13

 病院を出るときにはもう立っているのがやっとと言うほどに僕は疲れ果てていた。

 まるで石塊を背負っているかのように両肩が重くだるかった。


 すっかり日が暮れ夜気が肌に刺さる冷たさだった。

 漆黒の夜空に金色に光る三日月が鋭利に尖って見えた。

 

 腹が減った。


 急に空腹感が襲ってきて、そう言えば朝からろくに食事らしい食事をしていないと気付いた。

 しかし、今の僕は何もかもが面倒だった。

 身体は食事や排泄や入浴よりもまず睡眠を求めていた。

 電車で帰る気などさらさらなく、迷わずタクシーを止めて座席に身を委ねると僕は腰が果てしなく沈んでいくような錯覚に陥って、肉体的にも精神的にも自分が腐った果実のように張りを失っているのを感じた。


 由紀は言葉どおり三時間後に病室に顔を出した。

 完全に妹の存在を忘れ、母の言葉に混乱していた僕はドアがノックされたときには椅子から飛び上がるぐらいに驚いた。

 部屋に入ってきた由紀は僕とは対照的で目元からは隈が消え表情が幾分晴れやかに見えた。


「お母さん、起きてたの?」


 母は何事もなかったように愛娘に微笑を返した。


「お兄ちゃん、交代するよ。仮眠室使えば?」

「……いや、俺は一端部屋に帰って寝るよ」


 僕は妹と目を合わせられなかった。

 母の爆弾発言にありありと動揺している自分の虚ろな顔を、時々勘の鋭いところを見せる妹には見られたくなかったし、血の繋がりが半分だと知って妹のことが妹ではないように見えどう接していいのか分からなかった。

 今まで兄妹共通の父親だと思い込んでいた人物が自分とは血が繋がっていなかったという事実で全血の妹に対して引け目を感じてしまったのかもしれない。


「マンションに帰るよりも、家の方が近いよ。家で寝れば?」


 何も知らない由紀が僕を気づかってくれる。


 確かに病院から家までならタクシーで十分かからないぐらいだが、僕は由紀の言葉に素直になれず、背を向けたまま首を横に振った。

 今日はいつもよりも家の敷居が高い。

 慣れ親しんでいるはずの実家がどうしても見ず知らずの他人の家のように思えてしまう。


 軽く手を挙げて「じゃあ、また」と言うのが精一杯だった。

 ドアを開け振り返ると母は何か言いたげな、すがるような顔で僕を見ていたが、僕は顔を背け逃げるように部屋を去った。


 僕は、とにかく寝よう、頭を休めようとタクシーの窓に頭をもたらせるようにして無理やり瞼を閉じた。

 しかし、「血が繋がっていない」という母の言葉が耳の奥でいつ消えることなく鳴り響き、やがて吐き気を感じて僕は耐え切れずに目を開いた。

 僕は窓に向かって大きくため息をついた。

 気が立ってしまって、とうてい眠れそうにない。

 僕は白く曇った窓にベッド上の母の顔を思い出していた。


 母は高校を卒業してすぐにある銀行に就職した。

 そして二十歳のとき、彼女は同じ職場の十歳以上年上の男に誘われた。

 妻とは別居中というその男は人恋しそうな目で離婚をほのめかし、半ば強引に母に交際を迫った。

 男と女のことなど何もわからない無垢だった母は瞬く間に夜も眠れなくなるほどその男性を愛するようになってしまった。

 求められて断りきれずに始めた関係がいつの間にか盲目的に自分からすがりつくような形になって、気付いたときには母は妊娠していた。

 そのときに身ごもったのが僕だったという。


「最初はこれで結婚できるって思ったの」


 当時、母は僕を妊娠したことをだしに男に結婚を迫ったのだと僕に正直に言った。

 母は手持ちのカードのように使われたことを僕が怒ると思ったらしく深々と謝ったが、僕はそのことについて不快感はなかった。

 妊娠したから責任を取ってほしいと言う。

 それは卑怯なことではなく、母の正当な権利だと思った。


 妊娠の事実を知ると彼は人が変わったように冷たくなり、当然のように母に堕胎を要求した。


 親も彼と同じだった。

 彼女の母親、つまり僕の祖母は早くに他界していなかったが、密かに母に見合い話を用意していた僕の祖父は烈火の如く憤り、彼以上に中絶を主張した。

 しかし母はお腹の中の僕を殺すという考えは毛頭なかったらしい。

 男に妻との離婚の意思が全くないと分かり、その上親に勘当するとまで言われても僕を産むという母の決心は揺らぐことはなかった。


「今となっては何故かは分からないんだけど。精神的に追い込まれてたから意固地になってたのかしらね。その人のことはもう諦めてた。こんな人だったんだと思ってつらかった。でもその人との数年の結晶だと思うと中絶するなんていう気には少しもならなかった」


