第005話 02月18日(木曜日)「残念ながら、魔力は持っていない。貴様と同じだ」

――座標軸:神矢レイジ


 道場から外に出ると、既に日は落ちていた。もう随分と空は暗い。間もなく、この町のあちこちの家で温かい夕餉が始まるのだろう。

 住宅街という、これまでの彼の人生にはあまりにも馴染みの無い場所で、ぼんやりとそんな想像を巡らす。

 見るからに和国人らしさに乏しくいかにも外国人といった風貌の男は、これだけ暗くなればもう目立つことはあるまいと、意識して体の緊張を解いてから歩き始めた。

 道なりに歩みを進め、いつもの坂道へと向かう。


 街灯が灯っている。この辺りは、和国の平均的な風景につきものの電信柱は見当たらない。立っているのは街灯だけだ。電柱と電線が見えないのは、この地域が先の魔女狩りで激戦地だったことの名残、その復興の印だと、あの少女が教えてくれた。

 確かに。この国では九年前に最後の魔女狩りを終結させ、他の先進諸国と同様に、魔女の人権を保障する法律をその後すぐに制定、施行した。当時の破壊の跡も修復されて久しい。今ではこの町も、また町の人たちも、その記憶も薄まってきていることだろう。彼は一人頷く。

 そうして彼は「九年前」のことを思い起こし、その後の和国の状態に安堵のため息を洩らす。しかしその思考に、少し前の出来事が浮かび、それまで穏やかだった彼の表情に影が過った。


 彼が道場を出る時、あの剣道の師範が、もう少し待てば車で送ろうという申し出をしてくれた。それはいいことなのだろうが、彼はそれを断った。というのも、男の物言いに少々不安を感じたからだ。何よりこの日、男の本拠地が西乃市の「北の魔女コミュニティ」にあることがわかり、こう何度も道場に顔を見せたのはまずかったか、と内心舌打ちした程なのだから。

 勿論、沖田ソージ自身は、面白くも興味深い人間ではある。

 最初の自己紹介の「沖田ソージ」の発音から、彼は「起きた、掃除」と連想した。そのことを彼が素直に話すと、「はっはっは、ゴットアップ・アンド・クリーンアップですか!」と爽やかな声色で大笑いされたものだ。「これからはゴットアップでもクリーンアップでも返事をしますよ、好きに呼んでください」などと続けて、どこまで本気か冗談か判らないことまで言ってくる。いずれにせよ、男のそれは真名ではなく通称でしかない。名前に何らかの拘りがある、という性格ではないのだろう。

 そうしてそこから、ソージ自身の命名の要でもある『新選組』の話となった。その数あるムービーの中でオススメはどれか、特に剣術や剣道に役立つシリーズや面白い撮り方をしている監督は誰か、そして史実にまつわる面白い話は何かと、二人の男は大いに盛り上がった。

 そこまでであれば楽しい会話であり、彼にとっては魔力持ち魔力無しの垣根を感じることの無い充実した時間であった、とも言えた。

 だが。

 剣道師範の所属を考えるとあまり親しくなるのは良くないし、いろいろとこちらの懐を探られるのはもっと好ましくない。そう、彼は気を引き締める。

 まずは土曜日、週末の予定を大事にしよう。ナミの件を除けば、今回の訪問、その目的の大部分が、まさにそこにあるのだから。


 さあ、この角を曲がれば暫く道は上り坂になる。その緩やかな坂道は、「彼女」の家の前を通る。今日はただ、それだけ。そう、ただそれだけのことだ。

 そうイメージしながら彼が角を曲がった瞬間、それまでの弛緩した空気とは違う気配を先の方から感じる。何か良からぬことが起こっている空気。諍いか、何か。

 こういう時の自分の勘が外れることは、殆ど無い。そのことを、彼は経験上、よく知っていた。

 やはり、というか。目を進行方向の更に遠くに向けると、坂の上の方で2つの人型をしたものが何やら言い争いをしている様子が彼の目に入ってきた。

 少し足を速め、回避するか、あるいは簡単なものであれば介入も視野に入れて……と判断する前に、その片方が彼の見知った存在であることを、先に聴覚が意識した。やり取りをする声は、彼の苦手とする和語だ。意識してその内容を捕捉するようにしながら、彼は走る。

 ……あれは……!

