第8話 スタンバイ!

2月に入り、いよいよ本格的にTゼミにお世話になることになった。今までは意識もしていなかったのだけれど、折り込み広告に塾の広告が増え、合格体験記などが載るようになってきた。入試まで残り11か月。いよいよ本格的に、春樹は受験生になった。

初日は本当に落ち着かなかった。下校予定の午後3時30分を過ぎても春樹が帰って来ず、車で迎えに行こうかどうしようか、リビングで立ったり座ったりうろうろしていた。そして、時計が45分を指した頃、みんなと遊びながら帰って来た。急いでバッグと作って置いたおにぎりを持たせて、車に押し込み最寄り駅まで送る。改札を過ぎるのを見送って、電車が出発するまで改札の外から動かずに不測の事態に備えた。何もハプニングが起きなかったのを確認して、車に乗り込み家へ帰る。家に帰ってお風呂とご飯の準備を済ませて、テレビをつけた。5時…授業が始まった、6時5分…2時間目が始まった、今頃どうしているだろうと、何度も時計を見ていた。そのせいで、夕方のワイドショーの内容は全く頭に入って来なかった。7時30分を過ぎてパパが帰って来て、お腹が空いたと騒いでいるのをなだめつつ、時計が8時を差そうというときに、再度車に乗って駅に向かった。ロータリーに車を停め、ケータイを持って、改札前にスタンバイした。8時10分。春樹が帰って来るまでに10分程時間がある。早く来すぎてしまったせいで、逆に落ち着かず、往く人々を見ていた。8時17分。「中島さん!」と後ろから声を掛けられる。岩崎さんだった。髪を結んで、岩崎酒造のジャンパーの上にダウンジャケットを着た出で立ちだった。

「またぎりぎりになっちゃった。」

「お疲れ様です…私、心配で早く来すぎちゃって。」

「こっちはお店閉めてて。間に合って良かったよ…」

程なくして電車がホームに入り、人の波が改札を抜けて行く。その中ほどで、男子三人組がバタバタと走って来た。お帰りなさいと迎えると、二人は私たちの元へ、もう一人は近くにいた年配の女性に合流し、またねと言いながら解散していった。

「春樹、今日はどうだった?」

車の中で話しかける。

「荷物めっちゃ重かった。テキスト、講習の時よりも分厚いんだもん。」

「授業は?」

「まぁ、そこそこ。」

「もう、ママほんと心配だったのよ。ちゃんと塾着いたかなーとか。」

「え?別に普通にしてればよくない?」

「だって、電車とか普段つかわないじゃない…」

「でも敦とか、4年生の時から電車で通ってるよ?」

「うそ!?」

「そうだよ。だから別に、普通だって。電車くらい。」

どんな風だったか、授業はきちんとついていけたか、そんな話がしたかったのに、春樹は大人びた口調で、別に普通、と繰り返すだけだった。


家に着くと、パパがなぜかカンカンに怒っていた。

「オイ!お前!」

「な、なに…」

事態がつかめずにいると、キッチンの方を指さして捲し立てた。

「お前、ガス点けっぱなしだったぞ!?俺が気付いたから良いものの…」

シンクにはつい30分前までお味噌汁と鍋だったものが、真っ黒の地球外生命体に成り果てていた。

「…」

言葉を失って鍋を見つめていると、春樹が、だから普通にしてれば良いって言ったんだよ、と呟いた。

「ごめんなさい!お味噌汁の代わりのもの、すぐに用意するから!サラダから食べてて!」

取りあえずサラダと、温めるだけにしておいたハンバーグをテーブルに出し、ストックにしておいたキャンベル缶のミネストローネを温めて、慌ててスープを用意した。


初日はママがテンパり、息子に呆れられてスタートしたのだが、春樹は意外と早く順応し、宿題もリビングで広げて頑張っていた。たまに宿題をサボってゲームをやっているときもあるけれど、そんなときは何とか捕まえて強制的に時間を作りやらせたからか、勉強の習慣は身について来たように思える。ママの方も、改札前で帰りを待っているせいで、同じ塾に通っているママ達と立ち話をするようになっていた。

