第9話 もう一つの2010年


目が覚めると何やら生温かいモノの上にいた。その生温かいモノが何なんのか気になってゆっくりと瞼を開いた。そこは一面鼠色をしていた。コンクリートだ、そして水平線には錆び付いた鉄柵が見えた。ここはどこかの屋上だと気が付き、徐に起き上がろうとした。しかし自分はこのコンクリートから生まれて来たのではないかと思えるほど、それほど体が生温かいコンクリートから離れることを拒んでいた。うつ伏せから仰向けになり天を正面に見た。そこにあった空が赤色から橙色黄色紫色とグラデーションをしていて何とも言えず溜息が出た。このままこうしているわけにもいかないだろうと、全身を力ませやっとの思いで立ち上がった。ふと刺すような痛みを感じ腹辺りを擦った。しかしそこには微かに残る古傷があるだけだった。「そうだ。私は過去から戻って来たんだ」そんな大事なことを思い出した私は長ズボンのポケットに手を突っ込んだ。そこには間違いなく携帯電話が入っていた。液晶画面を覗くと、2010年8月1だった。どうやら元の時代に戻れたようだ。辺りを見渡した。向こうの方に緑色のシートに包まれた二階建ほどの建物が見えた。私が戻った場所は明日校舎と共に壊される鉄筋コンクリート造りの体育館の屋上のようだった。重い足を交互に動かしながら改めて周りを見渡すと同じ屋上に夕日を見ながら泣いている男の人がいた。「どうしたのですか?」そう聞いた私は男から三メートル程の距離に立っていた。男はゆっくりと振り返ると、「お前に突かれた目ん玉が痛いんじゃ!」顔半分を埋め尽くす大きな眼から流していたのは涙ではなった。それは赤黒いモノ、どろどろと流れ出るそれは、大量の血液だった。「あっ」思はず口から漏れた言葉と同時に私はその場で腰を抜かした。大きくて真っ黒い目ん玉から流れ出るどろどろ。「おまえのせいで僕は死ぬんだ」のっそのっそと体を左右に動かしながら、男は私の方へとやって来た。大きな身体はボロ切れで出来たシャツと七分程の長さのズボンで隠れていたが、それでも見える部位一つ一つが人間の憎悪の塊から出来ているように醜い灰褐色をしていた。そう、目の前に立って今まさに私を飲まんとしているのは、あの言霊。私たちが行った時代にまだ少年の程の大きさしかなかった言霊の男の子だった。「どうしてそんなに大きな体になったんだ?」「今おまえが感じたまんまさ、人間の憎悪が僕をここまで大きくしてくれたんだ。それなのに、おまえが僕の拵えた成果をないモノにしてくれたから、僕の内臓が無くなっちゃたんだ」私は尻餅をついたままゆっくりと後退りをした。「どうしてあの兄妹を成仏させたんだ?あいつ等の根深い悲しみがないと僕はこの世に存在出来ないというのに」おっかなかった。目の前で流れ出る血も、一言一言話す度に降り掛かる唾も、のそのそと動く大きくて裸足の真っ黒い足も、目の前で動く化け物の全てに私はビクついた。それでも話すことを続けた。「じゃあどうしてまだ生きているんだよ?」「おまえを殺す為だ」言葉に詰まった私の表情を見透かすように男は続けた。「それにこの時代なら、あの女も邪魔は出来ない。思う存分おまえを嬲り殺せる」「古の言霊がどうしてこの時代には来られないんだ?」