シニガミ

研一は最悪の中、目を覚ました。

 気分が最悪だった。酒のせいもある。夜中は酒ばかり食らっている。そうしないと眠れなかった。だが最近はそれでもなかなか眠れない。

 世の中が最悪だった。不幸な目にあって引き籠っている自分を助け出そうとしてくれるものが何もない。

 親が最悪だった。散々自分に期待し、それに応えてきてやったのに一度躓いただけで将来を絶望された。

 妹が最悪だった。こいつに至っては何もかもが最悪だ。高校の時に研一をいじめていた男と付き合っている。研一がいじめられながらも大学に行くために必死で通っていた高校も最近は行っていないようだ。妹に関して両親は放任主義だ。それが研一をいらだたせる。

 起き上がって時計を見るとデジタル時計は五時過ぎを示していた。つい三時頃まで意識はあった。部屋のドアを開ける。いつもそこに食事と酒が置かれている。酒は発泡酒一ケースと焼酎の一リットルパック。それを部屋に設置されている小型の冷蔵庫に入れる。

 のどが渇いていたので冷蔵庫に残っていた冷たい発泡酒を取り出して一気飲みした。酒をいくら飲んでも親は何も言わなかった。それは研一が酔って殴るのが妹の茉麻だけだからだろう。茉麻のことはいくら殴ってもいいと研一も認識していた。酒を飲むようになってからではない。もうずっと小さいころ、妹が泣いてうっとうしくて殴ったら手を痛めた。それで母親が怒って茉麻をしかりつけた。研一を煩わせるなということらしい。

「あの頃はよかったね」

 酒を飲むようになってから見える幻覚が研一に話しかける。

「良くはなかった。でも今よりはましだった」

「なるほど、その言い方は正しいな」

 幻覚は鼻から上が仮面で隠れた男だ。正体はたぶん柊哉だ。確かめたことはない。研一自身の幻覚なんだから柊哉で間違いないだろう。

 柊哉は研一の人生の中でただ一人の理解者だった。いつも味方をしてくれた。彼と一緒にいるときは自分に自信を持つことができた。それは柊哉の優しさのおかげだろう。その優しさのため、時に葛藤していたことは研一にもわかっていた。たとえばそれは大学の志望校を隠されたこと。散々、一緒の大学に行こうと約束したにも関わらずだ。研一の聞いていた志望校より一ランク上の大学を第一志望としていた。母親に言われて仕方なく隠していたのだろうと研一はすぐに察した。柊哉の母は研一を、研一の母は柊哉を意識していた。ライバル視といっていい。勝手な話だが、研一自身そのころ親を裏切るのが何より怖かったから柊哉を責める気にはならなかった。それを知った後何とか両親を説得してぎりぎりで志望校を変更した。柊哉の志望校は県外で、両親は地元の大学に通わせたかったからなかなか首を縦に振らなかったが柊哉の志望校の話を出すとまず母が折れた。あとは母が父を説得してくれたから楽だった。

 合格発表の時に初めて研一は柊哉に志望校の変更を告げた。柊哉は驚いた顔をしたが少し笑って「そうかい」とつぶやくだけだった。もっと喜べばいいのにとあの時は思ったがあれは柊哉なりの照れ隠しなのだろう。

 なのになんで死んだんだ?

 何度も目の前の幻覚に聞きたくなる。聞いたって幻覚が答えてくれるはずもない。

「お前も飲むか」

「もう飲んでるよ」

 そう言った幻覚の手にはシャンパングラスがあった。なんてお洒落な酒飲んでやがるとおかしくなる。こんな何年も掃除していない埃っぽい部屋で。

 幻覚は手酌でどんどん自分のグラスにシャンパンを注いで飲み干していく。研一は大学を一日もいかなかった。そのため飲み会の類に行ったことがなかったからこういうものかと自分もどんどん発泡酒の缶を開けた。

