第1話 私達の今 -4-
あの町は相撲が盛んらしく、子供の裸体を神様に捧げて子供達の健康やら安全やら、更には都合よく町の五穀豊穣だの何だのと願い事を羅列してはその全てを叶えてもらおうとするのだ。調子の良いこと。幼心に私はそう思っていたことを覚えている。
相撲自体、興味が全くない。あの町では女の子も大勢相撲に取り組んでいるらしく、よく新相撲ではあの町のニュースが流れたり新聞に載っていたりするものだ。私はあの町の生まれでなくて本気で良かったと、心の奥底から思っている。
それはそうとその祭のメインイベントだった相撲で、琥太は負けた。相手は琥太の幼馴染で、私もよく知っている。
私が見たその一番では、長い勝負にはなったものの、結局琥太は元気の体格差による力の差で投げ飛ばされてしまった。その一番しか、私は琥太の相撲を見たことがない。というのに――
高校入学以降、ピアノのコンクールで結果が振るわなくなったが、今年に至ってはレッスンでさえも振るわないらしい。じわりと額が汗ばんでいくような、纏わり付く水分を含んだ粒子の刷り込まれる感覚を厭うようにしながら奏でられる旋律を一通り聴き終わって
「困った、なぁ……」
とぽつり、声を漏らす。そして、私も困る訳だ。指導者が困ってどうする。そんな風に思って。
「柚眞、君は譜面にもっと集中するべきだ」
そんな単純な指摘を受け、私は生返事な頷きを返しながら、
『そんなこと、わかってる』
手話や筆談器――タブレット型で、タッチペンを用いて意思疎通を図る結構、いやかなり丈夫な金属製のツールだ――を使わなければ人に伝えられない私は、
私は譜面をあまり演奏しながら見ていない事が多い。何せ何度か弾いてしまえば音は頭に残り、それらが私に教えるのだ。次はここだ、こういう風に運指して、そんな風に弾いていればミスは一切無いから。
「ミスが無いのは君の一つの魅力だ。でもね、ミスが無いだけならロボットの方がより良いんだよ。君の演奏は……」
そういう風に続く言葉に私は筆談器て返す。
『ロボットのなり損ね、ですか?』
その文字を見て、
「……いや、それなら、まだ良かったと思うよ」
とだけ言って、黙ってしまった。黙ったまま、次の指示がない。
『じゃあ次、私はどうすれば良いですか?』
と、指示を仰ぐ。
「…………」
言葉が、続いてこない。おし黙っているままだ。
「いや、もう
口が大仰な重みを持っているかのような、苦々しい口調だった。それだけの意味を含ませたかったのかもしれない。かつてドイツを始め、世界各国でコンサートを成功させ、指導者としても優れた人。そんな人を父や曾祖父が見つけて口説き、
『…………』
私も、これには流石に絶句せざるを得なかった。
「君は、あれからちっとも変わらないんだ。自分の出す音に振り回され、何もコントロールできていない。君は譜面を正確に、ロボットのように弾いているのかも知れないが、実際はロボットにもなれていないし、まともな演奏者にもなっちゃいない。そこで
一気に、堰を切ったように溢れ出す
『……………………』
何も言葉が出てこなかった。
正確じゃない? 私は演奏に際してミスなどしていないはずだ。譜面に描かれた情報の読み損ねや弾き損じ等、断じてない。
感情がダメなのか? 楽しい? どういう意味だろう。私はピアノが楽しいと思った事はない。一度もない。
本当に子どものように、楽しそうにピアノを弾く大人のプロを、私は知っているが、私から見れば、何が楽しいのだろう、どうして楽しいのだろうと疑問に思えてならない。
要するにバカみたいに思えてくるのだ。そういう風にピアノを弾く事が偉いのか? そんな風にピアノを弾くから素晴らしいのか? そんな表層的事柄しか周囲は見られないものなのか? そういう疑問が私の中にはいつだってあって、そして今の
「……しばらく君はピアノから離れるべきかも、知れないと思ったんだよ。お父様にもそうお話ししている。けど、もし戻れるのなら、君がちゃんと演奏出来る状態になれそうならば、また戻ってくるといい。時間と距離を、置こう」
せんせい、と呼んでも
私が無言のまま家に入り込んだその瞬間を母が見ていた。父は貫太を含め門下生の指導をしていたからそこに同席する事はない。
「…………」
『…………』
母は何も私に言わなかった。私も何も母に言わなかった。お互いに言えなかった、なのかも知れない。昨日の今日で、言えばまた私から責められると思ったかもしれない。思わせている私は、何も言わないでいて、それでなお私と目が合った時に微笑もうとする母のその姿に、またイライラを募らせていた。
「お帰り、なさい」
母からの控えめな声を私は一方的にやり過ごした。聞こえないふりをしたのだ。流石に、自分勝手だ。そう思ったが、だからどうしろというのか。ため息だけ小さく吐いた私は、ピアノの部屋、ピアノに触れる事も出来ずにただ、そこにごろんと横になることしか出来なかった。ピアノに触れる、ということすらも、今の私には許されないような気がして。
それでもって、『許されない』、とは一体どういうことなのか、それは全くわからないままで。
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