この地区からTゼミに通っているのは4人、春樹と岩崎林太郎くん、そして福沢医院の福沢敦くん。紅一点の森鏡花ちゃん。敦くんのお家は、パーマをかけた豊かな白髪でぱっちりとした目のおばあちゃんが送り迎えをしている。老先生の奥さんで、この辺のおばちゃん達とは、見た目から言葉遣いから、何から何までレベルが違い、優しさの中にも迫力が感じられた。そして鏡花ちゃんのママは、いつもお化粧もスタイルもばっちり、つけまつげとヒール靴がトレードマークだ。鏡花ちゃんと林太郎くんのお姉ちゃんが同じバレエの教室に通っているとのことで、岩崎さんと森さんは元々顔見知り。福沢医院は岩崎酒造のお得意様らしく、岩崎さんは敦くんのおばあちゃんを、奥様と呼んでいた。こうして4人そろって子供の帰りを待っていると、自分だけ浮いてしまっている感が身に刺さって来る。福沢の奥様も森さんもオシャレだし、岩崎さんも化粧っ気がないだけで、とても整った顔立ちをしている。一方の私は、あか抜けない、ただの田舎に嫁いだ主婦。大きなガラスに自分たちが映ると、大奥にぽっと村娘が投げ込まれたような、そんな様子にしかならなかった。他のお家は資産家で、私立中で勉強するのが普通のお家柄。私たち夫婦は計算機を叩きながら何とか一人息子の為に頑張っているレベルの核家族。端々にその違いが出ているような気がして、引け目を感じていた。

始めはそんな風だったけれど、段々、受験や塾の話だけではなくて、大根をどんな風に食べようか、とか毎日のお弁当作りが大変、とかそれぞれの旦那さんの愚痴とか、いわゆる井戸端会議のようになっていき、どんなお家にいても主婦業は大変なんだなぁ、とヨソの事情が分かり少し心が軽くなった。春になる頃にはかなり打ち解けて、福沢の奥様が患者さんに貰った野菜を分けてくれたり、それぞれの家で持て余している食材や貰い物のお菓子を融通し合うようになっていた。

ある時、たまたまうちのパパが一緒になり、4人で話している姿と話題のドラマを重ねて「茨城版のセックス・アンド・ザ・シティは年齢がやたら高いな」と冗談を言ってきた。すると岩崎さんが「セックスもシティもないわよ」と返し、皆で笑い転げていた。しばらくしていつものように子ども達が来て、それぞれ家に帰って行った。

その頃になると、モンママ岩崎さんに疑問を抱くようになっていた。悪の権化、モンスターペアレンツ代表と噂の彼女。でも、いざこうして顔を合わせ、話していると、ウィットに富んだ話しぶりからも頭の良さを感じるし、いつも明るく、とてもそんな悪い人だとは思えなくなっていたのだ。確かにキッパリと物は言うし、老舗の若女将で目立つ存在だ。他のママの嫉妬を買っただけかもしれないとも思う。だからと言って、火の無いところになんとやら、そこまで悪く言われるからには、何か重大な理由があるのかもしれない、その可能性も否めなかった。仲良くしてもらいつつも、どこか緊張した関係性は捨てきれない、そんなふうな歯がゆさも、感じずにはいられなかった。

5年生としての2か月間、春樹は一回も休まずに塾に通った。サッカーとの両立や学校の宿題も含め、頑張ってくれているなぁと思っていた。春休みにはサッカー教室の卒業式や試合といったイベントもありつつ、お正月に帰らなかった分、神奈川の実家に帰ったりとバタバタしていた。そんな中、春期講習に突入し塾の勉強と、それから学校の『みらい設計図』の宿題の為に、みんなで図書館に行ったりと、短い休みはほぼ毎日予定が入っていた。

そして6年生に進級し、今年でランドセルも終わりね、本格的に受験生だね、と言われるようになり、少し寂しくなった。学校ではクラス替えがあり、春樹は林太郎くんと同じクラスになり、鏡花ちゃんと敦くんが隣のクラスになった。保留にしていた習い事のお習字の件は、1学期いっぱいで休会することに決めた以外は、以前と変わらずの日々を過ごしていた。