「君はシャンパンを飲まないのか?」

 幻覚はもう一つグラスを取り出してそれに薄い琥珀色の液体を注いだ。

「じゃ、もらうよ」

 これも幻覚。いくら飲んでも問題ない。この味も喉を通る感覚もすべてが幻覚だ。

「いい飲みっぷりだなぁ」

 と幻覚が言う。嬉しくなってもっとくれと催促すると別のビンを出してきた。ワインらしい。

「さあ、どんどんいこう」

 幻覚もいつの間にかジョッキに持ち替えワインを注ぎ、一気飲みした。

「お前もすごいな」

 いや、幻覚だからこれくらいできて当たり前か。そもそもこのワインも幻覚だ。気が付けば研一もジョッキを手にしていた。そこに幻覚が赤いワインをなみなみと注ぐ。幻覚と同じようにそれを一気飲みしようとするが途中でむせ返ってしまう。

「ほらほらがんばれ」

 幻覚が応援する。

「ほらイッキ! イッキ!」

 煽られてもう一度口をつける。今度は何の抵抗もなくごくごくと飲める。やっぱり幻覚だからだ。

 本当に酒を飲むのは楽しいと研一は思う。幻覚でもいい。最悪の世の中を少しでも忘れることができるのだ。幻覚はまだ囃し続ける。研一もごくごくと喉を鳴らせて飲む。

 しかしでかいジョッキだ。まだワインがなくならない。


 茉麻は反対方向の電車に乗ってしまったため乗り換えをしようとした。晴彦の飛込みのせいで逆の線は大幅に遅れていた。考えた結果バスで家に帰ることにした。乗継を繰り返しようやく帰宅できたのは、日が沈み真っ暗になってからだ。もう怖いと感じることはなかった。早く家に帰りたいと焦っているだけだ。もしかしたら両親が帰っているかもしれない。兄の研一が酒を飲んでいないかもしれない。そんな希望が現実なんじゃないかと錯覚しかかっていた。

 だが家に着くとやっぱり電気はついていなくて、両親は帰っていない。ダイニングでメモを見つけた。母親の字で冷蔵庫に作り置きの料理が入ってることだけ書いてあった。

 茉麻はメモを握りつぶした。どうして一瞬でも両親に期待してしまったのだろう。少しでもいいから傍で話を聞いてほしいだけなのに。両親の連絡先はメールアドレスしか知らない。メールで今の状況を説明するのは困難だ。ただ帰っていてほしいと送信して真に受けてくれるとは思えない。

 茉麻はメモをくず入れに投げ入れ自室に向かった。眠気はない。それでも自分のための場所はそこしかない。しかし自室がある二階へ上った瞬間にいやな空気を感じて足を止めた。

 廊下は真っ暗で何も見えない。だがそこに何かいると感じた。

「お兄ちゃん」

 恐怖を抑えるために研一を呼ぶ。たとえ殴りかかってきたとしても部屋から出てきてほしかった。だが何も反応がない。目が慣れ、廊下と壁の境がぼんやりとだが見えるようになってきた。

 せめて研一がいれば。震える手で廊下の電気をつけた。

 ぱっと明るくなりいつもの廊下が出てくる。ほっと胸をなでおろす。気のせいだったんだ。一人で帰ってきて神経が過敏になっていたのかもしれない。

 そう思った瞬間、バタンとドアが開いた。誰も出てこない。勝手に開いたのだ。全開になったのは研一の部屋だ。

「お兄ちゃん?」

 返事はないが部屋の電気はついていた。そっと中を覗き込む。なんとなく酸っぱいにおいのする部屋の中央に、研一の肉厚の背中が丸まっていた。

「どうしたの?」

 動かない。床に落ちた衣服やごみを避けながら研一に近づきその背に手を乗せる。固い切り株のようだ。手を離し後ずさるように部屋を出る。震えが止まらない。研一の周りには酒の空き缶や空き瓶が転がっていた。急性アルコール中毒というものだろうか? 茉麻は廊下に座り込み鞄から携帯電話を取り出し、両親宛にメールを打った。「お兄ちゃんが死んでます。どうしたらいいですか」。茉麻の戸惑いも恐怖も何も伝えられに短文を同時送信する。