たじろいでいるはずなのに、口だけは動くことを止めなかった。「おまえら人間のお陰だよ。この時代では自然からの威力はほとんど無い。だからあの女もこの時代には存在出来ないんだ。おまえら人間の素晴らしい行動のお陰でな。つまりこの時代は僕ら人間が作った言霊の天国ってわけだ。だからお前を助けてくれるモノは何もいない」「でも、それでも、君に私を殺すことは出来ない。それは私が誰からも恨まれてはいないから」力を込めた瞳でもどろどろの目ん玉と対峙しては迫力に欠けていた。「おまえが恨まれているかどうかなんて、もうどうでもいい問題だ。自然界の言霊が強い時代は終わったんだよ。この時代は僕らのモノ。力があれば好き勝手出来る」そう言うと男は全身を覆い尽くす毛のようなモノを逆立てた。本当に私は殺されるのか。それに気がついても、逃げ出せる力など今の私には残されていないようだった。時空を行き来したことで自らの限界点まで体力を消耗しきっていたのだ。だからもう動けない。私の心を諦めが覆い尽したのを感じ取った男が大きく手を振り上げていた。私は顔を下げ動かなくなった男の足の爪を確認したのを最後に目を瞑った。目を瞑り普段手も合わせない神に向け必死で祈っていた。無宗教の私にはどの神様が護ってくれるのだろうと思いながらも何かを祈らずにはいられなかった。目の前の言霊よりも力を持った存在に縋りたい一心だった。しかし何者かの力で私の瞼は抉じ開けられた。恐れがなくなったわけではなかったが、諦めが覚悟を定めた私の一度は閉じた目が再び開いた。そこにあったモノは男の表情が強張ったまま固まっている景観だった。そして男の振り上げたはずの腕が力なく下ろされると、ずっと私を捕らえて離さなかった目ん玉が初めて地面へと向けられた。「残念ながらその力は僕にはもう残ってはいないみたいだ。だから代わりに僕の最期をおまえに見せてやるよ。でも忘れるな!この時代は僕ら人間言霊の世界だということを」そこまで話すと男のぎょろぎょろの眼が微かだが悲しみを帯びたように感じた瞬間、頭からどろどろと融け始めた。その光景に私は思はず目を背けた。立ち込める黒い煙、それと共に放たれた物凄い異臭で鼻が捥げそうだった。顔の原型もほとんど無くなり、あの目ん玉さえも融け出した頃、男が最後に口を開いた。「でも君には素晴らしいプレゼントを用意してあるよ」「な、何だよ、プレゼントって?」「きっと喜んでくれると思うよ」そう言って笑ったように見えた口元も既に融けて煙りとなっていた。それでも大きくて毛もくじゃらな手がゆっくりと私の方へと伸びて来た。思はず目を瞑ったが、そのとき何者かが耳元で話したように感じた。男の最期をきちんと見届けろと。その言葉が本当に誰かによって私に放たれたかは分からなかったが、目は再び開かれた。そこにあった光景は腕の方はほとんどが凄まじい量の真っ黒い煙を放ちながら気化していくものだった。残った指先だけが私の目の前五センチ程にまで到達していた。だから目を瞑りたいのに、力を入れれば入れるほど私の目ん玉が外に飛び出しそうなに見開いた。刺さる!と同時に、私の目ん玉に凍るほどの冷たさを感じた瞬間、男の指先がモクモクと煙へ変化をした。間一髪で助かったようだった。