6年生になって初めての塾の授業の後、車の中で春樹がおもむろに話しかけてきた。

「ねぇ。」

「どうしたの?」

「俺、塾のクラス、上がってた。」

「え!?すごいじゃない!」

「CクラスからBクラスになった。そんだけだけど。」

春樹は、照れ隠しからかぶっきらぼうに、リュックの紐を弄りながら話した。そんな、男子特有の見栄やら意地が見え隠れしているのが可愛らしくて、あえてママは大袈裟にリアクションを取った。

「良いじゃないのよ!すごいじゃん!」

「森も林太郎もAからBに来たから一緒で、でもBのやつらみんな真面目なんだよなぁ。」

「あ!もしかして5年生の時は鬼ごっことかしてたんでしょ!?」

「げっ、やばっ!」

「もう、お見通しなんだから!子どもじゃないんだからしっかりしてよね?」

「ちっ…」

「でもうれしいなぁ。春樹、休まないで塾に行って、頑張ってるのが目に見えた感じ。」

確かに、春期講習後の試験は国語の点数がぐっと伸びていた。実際にこうして、クラスが上がったと本人が手応えを感じているのを見ると、ママとしても頑張りが報われた感が出て来た。そしてなにより、春樹だけがCクラスというのも、大きな声では言えないが、引け目に感じる理由の一つだった。入塾当時、春樹以外の3人はAクラスだった。奥様タイプの3人と、庶民の私。それに対応するかの様に、優秀な3人と、一番下のクラスの春樹。塾に入った瞬間から歴然とした差があって、その壁は超えられないような気がしていたのだ。春樹のクラスが上がったことで、ママももっと、堂々と出来るような気がした。家に帰ってパパに報告すると、今まで一番下だったのかとショックを受けつつも、春樹は俺に似て頑張り屋さんだ!と謎の自信を蓄えていた。


ゴールデンウィーク目前のある日、いつもの様に駅の改札前にママたちが集合したのだが、電車の到着時間になっても岩崎さんが現れなかった。どうしたのかな?と3人で話している間に、子ども達が帰って来てしまった。

「おかえりなさい!林太郎くんのママ、まだ来てないみたいね。」

「はい…そうみたい。」

しばらくして下り列車が入って来て、ざわざわとした人の波の中から、林太郎!と呼ぶ声があった。声の方を見ると、キャメル色の制服を着たすらっとした女の子が歩いて来た。

「あら、一葉ちゃん!」

「ひぃちゃん、お帰りなさい。」

福沢の奥様と、鏡花ちゃんのママが声を掛けた。

「おばさま、こんばんは。林太郎がお世話になっております。姉の一葉です。」

樋口一葉と同じ字で、ひとはって言います、と私の方に改めて挨拶をしてくれた。

「こちらこそ、息子がお世話になってます。中島です…」

はきはきとしていて、こちらの腰が引けてしまう感じがした。きりっとした目元はお母さん譲りで、お行儀も良く、流石あの岩崎さんだ…と感じずにはいられなかった。

「ひぃちゃん、今日まだママ来てないよ?」

「さっき連絡あって、会社でトラブルがあって抜けられないから林太郎連れて歩いて帰って来てって言われたんです。」

それを聞いて、えーっ!と林太郎くんが頬を膨らませた。

「まぁっ!でも一葉ちゃん、こんな遅くに…バスは無いの?」

「この時間は家の方まで行かなくて…次だと9時20分なので歩いた方が早くて。」

マダムたちの輪にすんなり入っていく一葉ちゃん。ますます自分の存在感が薄くなっていく気がして、意を決して、話の輪に飛び込んだ。

「ねぇ、もし良かったら送ってくよ?岩崎さんの家って、岩崎酒造のとこだよね?うちなら同じ方向だから、林太郎くんも一葉ちゃんも乗せてくよ?」

「いえ、林太郎ならまだしも、さすがに私が乗るのは申し訳ないので…」

一葉ちゃんがそう言うと、福沢の奥様が援軍を出してくれた。

「もう、遠慮しすぎよっ!送るならお姉ちゃんが一緒でも変わらないわよ!私も送って行ってあげたいけど、生憎今日は私がお夕飯当番の日なのよ…。森さんのお家も方向が違うし、困ったときはお互い様。今日は中島さんにお世話になったら宜しいんじゃないかしら?お母さまには、私が乗る様に言ったって、お伝えするわよ。」