「……のヤロウ、人間じゃないくせに、でかい顔するんじゃねえ!」

 腕を取られているのは、年端も行かない少女。「彼女」だ。

「この魔女、化け物め!」

「そうよ、わたしは魔女よ。逃げも隠れもしないわ!」

「化け物が! 開き直るんじゃねえ!!」

「放しなさい。大の大人が子どもの魔女一人に、力任せで嫌がらせをして、人として恥ずかしくないの?」

 律儀に説得を続けている少女の声が、どんどんと大きくなってくる、いや、彼がものすごいスピードでその現場へと駆けている、という方が正確か。

 加害者たる男の逆の腕を取る。少なくとも、左右の手に武器類の所持の気配は無い。コートの中に何らかの武器を隠し持っている可能性はありそうだが、それ以前に立ち位置と姿勢で制圧は可能だと、頭ではなく体が判断し、既に彼は行動に移していた。

 ほぼ音もなく後ろから高速で寄ったせいだろう、腕を取られても男は事態を呑み込めていないらしい。

「うわっ」

 彼女から確実に引き離し、空中へと力任せに投げ飛ばす。飛んだ方向へとすぐに走る。地面に転がって呻いている男を、そのまま怒りに任せて三発程殴りつける。どうやら、相手は何の体術も持たない素人らしいことに、制圧してから彼は気づいた。

「……」

 咄嗟に母語で詰問しそうになって、彼はことばを止める。それが、うーっと低いうなり声になって相手の耳に威圧的に響いだのだろう。怯えたような目で地面の男は己を張り倒した相手を見上げ、悪態をついた。

「い、いってぇ……仲間の魔女までいやがったのかよ。お前らはとことん狡い奴らだな!」

 武器類を持っている可能性を踏まえて、彼は構える。だが、男の体から伝わるのは怯えだけで、何かを隠し持っていたとしても相手はそれを引き出せまいと彼は判断する。男は、手も足も、何もできない程に、ガタガタと震えていた。

 威圧も兼ねてさらに殴りつけようかと手を上げかけるが、思い直して、相手の急所を手で締め上げるだけにする。詰問用に喉を潰さないよう手加減はしているが、呼吸は苦しい筈だ。状況次第では、窒息にも持っていける程度には締め付けている。だが、喋るのも苦しいだろうに、男は弱々しくも啖呵を切り続けていた。

「放せよ! この国から出て行け、貴様ら!! この地球からいなくなっちまえっ!!!」

 弱い声と怯えた体の様子。だが、地面の男の憎悪の視線はそのままだ。むしろ強まったと言ってもいい。

「拙者は仲間でも何でもない。ただの通行人だ」

 自分でも呆れるほど間抜けな事を言っているな、と意識のどこかにぼんやりとした感想が浮かんだが、彼は意識して目の前の男を強い目線で睨みつける。

「は、赤毛かよ! ウンコみてぇな面しやがって!! お前も魔女だろうが!!!」

「残念ながら、魔力は持っていない。貴様と同じだ」

 既にナミが2人の傍へと来ている。地面の男の首に強く指を当てていたレイジは、その力を弱めぬまま、一瞬だけ彼女に目線を投げる。どうやら、彼女に怪我は無いらしい。

 無事で、何より。

「ナミ、君は関わるんじゃない!」

 冷静に彼女に話し掛けたかったのだが、気がつくと彼は少女に対して叫ぶように警告を発していた。どうも、自分は思っている以上に、この状況に怒りを抱いているらしい。頭の片隅で、どこか別人のような自分がそう判断をして、そこで初めて彼は自身の落ち着きを取り戻す。

 そして、再び視線に力を込めて、彼は地面の暴漢を睨みつける。腹と首を押さえつけてはいるが、これからどうするか、彼は判断がつかない。ここが戦場ならば、後腐れなく、あっさり首をかき切ってやるのだが。

 この先のことを思い描きながら、窒息しないように注意を払って更に微量の力を指に加えていく。それと同時に、威圧目的で、しばらくは何も言わずに目で相手を射続けた後、低く唸るような声で冷やかに言い渡す。