硬直していた私の体が自由を取り戻した。男の煙も大気に飲み込まれた。もう一度屋上全体を見渡したが、もう誰もいなかった。一緒に戻って来たはずの三人の姿も勿論なかった。どうにか立ち上がり屋上から下りる階段を目指した。既に日は沈み辺りは段々と黒ずんで来ていた。薄暗い校舎の中に入った途端にまたあの男の子がいるのではないかと目を凝らした。そして安全を確認してから階段を下り始めた。男の子がいなくても、いくら私が大人でも、夜間近の学校は不気味さを感じたが、一段一段下りる度に疲れの方が上回った。やっとの思いで一階まで下りるとそのまま外へと出ることも出来たが、私は緑のシートで覆われた木造二階建の建物へと入った。音楽室、理科室の前を通り入口まで這うように進んだ。勿論そこまでの道のりでジャイアンに会うことはなかったから、体罰も受けずに済んだ。そして下駄箱の所で足を止めた。私が見詰めている先にあるモノは前に見た時とは明らかに違う、痩せ細った大黒柱の姿だった。あの悠然としたタイボクの姿はなくなっていた。そしてどこか温かくて親近感がわくモノになっていた。その木に私は深々と頭を下げた。「あなただったんですね。私たちを過去に送ったのは、そして私を濁流から救ってくれたのは、それと腹の傷も」それからゆっくりとその木に近づき胸ポケットにあったペンを取り出した。相変わらずぎっしりと書き込まれた願い事、そこにあったほんの少しの隙間を見付けた私は、ありがとうと落書きをした。「太郎っ!何悪いことしてんだ?」一瞬ビクッとなり、思はずタイボクから離れて振り返った。下駄箱の横に三人の笑顔があった。数日間見ていた小学生の姿から一気に老け込んだその男たちを哀れにも感じた。「太郎も、やっぱりオヤジだな」しかしそれを先に言ったのは篤志だった。「お互いな」みんな頷いた。そして四人が歩き出した時、「ありがとう」誰かがそう言った気がした。「誰だよ、吉田か?」田中の顔に吉田がキョトンとしていた。「ありがとうって言っただろ?」すると、「俺も聞こえた」篤志だった。だから私も聞こえたと伝えると吉田も右手を上げて目を丸くしていた。ここにいる四人全員が言ったのではなく聞いたのだ。血相を変えて走り出したのは篤志だった。でも私はそれを言ったのが誰だかは直ぐに分かった。振り返るとタイボクが私たちに微笑んでいるようにも見えた。勿論都合のいい勘違いなのだろうが。それでも今回の奇跡を考えると、そしてこのやつれたタイボクの姿を目の当たりにすると何が起こっても不思議ではない気がした。それからオヤジになった四人は共に校門へと歩いた。思い思いの速度で歩いた。校門まで来ると一台の車から完全防備の男が二人私たちに走り寄って来た。そしてあの時代のときと同じようにライトを照らされた。しかしその明りはあの時代一人の警官が翳したモノよりも遥かに白くはるかに明るかった。「ここで何しているんです?」どうやら警備会社の人間のようだ。「こんな田舎の学校でも警備会社入っているんだ」篤志が感心したのか小馬鹿にしたのかは分からない返答をした。「だからあなたたちはここで何してたんです?」「明日、我が母校が無くなってしまうから、だから最後に拝んどきたくなったんです」吉田の答えに一応の納得をしながら、後ろに立っていた男が携帯電話を取り出した。どうやら警察に通報するのだろうと悟った私が、「私ここの取り壊しの現場責任者なんです」そう言って社員証を取り出し、校門に掲げられていた工事看板の自分の名前を指差した。すると前に立っていた男がまだ疑いながらも後ろの男の電話を止めた。「本当は工事関係者でも工事以外の時間は立ち入り禁止なんですから気を付けて下さいよ」口を尖らせながら、二人は軽く頭を下げた四人を目で確認してから車に乗り込んだ。「太郎のお陰で助かったな」「そうだな」田中の言葉に吉田が従った。「この校舎にはもう取られるようなモノがないから、だから許してくれただけだ」私の言葉のあとに少しの沈黙が流れた。それを遮ったのは篤志だった。「でも皮肉なもんだな。許せないはずの太郎の会社のお陰なんだから」その言葉に棘を感じることはなかった。彼は私のことは全く責めなかったのだから。目に飛び込んできた煌々としたコンビニの灯りが、私たちの冒険の終わりを告げていた。そしてそれぞれ誰かが待つ家に帰る為にそれぞれの家路へと着いた。