ぱしぱしと一葉ちゃんの肩を突っつきながら、茶目っ気たっぷりに奥様が話すと、それならお願いします、と今日は私が二人を乗せて帰ることにした。


「ごめんね、汚い車で…」

「いえいえ、お邪魔します。」

「僕も、お邪魔します!」

いつもの通り春樹は助手席に、岩崎姉弟を後部座席に乗せて、駅から出発した。後ろに春樹のお友達を乗せることはよくあるが、お姉ちゃんを乗せているというだけで、妙に緊張してハンドルを握る手が汗ばんでくる。

「ほんと、助かったぁー!家まで歩くとかマジで死んじゃう!」

「そう言うこと言わないの!」

林太郎くんが声を上げると、一葉ちゃんはギロッと林太郎くんを睨んで牽制したが、林太郎君は全く意に介していないようだった。なんだか微笑ましくも、羨ましくもあった。

「いいのよ。だってまだ寒いし、かなり遠いでしょう?岩崎さん家。」

「そうなんです。歩くと30分はかかります…。」

顔は合わせていなくても、一葉ちゃんがにこやかに話してくれているのが想像できた。

「一葉ちゃん、その制服って、もしかして聖加女学院?」

「はい!中学3年生です。」

キャメル色が特徴的な制服。県内ではお嬢様学校として知られている。まさかこんな身近にこの制服を着て歩いている子がいるとは思わなくて、芸能人を見かけた時のような反応をしてしまった。

「すごいなぁ…今日は部活帰り?」

「そうなんです。今日は部活だけで帰って来たのでこの時間で、普段はもっと遅い時もあります。」

「へぇ、何部なの?」

「新体操部です。」

そう一葉ちゃんが答えると林太郎くんが、あの変な棒で殴ってくるんだよ!と言って再度怒られていた。

「春樹くんって、ラグビーやりたいって頑張ってる子ですよね?」

「は、はい…」

いきなり、そして美人なお姉さんに話を振られて、いつも以上にかしこまっていた。その姿が可笑しくて、笑いをこらえながら聞いていた。

「林太郎に聞いたよ!私もお友達と茗荷谷学園の試合見に行ったんだ。同じ塾だった子が行ってて。」

「そうなんですか!」

かしこまっていたと思ったら、太郎丸という名前を聞くだけでこのテンションの高まり様である。

「ラグビーやったら、春樹くんも中学生になったらマッチョになっちゃいますね。」

一葉ちゃんが言うと、林太郎くんが、

「はるきんにく!」

とおちゃらけて、男子二人はゲラゲラと笑いふざけ始めた。それを見て一葉ちゃんは恥ずかしそうな顔をしていたが、男子ってすぐこうなるのよね、と私が言うと、そうですねと言って笑った。

そうこうしているうちに、暗い道の奥に温かな光の塊が見えて来た。岩崎酒造とその倉庫だ。まだ作業をしているため、シャッターが開いたままで、外に光が洩れていた。

「どの辺に車、停めればいいかな?」

「えっと…」

「倉庫の前!左が空いてるからUターンして帰れるよ!」

一葉ちゃんの言葉を遮って、林太郎くんが答える。こういうことは男子の方が得意なのかもしれない。そう思って倉庫の前に車を停めて中を見ると、あの岩崎さんが、フォークリフトを運転して、荷物を動かしていた。