「それで。このまま警察を呼ばれたいか? それともこのまま骨でも砕いてやろうか? 腕でもアバラでも、部位の希望くらいは聞いてやるぞ」

「やめなさい! レイジ!」

 それまで声の出なかったナミが、ようやく意思を示す。叫んではいるが、女性によくある甲高い声ではない。低く、その中に冷静な意思を乗せていることを、彼は意外に思った。

「ナミ。では、ここで一つだけ君の判断を仰ごう。警察を呼ぶかね?」

「ちょっとどいて。ソレ、抑えつけたままでいいから」

 そう言うと彼女は屈み込み、地面に横たわる男の前髪を掴み上げ、無理やり視線を合わせた。前髪だけで相手の頭を動かすその動作は無造作で、ミドルティーンの女の子とは思えない乱暴なものだ。普段の彼女らしくない所作だと、彼は心のどこかで意識する。

「わたしは、魔女よ。でも、人間よ! 化け物なんかじゃないんだから!!」

 それから、詠唱。彼の知らない、魔法の呪文。

 集中して、真剣に何かを唱えている。彼は邪魔をしないように、しかし驚きを持って、彼女の行為を見つめている。

「……!」

 詠唱が、終了する。

「……わたしはね、あんたみたいな碌でもない人間に、親きょうだいを殺されたのよ!!!」

 投げ捨てるように、男の頭を地面へと放り出す。やはり、乱暴かつ無造作な、手の放し方だ。

 ゴトン。

 男が、気を失い完全に全身の力が抜けた状態で、地面に落ちていた。


 ……


 何か、言わないと、いけないのに。


 ことばが、出ない。


「レイジ、いたの。びっくりしたわー」

 彼より先に音を発したのは、ナミの方だった。先の詠唱、そして今の啖呵のような、緊張した声ではない。これまで何度も会話をしたときと同じ、ごく普通の口調だ。

「大丈夫だったのに。知ってるでしょ、わたしだって拳には自信があるんだから……って」

 どうして貴方、ここにいるの? そう、ナミは続けようとしたのだろう。だが、彼女のことばは続かない。

 2人してしゃがみこんだまま、数秒、無言でお互いを見遣る。

「あ、道場の帰りだったのかしら。ここ、バス道への通り道だものね」

「ナミ!」

 彼が、ようやく声を出す。

「無事か? 怪我は無いか?!」

「あるわけないじゃない」

 気絶した男はひとまず放置だ。レイジは目の前のナミの両脇に手をさし入れ、彼女を持ったまま立ちあがり、彼女を地面へと立たせようとする。特に彼女は抵抗することもなく、彼にされるがまま、持ち上げられていた。

「わたしだって体術もあれば、魔力も使うわよ、こんな時は」

 だから、鍛えているんじゃない。そう言いたげな彼女の瞳。だが、暗いこの位置では、その青色がよく判らない。

「無事なのだな?!」

「ええ、でも……」

 彼に立ち上がらせてもらったというのに、彼女はまたもふらついて、再び地面の近くへと蹲る。支えようと伸ばした彼の手は少し遅く、既に彼女は再びしゃがみこんでしまっていた。

 彼女に合わせて、彼も両膝を地面についた。地面が近い。真っすぐに彼女の顔を見ると、2人の目線、その高さはほぼ同じだった。いつものように彼女に見上げてもらう高さではない。

「この人の記憶を消したわ。この20分くらいの……記憶だけならどうってことないんだけども、直前でこの男の憎悪の念に飲まれたみたい。こうしたリバウンドはどうしても避けられないものだけど、ちょっと大きかったわね。それに、脳神経に影響を与える魔力を、急に、前準備なしで使ったから、ごっそり魔力が持って行かれて。それで、少し腰が抜けそうなだけっていうか……それだけよ」

 だから、大丈夫。怪我は、無いわ。蚊の鳴くような声で、彼女は続けた。

 そうか、と声を掛けたいのに、声にならない。レイジは、彼女の両肩に手を置く。

「これは知っている人物か?」

 彼女は首を横に振りながら、

「見たことの無い人よ」

 と端的に答える。

「そうか」

 そこで彼は、今の彼女の中にはどうやら警察を呼ぶという判断が無いらしいことに気がついた。時間が経っても、彼女はそのままだ。電話をかけるでもなく、ただ座り込み続けるだけである。その疑問を、彼は彼女に向けてみる。

