的な出来事に遭遇することは、なかっただろう。


 だからこそ、こんな天気の日には……。


 『私は、いてもたっても、いられないのである』


 願わくは、私の周りの人すべてが、急な雨にも困らないように、傘を持って出かけて欲しい。不幸な事故にあわないためにも。


 雨が降る日は、交通事故が多発する。とくに今日のような天候が不安定な日に多いそうだ。急に視界が悪くなるとか、路面が濡れてブレーキが利きにくくなるとか、歩行者なら傘のせいで視界がさえぎられるとか、容易に想像できることだ。

 一説には、急に気圧が下がると、人間はイライラしたり、注意力が散漫になったりするという研究報告もあるらしいが、これは多分エセ科学のたぐいだろう。


 統計は時に嘘をつく。望んだ研究結果を導き出そうと思えば、数字はそういう見え方をするものだ。しかし、私が否定的なのは、それだけが理由ではない。


 それだけではないのだ。


 雨の日に、いらいらしないが、うきうきする。注意力が散漫にならずに、洞察力が研ぎ澄まされる。


 そう。このような、私の例もあるのだから……。


 『目覚ましは使わない』


 朝起きるとテレビのスイッチを入れ、朝の情報番組に耳を傾けながら身支度を始める。今朝はこれといって大きなニュースがない。


 芸能ニュース、毎回繰り返される政治の醜態――。もう、うんざりだ。


 私が家を出る時間までに、この番組の天気予報のコーナーは始まらない。


 それに――。


 『天気予報はあてにしない』


 部屋から仕事場までは、歩いて10分。オフィスには置き傘がある。帰りに雨に降られようが問題はない。だから天気予報を気にすることはない。だがその日、私が支度を済ませ、テレビを消そうとしたとき、番組のテーマが異常気象の話題になっていた。雨の少ない梅雨、そして、梅雨が明けたと宣言したとたんにゲリラ豪雨が頻発した。


 どうやら、午後には強い雨が降るらしい。

「ちぃっ! 雨かぁ」


 ふと、レンタルショップで借りていた「あの」DVDのことを思い出した。

「今日が返却日かぁ」


 普段なら仕事場から帰ってきて、食事やシャワーを済ましてからDVDを返却しに行く。部屋から歩いて5分。返却したら、次に借りるDVDをいろいろと物色する。借りるのは一本だけ。選ぶのにかかる時間は、長いときで一時間くらいになる。


 帰り道。


 途中にあるコンビニエンスストアに立ち寄る。その日借りてきたDVDにあわせて、ピーナッツやポテトチップスなどのスナック菓子と、ビーフジャーキーやチーズと缶ビールを買う。


『発泡酒は買わない』


 週に一度の楽しみだ。発泡酒は何か誤魔化されている様で好きになれない。味の問題ではない。私は、ビールが飲みたいのだ。


 だが、しかし問題はあのDVDだ。


 全ての準備が不意になる瞬間――。大いなる落胆とそれ以上の憤り。


 あのDVD。


 劇場公開当時、それなりに話題になった作品で、レンタルが開始され、その映画専用の棚に、ずらりと空のDVDケースが並ぶ。借りようと思っても、いつも貸し出し中になっていた。


 次こそは、次こそは。


 じらされればじらされるほど、いつの間にか作品への期待も高まる。これはどうしようもないことだ。しかし、あのDVDはひどすぎた。前作が低予算にもかかわらず、斬新なアイデアと、奇想天外な展開で、見るものを引き付け口コミでじわじわと高評価を得て話題となっていた。


 あれはよかった。


 満を持して公開した新進気鋭の監督の2作品目。それなりの制作費をかけて、それなりの著名な俳優を使い、映画館での観客動員数も上々だった。雑誌の評判も悪くなかった。

 だが、この内容――。


 お前ら頭がどうかしているだろう!


 『あのDVD』を再生して30分も経たないうちに私は、そう吐き捨てていた。わざわざ雨の中『あのDVD』を返すために出かけて行くのは面倒に思えた。だから私は、『あのDVD』をカバンに入れて、仕事帰りに返却することにした。


 今日の夕飯は、外で済まそう。


 たぶん、『あのDVD』を借りて観た人なら、わかってくれるはずだと思う。コーヒーに砂糖を入れたり、ヨーグルトにコンデンスミルクをかけて食べるような人でなければ、きっと私と同じ気持ちのはずだ。あんな駄作を喜んで観る奴は、脳みそが砂糖で溶けているにちがいない。私はそう思う。



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