何日かぶりに戻った家に相変わらず父の姿はなかった。今日が何年何日なのかを確認しようと外のポストを覗いてみた。新聞が三紙と公共料金の請求書、それに近所のピザ屋のチラシが入っていた。ポストにあった新聞から察するにどうやら父親は昨日の夜からこの家を空けているようだ。そして最新の夕刊の日付は2010年8月1日と刷られていた。つまり元の時代に戻った今日という日は過去にタイムスリップしたあの日と同じ日だったのだ。その事実に全てが夢だったんじゃないかと思えて来た。それから一度、家の前に何十年前からずっとそこにある田園風景を確認して再び誰もいないはずの家の玄関を開けた。何十年振りかにこの家に戻り、そのあとにタイムスリップしたあの日と同じ日にタイムスリップを終えこの時代に戻ってきた。そして同じように台所や居間、相変わらず手付かずの私の部屋を覗いたが、やはり人の気配はなかった。それから用を足す為に入った便所にも。捜すことを諦め何か食べようと台所に寄ったが、疲れは食欲をも上回っていたらしく風呂にでも入って寝ることにした。だから過去に行った日の今日、唯一確認をしていなかった風呂場に向かった。ミシミシとなる廊下の先に風呂場はある。風呂場の壁と床こそタイルが貼られていたが、それ以外はすべて木で出来ていて私がこの家を出て行った十数年前から腐り始めていた事を思い出し、恐る恐る微かな外の光に照らされた風呂場を覗いた。そして私は、父親を見つけた。天井の腐りかけていたはずの柱から垂れたロープに首を括ったままの変わり果てた父の姿を。変わり果てて見えたのは惨めな死を遂げているからなのか、それとも久々に見た顔だったからなのかは分からなかった。ただ何かを考えるよりも父の亡骸を床へと下ろしていた。生きているかもしれないという安い善意が働いたわけではない。一目して死んでいることはわかっていたのだから。ただ無意識だった。突然現れた光景に何かを考えるという余裕などなかった。しかし父を下ろすことは容易ではなかった。久々に触れた父親は硬く冷たかった。手はガタガタと震え思うように動いてはくれなかった。どうにか父の首に食い込んでいる堅く結ばれたロープの結び目に指を押し込んだ。ウオサオしていた私の上でミシミシと音がしたかと思えば、その音が段々と大きくなりバキッという音を最後に、真下にあった風呂釜の淵に足を強打しながら父が天井から落下した。「ごめん!」思はず出てしまった言葉だったが、勿論父からの反応などなかった。どうして今更腐りかけていた柱が折れたのかと、父と共に床の上に転がっている柱の破片を見詰めた。暫くそうしながら、もしかしたら父は博打を討ったんじゃないかという思いが支配した。自分の命とこの腐りかけの柱とどっちが脆いかの博打を。そして父は腐りかけの柱に負けたのだ。そんな父の最期を想像し、目の前に転がる遺体を見ながら少しばかり笑ってしまった。父を風呂場から台所の方に運ぶと死んでもなお苦しそうに見える首の周りのロープを解くことに躍起になった。四苦八苦の末どうにかそれを解いた。それからすぐに救急車と警察を呼んだ。そのあとは誰かがこの家の玄関のドアを開けるまで、父の傍を離れ自分の部屋の擦り切れた畳の上に胡坐を掻き、この家の一番遠くから父の方を窺った。しかし首が自由になっただけで彼が動き出すことはなかった。そんな光景を目の当たりにしても父が首を括って死んだのだと理解するまでには暫く時間が掛かりそうだった。少しして静まり返った世界が現実の世界なのか解らなくなりかけた時、ある場所で目が固まった。それは今いる場所の一番奥に見える台所のシンクの中、そこに溜まっていたはずの洗いものはなくなっていた。ある言葉が私を震え上がらせた。「君には素晴らしいプレゼントを用意してあるよ」それは人間言霊が最後に私に向けて放った言葉。そのプレゼントがもしかしたらこれだったんじゃないだろうか。そして今、私の脳裏に誰かによって無理矢理記憶を手繰り寄せられたように思い浮かんだのは、過去に行ったときに母を殴った父に思はず私が叫んだ一言、「父ちゃんなんか死んじゃえばいいのに」その言葉が言霊となり、現代で父親を殺してしまったのではないかという思いだった。胡坐を掻いたまま思い詰めていると、そのまま下半身から段々固まっていくのを感じた。もう2度と動かすことが出来ない石にでもなってしまうのだろうかと考えた。でもそれでもいいのかも、こんな親不幸はそういう最期が相応しいと勝手に自暴していた時、「ガシャッ」という音が私の三半規管を叩いた。そのあとは話し掛けて来た警察の質問にただ答えた。その後ろでは救急隊員が父を運び出していた。