「この国の警察は、司法は、魔女を守らないのか?」

「法律施行からまだ八年だから、そこまで期待はできないわ。当たりのお巡りさんだったらいいんだけど。警官の当たり外れに振り回されるのも癪だし」

 魔女である彼女が拳道の稽古に熱意を注いできた、その理由。その一部には、こうした場合にも警察に頼らず自助努力で解決することを前提としてのことだろう。どこか胸の痛む思いと共に、彼はそう理解する。

「確かに。警察は面倒だろうし、魔女に不利な調書を書いてお終い、といったところなのだろうが」

「そこまでひどくないわよ、この国は」

 でも……と、彼女は続ける。

「まあ、半分は当たってるわね。この程度じゃ傷害罪も取れないでしょうから。あと。レイジ」

 彼女が倒れたままの男を見遣る。

「悪いんだけど、その男、ちょっとどっか遠いところまで放り出してきてくれない? 慌てて、最後に眠らせちゃったから」

 即答はせず、少しだけ間を置くと、彼は渋々彼女の言い分に頷きだけを返した。

「凍死するとまずいから、明るい、誰かが気がつきそうな所だと助かるわ。そんなに長くは寝てないだろうけども、1時間かそこらは目覚めないと思うし」

 悪いわね。と彼女は続けるが、まだ蹲ったままだ。動く気配の無い彼女を前に、彼も立ち上がることができない。

「わたしは、少し休めば、大丈夫だから」

 一言ずつ区切りながら、普段よりもずっとか細い声を出す彼女のことばの終わりを待たず、彼は瞬時に判断を下す。とりあえずここで選ぶとすれば、まずはナミだ。

「え?」

 軽く彼女を横抱きに抱えると、数メートルほど先の彼女の家まで運ぶ。彼が門に手を置くと、門は何の抵抗もなく開いた。そこで一瞬、彼女が不思議そうな顔をするのが彼の視界に入ったが、それを無視して玄関の前へと彼女を立たせようとする。だが、彼女は先ほどと同じくまだ自力では立っていられないようだ。彼は仕方なく玄関前の石段に彼女を座らせると、「鍵!」と右手を差し出した。

「ちょっと! わたしのことは後にして、先にあの男の方を何とかして」

「なら、ここで待て。すぐに捨ててくる」

 そのまま彼は先程の地点まで戻ると、ナミに言われた通り、地面に伸びている男を手荒く担ぎ上げバス通りへと放り出してきた。道が存外に暗かったことと途中で人と出逢わなかったこと、いずれも大層運が良かった……ということに彼が気づいたのは、風見の家の門が見えてきてからのことだ。

 戻った彼は、風見家の門の中へと入っていく。そういえば、この門にレイジが触れたときにナミは開門の為の呪文を詠唱しなかった。彼女は鍵を掛けていなかったのだろうか。

「ナミ、怪我は無いのだな」

 戻ると、彼女は玄関先で座り込んだ姿勢のままだった。

「男は、遠くの方に置いてきた」

「そ。ありがと」

 彼女は、素っ気無い。それは、「再会」してからの彼女のこれまでとあまり変わりはない対応だと、彼は彼女の様子を注意深く観察する。確かに怪我はないようだ。身体面の反応は、単純に魔力的な問題のようである。あまりじろじろ眺めるのも彼女の警戒心を煽ると思い、彼女に倣って、玄関の扉を背中にして彼女の左隣に座り込む。

「ナミ」

「ありがとね。でも、本当に大丈夫だから……」

「こういうことは、この国ではよくあることなのか?」

 一瞬、彼女は答えに詰まる。丁寧に単語を選んでから話を始めたいのか、それとも彼女の予想外の質問だった為に返答に詰まっているのかは分からない。

 いずれにせよ、彼女の身辺が、自分が思っていた以上にあまり好ましいものではないのだとしたら……だとしたら? 自分は、どうする?