 這うようにしてダイニングに行き、お湯を沸かしてインスタントの紅茶を入れる。飲むと落ち着くような気がしたがまったく味が分からない。その間にも携帯電話を何度も確認したが返信は来ない。家の電話も静かなままだ。もしかして嘘だと思われたのだろうか。そう思うと泊まりかけていた震えがぶり返す。しかしこのまま研一の死体を放置しておきたくはない。警察に電話したらいいのだろうか。事件でもないのに呼ぶのは迷惑ではないか。救急車も、もう死んでるんだからおかしい。じゃあ保健所? ぐるぐると悩んでいたがふと隣の家を思い出した。柊哉の両親がいる。母親のほうはあまり良好な関係ではないが、父親なら助けてくれるのではないか。時間は七時を回っていた。前回会ったのは夜中だったがいつもそんなに遅いわけではないだろう。ひょっとしたらいるかもしれない。

 家を出てすぐ隣の家のインターホンを押す。家の様子は分厚いカーテンが閉まっていてよくわからない。しばらくすると中から音がして柊哉の母親が玄関から顔を出した。茉麻を見ると細く開けた扉の間からするりと出てきて鍵を閉めた。何をしているのだろうと見ていると柊哉の母親はにこにこと笑いながら門の前まで来た。

「茉麻ちゃん、久しぶりねぇ。どうしたの?」

 茉麻が記憶している冷たい印象はなく、物腰の柔らかい中年の女性だった。あの頃よりもふくよかになった気がする。

「あの、おじさんはもうお帰りですか?」

「ええ、ずっと家にいるわよ。それが何か?」

 柊哉の母親に相談してもいいかもしれない。以前の怖いイメージしかなかったから父親のほうを頼ろうと思ったけど今ならどっちでも力になってくれるのではないか。そこまで考えふと母親の言葉がひっかかった。

「ずっと、ですか?」

 その細い目に力が入ったように見えた。

「ええ、ずーっと私と一緒なのよ」

「それは、えっと、ご病気ですか?」

 茉麻は差支えない程度に聞いたつもりだったが、それが彼女のスイッチを入れたようだった。誰かに言いたい、でも言えなかった言葉が飛び出したように柊哉の母親は唾を飛ばしながら話し始めた。

「病気? 病気といえば病気よね。男の浮気はね、病気なのよ。もうずーーっとよ。息子が死ぬ前から。ひどい話よね。息子が死んでも病気は治らないのよ。柊哉はずっと私を励ましてくれたの。それに夫よりいい大学に入っていい仕事して私にいい暮らしをさせてくれるって約束してくれたの。小学生の時よ。いい子でしょ? でもなんで死んじゃったのかしらね。高校の質が悪かったのかしらね。でもそんなことどうでもいいのよ。だってあの子は今でも私のそばにいてくれるんだから。狐のお面をかぶってるんだけどね。私にはわかる。あの子だって。あの子が言ってくれるの。お母さん頑張ってって。それでもね、ついに今回の浮気は頭にきちゃって。だって女子高生よ? 茉麻ちゃんくらいの子よね。あ、茉麻ちゃんのほうが可愛いわよ。それで私もう無理って。離婚して実家に帰ろうかと思ったのよ。柊哉との思い出がある場所を捨てたくなかったんだけどね。そしたらね、柊哉なんて言ったと思う? 今までずっと優しい声で応援してくれてたんだけどね、もう泣きそうな声で『お父さんとお母さんがバラバラになったら僕はどこに行けばいいの?』って。私も一緒に泣きそうになっちゃってね。本当にひどい男だけど、子供にとっては母親と父親が一緒にこの家で暮らしているのがいいのよね。だからずっと一緒にいようと思って。仕事もいかないで、私も外に買い物とか行かないようにしてね。最初はあの人も嫌がってたけど、ここ二、三日あまり動かなくて楽だわ。え? いつから? そうね、二週間くらい前かしら。七月の中ごろ? あら? 茉麻ちゃんどこにいくの? 用事はもういいの?」


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