 その夜、本当に一人きりになった家で、大の字になって寝転がり天井を見上げた。シミだらけのその天井が小学生の頃からずっとここにあって、そして私たち家族をバカだなぁと見続けていたんだろうと思った時、深い溜息が毀れた。動きたくなかった。手も足も、瞬きさえもしたくなかった。そして知らない間に私は眠っていた。次の日の早朝、目を覚ますとすぐに頭を整理してみた。そして起こったことが全て現実だったのかを考えた。答えを出せないまま、父が長年使っていた高さ40センチ程の木の机の前に座った。それから静かに机の表面を擦った。父の手の油が沁み込んでいた。それは年季を感じ、愛おしさを感じた。徐に左手で開けた引き出しから白い封筒を見つけた。引き出しに入っていたもので唯一黄ばんでいなかったからすぐに目に付いた。それはどうやら手紙のようだった。父はもう居ないから仕方がないと一応のいい訳をして近くにあったハサミで丁寧に開封した。読み始めてすぐ、それが父の遺書であることを察した。まず始めに父は私に謝っていた。何度も何度も謝っていた。それから何故母と別れることになったのかが綴られていた。そこには旅を終えてもなお知らなかった事実が書かれていた。

太郎元気でしたか。君がこの手紙を見ているということは私はすでにこの世にはいないんだろうね。ごめんな驚かせて。太郎に言っていなかったことがあるね。それは父さんと母さんが何故別れてしまったんか。それは父さんが不甲斐ないからなんだ。当時父さんは多額の借金を抱えて八方塞だった。そんな父さんを助けてくれたのが母さんの再婚相手の男の人なんだ。しかし彼は父さんが作ってしまった借金全額を立て替える代わりに母さんを要求してきた。勿論父さんは反対した。しかし母さんは飲み込んだんだ。それ以外道があるのかって何度も何度も父さんに問い掛けて来たけど、私は何も答えることが出来なかった。だから母さんは決意したんだ。家族を守る為、そして父さんを助ける為に。自ら犠牲になってくれたんだ。勿論全額返せば母さんを取り戻すことは出来た。もう一度家族を一つにすることも出来た。しかし働けど働けどそんな大金作る事が出来ず、いつしか父さんは諦めてしまったんだ。だから父さんが家族みんなを不幸にしてしまったんだ。本当に申し訳なかった。ごめんな、由美子、太郎。

親不幸な私だったのに、両親が私にくれた最後の言葉はどちらもごめんだった。

 そう言えば吉田の姉の事件だが、やはり火事は起こってしまった。しかし当日吉田の姉は急遽仕事を休んでいたらしく、事件には巻き込まれないで済んだ。タイムスリップした時代に吉田が姉に伝えることが出来たからだろう。しかし吉田の姉はもう死んでしまっていて2010年には存在していなかった。彼女は自殺していたのだ。事件のあった日彼女は仕事を休んだ。しかしそのことが周りの眼を疑いの方へと追いやった。それに動かされるように警察は何度も彼女から事情調書を取った。そのせいで周りの眼は完全に彼女を犯人だと決めつけていた。事件の三日前、彼女はその店の店長に好いていることを告白し振られていたという事実が、彼女が犯人であるという仮説を後押ししてしまった。結果的に彼女は自らの潔白を晴らすことをせずに自殺という形を取ってしまった。あのとき時計が言っていた。この時代の人に未来に起こる不幸を伝えてしまうと、それ以上の不幸が起こってしまうと。放火によって命を絶たれてしまうことと、容疑者として扱われそれを苦に自殺してしまうことどちらが不幸なのかは多分本人も分からないだろ。ただ残された家族には後者の方が周りから同情ではなく非難される分、苦しいのかもしれないが。

 父が死んだ次の日、校舎は崩壊していた。朝、作業員や最後まで抗議の為に集まったデモ隊の目の前にあったのは既に崩れ去った木造二階建ての校舎の姿だった。皆が力なくその場に崩れ落ちる中、それでも予定通り体育館などの取り壊しは行われた。少し日が経ってからたまたま通った小学校の前で、あの大黒柱の木がどうなったのだろうと既になくなった元は校舎があった土地を眺めた。あの大黒柱が力尽きてしまったから校舎は崩壊してしまったのだろう。もしかしたら最後に見たあの木が赤らんでいたのは朽ち果てる前の踏ん張りだったのかもしれない。私たちを安全な場所まで送り届ける為の最後の足掻きだったに違いない。私は解体の日仕事を休んだ。父親がこんなことになると仕事は免れることが出来るらしく、したくなかったことをしなくて済んだ私は思はず父に感謝した。

 葬式の時、喪主を務めた私は言葉少なく挨拶を済ませた。姉が母の再婚相手の男性を紹介してきた。「この人が今の私の父親で、高田……」何故そうしてしまったのか、自分でも分からない。気が付いた時には笑顔で私に話し掛けようとしていた男性が、倒れ顔を歪めてこちらを睨んでいた。どうやら私は彼を殴ってしまったようだった。信じてはもらえないだろうが無意識だった。だから何も言わずに謝りもせずにその場に立ち尽くした。姉は暫く固まったあとにアタフタしていた。男性は立ち上がり、私が殴ったらしい口元をハンカチで押さえていた。「あの男が最低だったんじゃない。お父さんは何も悪くない」姉は私以上に興奮していた。というよりも殴ったはずの私自身は驚くほど冷静にその状況を見ていた。だから姉にとって駄目な父親は既に死んだ人になっていたことも知る事が出来た。そのあと男性が私に近づいて来ることはなかった。そして姉と会うのもこれが最後だろうと悟った。