 しかし、そう彼が自問自答の思考に入り込みそうになったとき、右から聞こえる彼女の声が彼の思考を遮った。

「こんなの滅多に無いわよ。絡まれるなんてこと、年に一度あるか無いかだし……そりゃまあ、それ以外の小さな嫌がらせはもう少しあるけど」

 なんでもないことであるかのように、軽く聞こえるような声を出して、彼女は続ける。

「でも、それ以上に今は共生者である魔力無しの方が多いし、パワーバランスだってそうなってきているんだから。魔女嫌悪ウイッヘイトは少数派よ。心配はいらないわ」

 そう言って、彼女は彼へと真っすぐに向いて、にっこりと笑いかけた。

「神矢のおじさまだってそうじゃない。全然、これっぽっちも魔力に関係のない家族なのに、親身になって世話してくれて。神矢の後ろ盾があれば、地域からの悪い影響力を食い止められるし。そういうわけで「戦前」みたく、中野町の魔女に直接ちょっかい出してくるような魔力無しなんて滅多にいないのよ。心配なんていらないんだから。ホント」

 彼女は、もう一度同じ言葉を繰り返す。

「ところで、レイジは道場の帰りなのよね。今日もソージ先生と打ち合いをしたの?」

「話題を変えるな、ナミ」

 少し、怒る。声にはそれを控えるようにしているが、自身の表情までは抑えられていないだろうことを彼はうっすらと自覚していた。今さっき、見知らぬ暴漢から謂われなき暴力を向けられたばかりの少女にするべき顔ではない。そう、理性ではわかるのだが、彼は自分の感情をそこまでコントロールできなかった。怒りが、上手く収まらない。

「やはり、神矢老師と一緒に住むか、あるいは魔女コミュニティへ加わるか、考えた方がいいのではないか」

「あのねー、いきなりそれ?」

「いきなりとはなんだ、いきなりとは。しかもこんな遅くまで外にいるとは」

「今日はたまたまよ。友だちの従姉妹の家に行ってたの。普段はこんなに遅くならないから」

 だから帰り道に目を付けられたのかも、と彼女は続ける。その表情は既に冷静沈着、普段通りの落ち着きを取り戻しているようだった。

 彼女のダメージがそれほど酷くないことを見て取り、彼は自分の中にあったストッパーを無視することにした。眉間に皺が寄ったのを自覚する。

「身の安全をもっと優先したまえ。この際だ。ここは一度、老師にきちんと相談したほうがいい。それに、魔女コミュニティには、こうしたことをどの程度相談しているのだ? 大体、君のような子どもが一人暮らしだなんて、どう見ても無理があるに決まっている!」

 きつい表情になることも構わず、声を張って強い口調で彼はまくし立てる。

 だが。

「わたし、もうすぐ15歳よ。再来月は、高校生よ。魔女はね、15になればもう一人前なの。それに、わたしの家はもうわたししかいないから。わたしが継がないといけないの。で、15歳からは、いわばその仮免許の期間で、16までにコミュニティに対して風見を一人前だと認めさせなきゃいけないわけよ。それが魔女の慣習法ってわけ」

 子どもに言って含めるような声色で、彼女が彼に食い下がる。

「和国の法律ではそこまで魔女の慣習法を尊重しているのかね?」

「いいの! ともかく、わたしはもう大人なの、魔女としては。子ども扱いしないで。魔力無しの習慣をこっちに押し付けないで頂戴」

 だんだんと、ダダっ子のように、彼女が拗ね出す。口はへの字。だが、眉はハの字だ。怒っているというよりも、困っている子どものようだ。ああ、この顔、懐かしいなあ。レイジの胸に仄かに、温かいものが広がっていく。

「何よ! なんでそこで笑うのよ!!」

 しかし自分の気持ちを、ナミは勘違いしたらしい。子ども扱いをされたとでも思ったのだろう。まあそれは、半ば事実なのだが。

 そう彼が自身を分析していると、彼女はその先を続けていた。

「大体、コミュニティは遠すぎるわ」

「そうだな。遠すぎるな」

 それまでポンポンとことばを投げ返していた彼女が、呼吸を止める。息を飲むとまではいかないが、素朴な疑問を抱いたといった面持ちで瞳を丸くして彼を見据えた。

「知ってるの?」

 しまった! これは、彼女には知られてはいけなかった情報だったか。

「先ほど師匠とそんな話をしただけだ。それはどうでもいいだろう、ナミ」

 勢い任せで、彼は誤魔化し代わりにことばを紡ぐ。

 だが。

「どうでもいいわけないわ。だってわたし、明後日の土曜日で正真正銘の15歳になるんだもの」

 そう彼女が口にしたことで、彼は思考を停止した。




――座標軸:神矢レイジ


 そうだった……! 