「えっ!」

「どうしたんですか!?」

ありがとうございます、と車を降りようとしていた一葉ちゃんが反応した。

「え…岩崎さん、フォークリフト乗れるの!?」

「え?あぁ乗りますよ。トラックも普通に。」

さも当然、という風に答える。そうぐずぐず引き留めてしまっていると、岩崎さんが気付いて、リフトから降りてこちらに走って来た。

「えっ!ごめん!乗せて来てくれたの!?」

「だってこんな遅くに歩いて帰るのは大変かなって思って。」

「悪いことしちゃったね、パパ待ってるのに。ごめんね。」

「いいのよ。お互い様だから!それより、大丈夫?」

「うん。ちょっとね…問屋さんの発注ミスで、急ぎ対応のモノがあったのよ。」

「大変そう…」

「大丈夫。終わる目処は立ってるから。中島さんも、ここら辺暗いから気を付けて帰ってね。」

「うん。ありがとね。」

そう言って岩崎姉弟を送り届けて、我が家に帰る。帰る道すがら、初めて行った酒造の風景を思い出していた。あそこに岩崎酒造というものがあるよ、というのは聞いていたけれど、悲しくも良いお酒と縁が無かったので、実際に行ったのは初めてだった。大きな倉庫、そして立派な門構えのお店と邸宅。歴史と伝統の重厚感を、感じずにはいられなかった。まぁ、一番印象に残っているのは、フォークリフトに乗った岩崎さんなんだけれど。ジーンズにスニーカー、そして眼差しはいつにも増して鋭かった。


いつもの様に家の駐車場に車を停める。あの邸宅を見た後だと、我が家が昔遊んだミカちゃんのドールハウスの様に見えてしまう。ぼんやりと家の中が明るく、パパがもう帰っているのが分かった。シートに座ったまま、はぁとため息をつくと、どうしたの?と春樹に心配されてしまった。

「大丈夫よ。なんでもない。」

そう、あの時ミカちゃんのドールハウスが何よりの宝物だったように、この家はママとパパの、二人なりの愛と努力の結晶で、そして一人息子の春樹は、この家ですくすく育っている。

「よしっ!」

気合いを入れて、温かいライトに照らされた、パパの待つ家に入って行った。


雨の多い季節になると、7月の夏休み前の授業参観に向けて『みらい設計図』の制作が忙しくなってきたようだった。発表に向けて、画用紙や作文用紙を家に持ち帰ることも増え、塾の勉強もやろうね、と作業を辞めさせることもあった。もちろん、学校の授業である以上、これも勉強のうちだけれど、あまりに熱を入れられると他の事が疎かになってきて、少し厄介に思えた。特に春樹は、太郎丸に憧れて受験をすると言っちゃうタイプなので、熱するとなかなか冷めにくい。ようやく塾でもクラスが上がり、良い調子になってきたところだったので、ママとしては水を差されたような気もした。一方で、ちらっと作業を覗くと、とても詳細に調べている形跡や、苦手ながら絵や図も丁寧に書いているのが分かり、やめろとも言いにくかった。そんなもやもやした気分で、春樹を送り出し、ぶつぶつと文句を言いながら家事をこなし、お迎えに行くと、岩崎さんが既に改札前にスタンバイしていた。

「お疲れ様です。」

「あ、中島さん。お疲れ様。この前本当にありがとうね。」

「いいのよ。私も楽しかったし!」

「楽しかった?」

「うち、一人っ子でしょ?だから兄弟いたらこんな風なのかぁ…って。」

「うふふ。姉弟でも全然ちがうでしょ?お姉ちゃんは私に似て性格きついし、林太郎はパパに似てマイペースなの。困っちゃうよね。」

「全然!お姉ちゃんしっかりしてる!奥様とも普通に話してたし!」

「ソトヅラヨシコだからねえ…」

岩崎さんは困ったような顔をして笑った。それにつられて私もへなっと笑った。

「わたし、心配になっちゃう。岩崎さんのお姉ちゃん、しっかりしてるでしょ?春樹は太郎丸への憧れってだけでこんな風になってて…ちゃんと、夢と現実の区別つくようになるのかなぁって。」

「もしかして、『みらい設計図』?」

「…そう。」

ズバリ言い当てられて、見透かされている自分の浅はかさが恥ずかしかった。

「うちの林太郎なんか、『不確定な事象の上に作った設計図は総じて紙くずだ!』とか言い出して。」

「ちょ!なにそれー!」

「『僕の人生にはまだ基礎が無いから堅固な建物が建たない』だそうだ。」

岩崎さんが林太郎くんの口ぶりを真似て話す姿が、当たり前なのだけれど、林太郎くんそっくりで噴き出してしまい、笑いが止まらなかった。

「そんなこと言ってたの!?」

「そうなのよ…ったく、どんなとこでそんな言葉覚えたんだろうね。だから、いいからやれ!って。これはただの宿題だ、ひとつの仮定に対して逆算するロジカルシンキングのゲームなんだよ、って無理やり納得させて、取りあえず書かせたよね。」

