第1話 私達の今 -4-

 琥太こたの相撲を初めて見たのは幼稚園の年長の時。福岡の寺留実じるみ市という場所で毎年行われる祭にあいつが代表として出るからと、曽祖父の呼びかけもあり家族で行った時のことだった。

 あの町は相撲が盛んらしく、子供の裸体を神様に捧げて子供達の健康やら安全やら、更には都合よく町の五穀豊穣だの何だのと願い事を羅列してはその全てを叶えてもらおうとするのだ。調子の良いこと。幼心に私はそう思っていたことを覚えている。

 相撲自体、興味が全くない。あの町では女の子も大勢相撲に取り組んでいるらしく、よく新相撲ではあの町のニュースが流れたり新聞に載っていたりするものだ。私はあの町の生まれでなくて本気で良かったと、心の奥底から思っている。

 それはそうとその祭のメインイベントだった相撲で、琥太は負けた。相手は琥太の幼馴染で、私もよく知っている。元気げんきという名前の、ブラジル人とのハーフ。琥太も大きいのに、それに輪をかけて大きい。いつでも琥太と一緒に相撲をやっている連中の中で、体重が一番重たい威圧感まみれの奴だ。

 私が見たその一番では、長い勝負にはなったものの、結局琥太は元気の体格差による力の差で投げ飛ばされてしまった。その一番しか、私は琥太の相撲を見たことがない。というのに――


 高校入学以降、ピアノのコンクールで結果が振るわなくなったが、今年に至ってはレッスンでさえも振るわないらしい。じわりと額が汗ばんでいくような、纏わり付く水分を含んだ粒子の刷り込まれる感覚を厭うようにしながら奏でられる旋律を一通り聴き終わって師匠せんせいは、

「困った、なぁ……」

 とぽつり、声を漏らす。そして、私も困る訳だ。指導者が困ってどうする。そんな風に思って。

「柚眞、君は譜面にもっと集中するべきだ」

 そんな単純な指摘を受け、私は生返事な頷きを返しながら、

『そんなこと、わかってる』

 手話や筆談器――タブレット型で、タッチペンを用いて意思疎通を図る結構、いやかなり丈夫な金属製のツールだ――を使わなければ人に伝えられない私は、師匠せんせいにその気持ちを伝えないままでいる。

 私は譜面をあまり演奏しながら見ていない事が多い。何せ何度か弾いてしまえば音は頭に残り、それらが私に教えるのだ。次はここだ、こういう風に運指して、そんな風に弾いていればミスは一切無いから。

「ミスが無いのは君の一つの魅力だ。でもね、ミスが無いだけならロボットの方がより良いんだよ。君の演奏は……」 

 そういう風に続く言葉に私は筆談器て返す。

『ロボットのなり損ね、ですか?』

 その文字を見て、師匠せんせいは、

「……いや、それなら、まだ良かったと思うよ」

 とだけ言って、黙ってしまった。黙ったまま、次の指示がない。

『じゃあ次、私はどうすれば良いですか?』

 と、指示を仰ぐ。

「…………」

 言葉が、続いてこない。おし黙っているままだ。師匠せんせいの沈黙はレッスンを受ける教室の空気を冷たいものに変えていき、互いの両肩や頭にかかる重力を否応もなく強めていく。その重力に耐えるようにして、私は右腕を左肘に引っ掛けて目を閉じてしまう。その瞬間に口が開かれる。

「いや、もうめだ」

 口が大仰な重みを持っているかのような、苦々しい口調だった。それだけの意味を含ませたかったのかもしれない。かつてドイツを始め、世界各国でコンサートを成功させ、指導者としても優れた人。そんな人を父や曾祖父が見つけて口説き、師匠せんせいになってくれたような人だったのに、匙を投げたのだ。

『…………』

 私も、これには流石に絶句せざるを得なかった。

「君は、あれからちっとも変わらないんだ。自分の出す音に振り回され、何もコントロールできていない。君は譜面を正確に、ロボットのように弾いているのかも知れないが、実際はロボットにもなれていないし、まともな演奏者にもなっちゃいない。そこでとどまっているんだよ。そして子どものような楽しさだって微塵も持っていないんだ。何の為に君はピアノを弾いているんだ。君はピアノを弾く事が楽しいのか?」

 一気に、堰を切ったように溢れ出す師匠せんせいの言葉を聞きながら、私は、

『……………………』

 何も言葉が出てこなかった。

 正確じゃない? 私は演奏に際してミスなどしていないはずだ。譜面に描かれた情報の読み損ねや弾き損じ等、断じてない。

 感情がダメなのか? 楽しい? どういう意味だろう。私はピアノが楽しいと思った事はない。一度もない。

 本当に子どものように、楽しそうにピアノを弾く大人のプロを、私は知っているが、私から見れば、何が楽しいのだろう、どうして楽しいのだろうと疑問に思えてならない。

 要するにバカみたいに思えてくるのだ。そういう風にピアノを弾く事が偉いのか? そんな風にピアノを弾くから素晴らしいのか? そんな表層的事柄しか周囲は見られないものなのか? そういう疑問が私の中にはいつだってあって、そして今の師匠せんせいの言葉はそんな私の疑問に対する「うん、そうだよ」という首肯にも等しいものだった。言葉が出ない。つまりは落胆だ。私は師匠せんせいの肯定と、私に対して並べようとしているハードルに対して、落胆した。

「……しばらく君はピアノから離れるべきかも、知れないと思ったんだよ。お父様にもそうお話ししている。けど、もし戻れるのなら、君がちゃんと演奏出来る状態になれそうならば、また戻ってくるといい。時間と距離を、置こう」

 せんせい、と呼んでも師匠ししょうとして敬え。父の教えだ。師と敬っているはずの人が目の前で述べた言葉は、一種の敗北宣言とも取れて、一層私の落胆は深まっていき、帰りの東西線の電車の中、私の見る光景に色なんてものはないように見えた。

 私が無言のまま家に入り込んだその瞬間を母が見ていた。父は貫太を含め門下生の指導をしていたからそこに同席する事はない。

「…………」

『…………』

 母は何も私に言わなかった。私も何も母に言わなかった。お互いに言えなかった、なのかも知れない。昨日の今日で、言えばまた私から責められると思ったかもしれない。思わせている私は、何も言わないでいて、それでなお私と目が合った時に微笑もうとする母のその姿に、またイライラを募らせていた。

「お帰り、なさい」

 母からの控えめな声を私は一方的にやり過ごした。聞こえないふりをしたのだ。流石に、自分勝手だ。そう思ったが、だからどうしろというのか。ため息だけ小さく吐いた私は、ピアノの部屋、ピアノに触れる事も出来ずにただ、そこにごろんと横になることしか出来なかった。ピアノに触れる、ということすらも、今の私には許されないような気がして。

 それでもって、『許されない』、とは一体どういうことなのか、それは全くわからないままで。

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