 彼も、忘れていたわけではない。少女の誕生日。風見ナミの生誕から15回の記念。いや。それどころか、その為にこの時期に来和を調整した面もある。

 その日の別の用事……それがまた彼にとって大問題なのだが……、そちらの重要性にかまけていて、肝心の彼女の状況が、彼の意識の中から抜けていた。

「そうか。それは知らなかった……おめでとう、ナミ」

「あ、ありがとう」

 今日何度目かの、彼女からの「ありがとう」。それが、彼には嬉しかった。重たかった心が、ほんの少しだけではあるが軽くなっていくような気が、彼にはした。

 だが。それは、自分にその資格があれば、の話だ。そう、彼は一人、内心の己に声を掛ける。

「あと、さっきのも、ありがとう」

 そこでことばは途切れる。ほんの僅かな間の、沈黙。それがどこか、昔の二人を思い起こさせた。彼は隣の少女の九年前の幻を見たように思えて……慌ててその幻想を打ち消そうと、新たな話題を手繰り寄せる。

「そうだ、君の家の門だが。今日は門柱に鍵をかけていかなかったのかね?」

「え?」

 ナミが急に体の動きをピタリと止めて、今レイジが話題に出した門柱へと目線を向ける。

「ジャケットの忘れ物って……一昨日よね」

 彼女は目を門に釘付けにしたまま話し出す。

「あの忘れ物の日ね、あなたと行違いになってもいいように、門にだけ解除の呪文を掛けておいたの」

「それはどういう意味かね?」

「だから、他の人は弾いても、『あなた』だけはとりあえず門の中には入っていられるように、っていう呪文。というか、魔力行使ね」

 今度は彼が、その門へと目を向ける。三メートル程先にある、彼女の首くらいの高さまでしかない、軽金属でできた小さな門を。

「ほら、あの日も普通に寒かったじゃない。もしも外で待っていたらもっと寒いだろうと思って。玄関先のここなら構造上、まだ風は防げるから」

 解呪を忘れていたという。それは彼女の、ほんのちょっとの気持ちであり配慮だった。けれどもそれは、温かい。自然と彼は、小さな微笑みを浮かべていた。

 しかし同時に、レイジは、二人がずっと玄関の外で冷たい敷石をベンチ代りにして座り込んでいることに漸く気づいた。

「そうだ。寒いだろう、ナミ」

「そうね。そろそろ入らないとね」

「じゃあ、拙……ワタシは、もう行くが。立てるかね?」

 次は、いつ会えるだろう。彼女に。

 彼女は、座ったままだ。そして自分も未だ、立ち上がってはいない。

「明後日。二十日の土曜日。君の誕生日に、何か予定はあるのかね?」

 思いつきのままに、彼は問い掛けてみた。

「午前中は、魔女としての儀式があるわ。コミュニティじゃなくって西乃市の市街、イリスウェヴの教会でだけど」

 イリスウェヴ教会とは、魔女、魔力持ちの多くが信仰をしている「イリスウェヴ教」の宗教的な集まり、集会場所のことだ。彼女のことばから、西乃市にもその宗教施設があることを、彼はすぐに理解した。

「友人や仲間からのお祝いは無いのかね?」

「休みに入る前の明日にはプレゼントとか貰うと思うけど、二十日の当日には特にないわ。私立高を受験してる友だちの中にはまだ結果が出ていない子も結構いるから、お祝いごとをするにはちょっとまずいタイミングだし。みんなの受験が終わった三月にパーッと遊ぼうって約束はあるけど。それに、今年は儀式の方が重要だから」