「そうなんだ…。そう考えると春樹は単純でよかったのかな。」

「わたし春樹くんのそういうとこ好きよ。」

「えっ?」

「私に似ても主人に似ても、苦労する性格みたいよ、うちの子は。」

「…」

ふと寂しそうな顔を見せながら、岩崎さんは言った。

「あ、ねぇねぇ、今度さ、一緒にケーキ食べに行かない?」

突然に、良いこと思いついた!っていう子どもみたく、岩崎さんが話し始めた。

「へっ!?」

「子ども達がテストの間にでも。この前お姉ちゃんまで家に送ってもらっちゃったじゃない?なんかお世話になりっぱなしも悪いから、いいお店紹介するよ!」

「え!?…う、うん。」

「中島さんの御主人、外出とか厳しい?」

「そんなでもないかな。ご飯も用意すれば食べててくれるし。」

「じゃあ、今度の学力テストの時、車は私が出すから、子ども達がテストしてる間、ちょっと息抜きに美味しい物食べに行こうよ。」

「息抜き…いいかも。」

「じゃ、詳しくはまた話そ!奥様もお見えだし。」

ちらっとみると、福沢の奥様が手を振りながら走ってこちらに向かって来ていた。そしてその向こうには、森さんのママの白いベンツが丁度パーキングに入ってくるところだった。

「あぁ、間に合ったわ!」

「奥様、急がなくても大丈夫ですよ。」

「まだ、あと3分ありますから。」

まぁ、とリアクションを取りながら、いつものごとく奥様が話し始めた。どうやら、長電話をしていて鍋を焦がしてしまい、お夕飯を作り直していて気づいたらこんな時間になってしまったそうだ。

「わー、時間ぴったり!」

電車が着く1分前に、悠々と鏡花ちゃんのママがヒールをコツコツと鳴らしながらやって来た。

「流石でございますわ。物は考え様、ってその通りですのね…」

奥様がそう言うと、いつもの通り4人で笑い合った。そうしているうちに、子ども達がいつもの様に人混みに紛れて帰って来たのだった。


「ねぇパパ。今度の春樹のテストの日なんだけどさ?」

春樹におやすみなさいをした後、ふたりでお茶を飲んでいる時に話を切り出した。

「なに?お迎え?」

「違うの。岩崎さんに、ちょっと息抜きにケーキでもって誘われて。ちょっと外に出てもいい?」

「うん?まぁいいけど…岩崎って、あの岩崎酒造の?」

「そう…」

少し不機嫌そうなパパの様子に、居心地が悪かった。

「あの人、ヤバいって話じゃなかったっけ?父兄の間で評判悪いって。」

以前なんとはなしに噂話をパパに聞かせてしまったことを思い出した。パパが覚えているなんて、思わなかったのだけれど。

「うん…」

「大丈夫なのか?そんな人と一緒に出掛けて。」

「まぁ水戸で会うから他のママと顔も合わせたりしないし。それに…話してると、そんなに悪い人には思えないんだよね。」

息抜き、という言葉につられて首を縦に振ってしまった過去の自分に少し反省した。

「まぁたまにはいいけど…あんまり派手する癖、つけんなよ?アッチは金持ちだけど、こっちはそうはいかないんだから。」

「…ありがと」

流石に自分も調子に乗ってしまったかな、と後悔した。あの時は全く考えていなかったけれど、評判悪い人と一緒にいるところを他のママ達に見られたら、この先の付き合いに影響が出るんじゃないかという可能性がふわっと現れた。そしてもうひとつ、少女漫画でよくある、冴えない女の子がイケメンとデートする時の周りの女子の反応みたいに、あんたなんかが老舗酒造の若女将なんかと対等に付き合ってんじゃねえよ、そう言われるんじゃないかとも考えた。しかし頭の中では、フォークリフトに乗る岩崎さんの姿がちらついていた。とりあえず一度だけ、調子に乗らずに、穏便に、岩崎姉弟を送り届けた借りを返すだけの付き合いをキープしよう、そう心に決めた。

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