 涙を見せ、土下座をし、金を積んでも母が中絶に同意しないのを知ると相手の男はとうとう暴力を振るおうとした。


 母は彼と祖父の前から姿を消した。


「孫の顔を見ればお父さんも許してくれると思ったの。だから産むまでは必死だったわ」


 当初は友達の家を転々としていたが、そうそう迷惑をかけることもできず、お腹が目立つころにはホテル住まいを余儀なくされた。

 働いて貯め込んできた蓄えは見る見る減っていき出産どころか居場所すら覚束なくなり途方に暮れ始めたころに母の前にある男性が現れた。

 それは祖父が進めていた見合い話の相手だった。

 彼は母にお腹の子の父親になろうと申し出た。

 僕が今日まで実の父親だと信じて疑わなかった人間がその見合い話の相手だったのだ。


 嫌悪を通り越して憎しみさえ感じていた父親と血が繋がっていないと知って僕は複雑な心境だった。

 母の口から全てを聞いた直後、僕の心は驚きによって麻痺していた。

 しかし、時が経ち落ち着きを取り戻すにつれ様々な思いが僕の胸を去来している。


 せいせいしたという気持ちはある。

 いつか自分もあんな最低な父親になってしまうかもしれないというDNAによる呪縛からは解き放たれた。

 それはどこまでも続くと思われた暗いトンネルから不意に抜け出して明るい場所に出たような解放感と安堵感だった。

 しかし、どこからともなく忍び寄りいつの間にか根を下ろして今僕の心の大部分を覆いつくしているのは、もっと肌寒い感触のするものだった。

 それは紛うことなく寂しさだった。

 トンネルの中の陰湿な薄暗さを懐かしく思って明るみから振り返っている自分がいる。


 目の前の信号が赤になってタクシーは静かに停まった。

 隣の車線を走っていたワンボックスカーも同じように減速し、タクシーに並んで停車した。

 どこかへ出かけるのか、それとも家へ帰るのか。

 車内には家族向けに作られたその車に似つかわしく、一組の夫婦と二人の子供が乗っている。


 僕は突然その家族に激しい嫉妬を感じた。

 昨日までは何も意識しなかったはずの光景が僕に歯がゆい惨めさを味わわせる。


 母は僕を見るときただ単に僕を見ているのではなかったのだ。

 今まで僕の成長をどういう思いで見守ってきたのだろうか。


 由紀は何も知らない。

 しかし、僕は知ってしまった。

 これからも妹は今までと同じ目で兄を見るだろうが、これからの僕はどういう気持ちで妹の前に立つことになるのだろう。


 父は死ぬまで僕の中に他人を見ていたのだろう。

 父の僕に対する態度は何かの裏返しなどではなく、とどのつまりが仕方なく抱え込む羽目になった居候へのそれだったのだろうか。

 その冷たさには一滴の血も通っていなかったのかと思うと僕の胸の中にはぽっかりと穴があいてしまって、悲しいことに涙も出てこない。


「鳴ってますよ」


 タクシーの運転手に言われて初めて携帯電話が着信していることに僕は気付いた。

 慌てて電話を耳に当てると若い女の火花のような声が僕の鼓膜に襲い掛かってきて僕は思わず電話を少し遠ざけた。


「元気?風邪ひいてない?」

「ああ、元気だよ」


 声の主は結だった。

 僕は言葉とはあまりに矛盾した覇気のない自分の声に苦笑した。


「何かおかしい?」

「いや、何でもないよ。それよりどうかしたの?」

「そうそう、この前はごめんね。あんな風に飛び出して行っちゃったりして。朋子さんには凄く申し訳ないこと言っちゃった。朋子さん、怒ってた?」

「別に怒ってないと思うよ。あの後もケロリとしてたし」


 実際ベランダで三人でビールを飲んだとき朋子さんに落ち込んだ様子はなかった。

 以前の精神的に不安定な状態を知っている僕は結の言葉に打ちのめされて鬱々とする朋子さんを想像したが、彼女は逆に躁状態になるわけでもなく「言われちゃったわね」と軽く笑っただけだった。


「良かった。言いすぎたなって思って気になってたの。今度、朋子さんのところに謝りに行くわ。言いたいこともあるし……」


 結は何か含みがあるような言い方をしている。

 わざわざ電話をしてきたのには何かもっと他に理由があるはずだと僕は思った。


「それで?」

「えっ?」

「俺に何か言いたいことがあるんだろ?」

「さすがに鋭いわね。あなたが相手だったらきっと上手くいくと思うわ」


 不意に僕の頭を横山刑事の顔がよぎった。

 結の横で借りてきた猫のように小さく座っていたり部屋を出て行った結の後を追いかけていったりした彼の姿が次々と僕の目に浮かんだ。


「結婚するの?」

「そんなつもりは全然ないわ。でもお友達として付き合うことにはなったの。情にほだされちゃったのかしら。あんなタイプ初めてだから一緒にいると何だかこっちも緊張しちゃうわ」


 まるで処女みたいね、と結はくすくすと笑った。


 要はのろけたいだけなのだ。

 しかし、それが分かっても僕は不快ではなかった。

 結の乾いた声は底なしに明るくて、少しの間僕の濡れそぼった心の重みを忘れさせてくれる。

 そう思うと横山刑事に対して微かに嫉妬心が疼くが、その苦味もまた爽やかだった。


 電話を切るとようやく僕は睡魔に襲われた。

 電話をしているときからその兆候はあった。

 結の飛び跳ねた声が今日は何故か僕の心を温め落ち着かせてくれたのだ。

 何年も一緒に生活して分かり合えていると思っていた家族の間の秘事を知って心の芯から疲れ果て、つい先日会ったばかりのどこの馬の骨とも知れない女性の声を聞いて心を救われるなんて皮肉な話だと僕は思った。


 軽く目を閉じ、シートに全身を委ねると今度こそ眠れそうな気がする。

 そう思ったときには既に僕の意識はどこか遠くに飛んでいた。


 瞬く間に眠りに溺れながら、僕は海の底に眠る難破船の宝箱のような一つの明確な答えを見つけた。

 それはまるで神の啓示のようだった。

 自信も根拠もないが、僕は不思議とその決断を下しても後悔しないことを確信していた。

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