「ならば……ワタシがお祝いをしても、いいだろうか」

 ことばもなく、彼女が、彼へと振り向く。

「空いている時間、少しでいい。ジャケットのお礼ということでもいいし、絵本のお礼ということでもいいし、この間の手合わせの勝利ということでもいいし……」

「……あなた、随分とずうずうしいわね。手合わせの件については、お宿を提供したじゃない」

「ならば……今日のお礼、ということでどうだろうか」

 少し真面目な顔をきちんとつくり、右へと体を向けて、彼女を真っ直ぐに見つめる。

「ええっと……」

 ちょっとだけ、呆れた顔。呆れた声。彼女の眼が見開かれる。灯りのついていない玄関では彼女の青い瞳の色をよく確かめられないと、彼は少々その事実を悔しく思う。きっとこうして瞳を見張った彼女の大きな目は、その青さがよく見えるだろうから。ああ、実に残念だ、と。

「君の用事……その行事の終わる時間は、どのくらいかね?」

「大体、午後の一時には終わっていると思うわ。午後には教会の方が別の用事をいろいろと抱えている筈だもの。土曜日だし」

「なら、少し余裕を持って、午後二時に。場所は……」

「この間の図書館でいいんじゃない? 中に入ればあったかいし」

 素っ気無く、彼女が返事をする。既に視線は外され、顔はまた門を向いている。彼女の横顔を再び目にしっかりと納めてから、レイジは立ち上がった。

「では、二時に。何かあったら」

 と、そこまで言いかけて、彼は携帯電話を取り出す。そういえば、彼女とは番号も何も交換していないことに、彼は気がついた。

「そうか。わたしたち、携帯の番号もアドレスも、何も交換していなかったわね」

 同じことに気がついて、彼女は立ち上がろうと身体を動かす。その気配を感じて、彼は先に立ち上がると素早く手を差し伸べる。

「ありがと」

 再びのことばと共に、軽やかに彼女は彼の手を取る。殆ど体重を感じさせない軽い動作で、彼女は立ち上がった。だいぶ回復してきているようだ。

「大丈夫か」

「うん、もう大体。それに、寒いし」

 僅かな名残惜しさと、大切な記念の日の予定をきちんと決めた喜び。嬉しさに、表情が変に緩んでいないだろうか。彼は自分の表情をコントロールすることに意識を向けた。

「その日は拙者……ワタシも午前中は別件で動いている。時間に間に合わないことは無い筈だが、お互い、時間厳守でいこう」

 携帯の番号を交換し終えて、二人は再び視線を合わせた。

「ええ、そうね。よろしくね」

「こちらこそ。おやすみ、ナミ。戸締りはきちんとするのだぞ」

「ええ、勿論。ありがとう。おやすみなさい」

 手を振り合って、彼は名残惜しさを相手に意識させなよう、素っ気ない仕草で玄関から離れる。

 振り向かない。もう、手は振った。ことばも、交わした。

 振り向かない。この距離で振り向くなど、きっと彼女に不審がられるだけだ。もう少し離れたら……そっと振り返ろう。家の灯りを確かめよう。

 浮き立つ思いで、彼は門を出る。坂道の上のバス道めざして、左へと曲がる。そこで。

 彼女はまだ、立っていてくれた。もう一度手を振る。自分はきちんと笑顔でいるだろうか。うむ、そこは問題ないだろう。なぜなら、彼女も笑顔を浮かべているから。

 踵を返し、再び、弾む気持ちで彼は歩き出す。

 ……けれども。二十日の土曜日、その午前中の大事な予定を思い出し、彼は再び気持ちが灰色に曇るのを自覚する。

 何より。


 『あんたみたいな人間に……殺されたのよ』


 心が、凍った。ナミのあの叫びを思い出して、彼の足がピタリ、と止まる。


 それと同時に、彼は今日の昼間、あの美麗な魔力持ちの男、剣道の師範から言われたことばも思い出していた。

「貴方の剣は、まるで本気で殺し合いをしているような威力があるな」

 こちらの目を見て、あの魔力持ちの男はそう口にした。

 たとえそれが偶然の一致だったとしても、あまりいいことではない。やはりあの魔力持ちの男とは少し距離を置いた方がいい。

 誰であろうと、気づかれてはいけない。知られてはならない。彼自身のことを。決して。




(つづく)

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