第1話 私達の今 -2-

「…………」

 互いに沈黙する時間が数秒。その後、

『ごめん』

 軽く手話で言う。謝る私も、何で謝っているのかわからない。

「いいえ。いいんですよ。お母さんも、いっつも柚眞のことを傷つけてしまうから……」

 軽く泣きそうになっている母の顔を、直視出来ない。私に流れる苛立ちも、母が抱く遠慮がちな優しさも、何もかもわからないくせ、イライラする。

「ダメだよ。柚眞」

 背中越しに聞こえてくる、父の声。

「柚眞、どうして謝っているのかわからないまま謝ったって、しょうがないんじゃないかな」

 穏やかな物腰で、そして刺し貫くような視線と声。目が見えないはずの父は、一瞬の内に私の腰掛ける椅子の眼前で膝をつき、私に手を差し出した。

「柚眞。お前が謝ってたのはお母さんの言葉から察しがつくよ。でも、お母さんに何を謝るんだい。言ってごらんよ」

 この父親の様子からすると、きっと気配を消して部屋の側で聞き耳をたてていたのだろうとわかった。私の言葉は手話で、目の見えない父親には私が何を言ったのかはわからなかっただろうが、母の狼狽ろうばいする言葉だけで、きっと十分だっただろう。

 きっと、娘は母を追いつめなじったのだと結論づけただろう。……それは、間違ってはいないか。

 けれども、しゃくだとも思う。私が謝る理由を見付けられないのを、きっと父は悟っていて、それであえて今の質問を私にぶつけている。

 そんな型通りの謝罪に、何の意味がある?

 その問いに、私は見事答えられることなどなく、沈黙する以外にないのだ。

「コンクールから、全く変わらない」

 父が話してくる。普段閉じられた双眸そうぼうが開かれていて、その眼差しが私に刺さる。一気に、苦しくなる。全てを見透かすような、鋭く尖り、私の内側を穿うがつような、隠し事も秘め事も、何もかもを露にする眼が、怖い。眼を背ける。

「今、多分だけど、僕の眼から視線を逸らしたね」

 その多分、が外れた事は一度も無い。

「いいかい柚眞。お前は腕前、技の部分では抜きん出ている。だがいつの間にか自分を律する事ができなくなっているんだ。勝手をする、暴れ回る自分の中の自分を、律する事もできないまま、音楽を奏でている。その未熟さが、こっち側にまで伝わってくるようだったよ……」

『…………ッ!』

 父親の手を力一杯に握る。目の見えない父親に私が言葉を伝える為に覚えさせられた指点字。耳は聞こえても、言葉を話す事だけができない、構音障害の私が、ようやく父に思いを伝えられるようになったその手段を用いて、言えた言葉なんて、

『ピアノのことも! 音楽のことも! 何も知らないくせに言う事だけは一人前か! 素人のくせに! ふざけるなド素人が!』


 ……振り返るだけでみっともなくて死にたくなる。しかもだ。

「これは先生にも確認を取って、その上で言っている言葉だよ。先生も、同じ意見だってさ」

 というおまけ付き。私の師からのお墨付きまでもらえるような見解を父は持っていて、流石にどっぺりとくる。うんざりした心地で、私はピアノを弾いていた。

 コンクール用の気が利いた楽曲なんかではない。猫踏んじゃった、だ。それも、がっちゃんがっちゃんと打ち付けるように、乱暴に。反抗期のガキかと我ながら思って、弾き終わった後に、自分一人で勝手に笑っていて、さぞ滑稽だ。ここに鏡がなくて良かった。もしもあったら、本当に死にたくなっていた。

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