 母は結局十年前に死んでしまっていた。その原因が新しい旦那の元妻による言霊だったかは今となっては調べようがない。少し長生き出来た母とは父と別れた後に二度会う機会を持てた。一度目は確か私が中学生で母は私の身の上を嬉しそうに聞いてくれたし色々と心配してくれた。そして最後に会ったのが高校生のときだったが、既に母は病床でその時はただ父さんの事をよろしく頼むとだけ言われた。しかし結局死に際にも、そして葬式にも出なかった。家族の誰にも私の東京での居場所を教えなかったから。だから私が母の死を知ったときには、既に母は冷たい土の中に埋められたあとだった。

 父の葬儀から数日、この村で唯一人が押し寄せる花火大会がもう何年も前に無くなったからではないが、この村を出て行くことにした。だからいっぱい思い出が詰まっているはずの家族のボロ家を手放すことにした。こんな田舎のボロ家では二束三文にもならなかったが、心のどこかでせいせいしていた。それは多分、死んでしまった今でも父親のことを許すことが出来なかったから。ただ可哀想だとは思った。人生に不器用過ぎて可哀想だと。家族の誰にも心を許せなかった父。本当は家族を母を大好きだった父。そんな父を私は死へと追いやってしまった。婆ちゃんの言い付けも守らずに言霊を発してしまった。父は誰からも愛されなかった。いや母だけは彼女だけは最後まで父のことを愛し続けていたのかもしれない。そして最期の瞬間まで父のことを信じ続けていたのかもしれない。そう考えると父はもしかしたら幸せだったのかもしれない。そしてそんな父を死ぬまで愛した母も幸せだったに違いない。そんな思いが自分勝手に心の中に涌き出た時、冷めきっていた私の心が少しだが温まった気がした。去り際に一度だけ生家に振り返ったとき、何故か止めどなく涙が溢れた。それをどうすることも出来なかったから、そのまま流しておいた。そして願った、誰かを愛したいと心の底から愛したいと。

 東京に戻る朝、プラットホームに私は立った。田中や吉田、篤志が見送りに来てくれた。オヤジになった中村君やブッシュマンの姿もあった。篤志は杉崎を連れて来ていた。今はもう杉崎ではなく時田だったことに気が付き、ひとり口元を緩めた。老けてはしまったが、はにかんだときの笑顔はあの頃と同じで私の好きな笑顔だった。結局最後まで直視することは出来なかった。言葉も二・三個交わしただけで終わった。「またすぐに戻ってこいよ!」「ありがとう」腹の出た田中が言った。「太郎も早く結婚しろよ」「お互い様な」あの夏から吉田は私のことを太郎と呼んでいる。「今度は歓迎してやるよ」「そう願うよ」篤志は憎たらしく笑った。その朝は幾分早い到着に感じた電車に乗り込み再びみんなの方に向いたとき、熱く込み上げるモノをグッと堪えながら扉が閉まるのを待っていた。みんなの声が聞こえなくなったとき、やっと扉が閉まったことを知った。いつまでも手を振っているみんなの姿が単線の向こうに少しずつ小さくなり、そして消えていった。小学生の私があのタイムカプセルに埋めたショウタから貰ったという本が何だったのかは結局解らなかった。今も私の鞄の中にある絵日記にはタイムカプセルに入れたモノは未来の僕への手紙に変えられていた。そこにどんなことを書いたのか私は思い出せない。しかしもう一度掘り出そうとは他の三人も口にしなかった。だからもう二度と掘り出されることはないかもしれない。もしくは、また何十年後かに田中辺りが言い出すのかもしれない。「タイムカプセル掘り出そうぜ!」冒険がしたくなったらきっと言い出すに決まっている。

八月三十一日(水)・となりまちで男の人がとびおりて しんじゃった。

飛び降りた男は埋められた兄妹の父親だったようだ。古の言霊が僕らにして欲しかったこと、それはふたりの子供の無念を晴らすことではなく、ふたりの子供に安らぎを与えてあげることだったのだろう。父親が死んだことで僕らの心は少しだけ晴れ晴れする思いを感じたが、多分あの兄妹は喜んではいないだろう。無念を晴らしてもらっても意味などないと感じていることだろう。



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