030 舞台の上には過ちだけが転がっていて



 戻りましょう、と言われて、修二は振り返った。


「……ここ」


 イスカはいつも通りの侍女服に無表情で、修二の後ろに控えていた。


「男子トイレなんだけど」

『では、私がこのような場所に来なくていいような振る舞いを心がけてください』


 修二は黙り込んで、洗面台に視線を落とした。

 イスカは溜息一つも零さずに、いつも通りの冷たい声で修二を促す。


『ここでじっとしているのも構いませんが、格好悪いのには変わりがありません』

「分かってる」


 イスカが嫌に饒舌だ。

 それを口にすれば、彼女はやはり、同じことを返すのだろう。


「分かってるから、少しだけ……待ってくれ」


 ちっぽけでも、安っぽくても、それは修二の大事な防壁だった。

 修二は色々なものを失ってきた。だから、せめてプライドだけは守りたかった。


 勿論、そんな権利は、弱者には与えられていない。


『何を気に病むのですか。可愛らしくて巨乳の彼女が欲しいと常々言ってたでしょう』

「……常々は言ってないだろ?」

『目は口ほどに物を言います』


 心当たりを思い浮かべるのも気まずかった。

 修二は嘆息して、天井を見上げる。


「何分経った?」

『五分ほどです』

「……行くか。馬鹿馬鹿しくなっちまった」


 時間が欲しかった。けれどそれは、今こうして逃避するための時間ではないのだ。


 自分がどう受け止めればいいのか把握する時間で、夏希のことをもっとよく知る時間で、自分の気持ちに整理をつける時間で。

 何より、夏希に少しでも釣り合う自分になるための時間が必要だった。


 釣り合わないだろう、と姉は言った。

 その通りだ。釣り合わない。

 夏希と共に戦って、夏希のおこぼれに預かって、それで夏希と共に賞賛されるというのは、釣り合わない。


 まるで丈の合わない服を着せられたような違和感。そして引け目。


 元の場所に戻ってみれば、何故か姉とカーンがいる。

 修二はどうしたものかと頭を掻いた。

 イスカは何も主張せずに後ろにただ控えている。だから、急かされるような感覚は思い込みだ。


「……ごめん、戻ったよ」

「うん、おかえり、修二くん」


 夏希の屈託のない笑みに気後れする。

 カーンも姉も、今だけはじっと黙ってくれている。

 彼女の胸元を押さえる手に力がこもっているのを見て、修二はどうにか躊躇を振りきった。


「あのさ」

「……うん」

「突然言われても、その……なんていうか、困るっていうか」


 どう伝えればいいのか分からないから、修二は正直に自分の心境を吐露した。

 気恥ずかしいのを必死に押し留めて、ちゃんと夏希の目を見て一言一言を形にした。


 夏希が青い顔をするのを見て、言い回しに失敗したことに気付く。


「嫌じゃない。好きだって言われて嫌なわけはないんだ。そうじゃなくて」


 ――格好悪いな、と修二は思った。

 女々しいし、みみっちい。そんな自分を自覚する度、余計に気後れする。


「……だけど、ちょっとだけ、時間をくれないかな」


 夏希がそんなつもりで言ったわけじゃないとは分かっている。

 けれどどうしても、修二は夏希の好意を喜べない。それは甘受するにはあまりに鮮烈な偶然で、施しを受けているような気分にさせられた。


 ちっぽけなプライドが否と答える。

 弱者の分際で、修二はそれでも最後の一線を捨てられない。


 とうに捨て去った願いの残滓が、あの日思い描いた夢を、せめて色褪せさせないでくれと、そう言っている。

 今ここで彼女の下で家畜のように尻尾を触れば……それはきっと、筐体のレバーや、遥か高いゴールポストや、コンピュータの中のデータに詰め込んだ夢すら汚してしまう。


「ごめん。都合のいいこと言ってるのは分かるけど、頼む」


 俯いて胸元を抑えて下唇を噛む夏希に、修二は頭を下げることしか出来なかった。

 色々なモノに向き合うための時間が欲しい。夏希に連れられるだけの男にはなりたくなかった。




 ――けれど、世界は待ってはくれなかった。

 見て見ぬふりをしなければ、あるいは気付けたのかもしれなかった。




 初めにそれに気付いたのはイスカだった。


『……夏希様』


 これまでずっと黙っていたイスカが、すっと前に出て夏希に迫った。

 夏希の指は震えていて、夏希の呼吸はどんどんと荒くなっていった。


「う、あれ」

『夏希様、貴方は……!』

『え、嘘、嘘でしょ、なんで今』


 修二は何が起きたか分からない。

 ただ、夏希の仕草が――彼女の心情を表すものではなかったのではないかと、その時ようやく思い至った。


「あ……これ、だめな、やつだ」

「――夏希!」


 瞳が咄嗟に駆け寄って肩を支える。

 途端、夏希は胸の奥をぐっと押さえて、しゃがみこんだ。唇どころか、顔面まで蒼白で――。

 その様子は、恋に苦しむ、などと表現するにはオーバーだった。


「やはり来たか。そうなると思っていたよ」

『チアノーゼ……不味い』

「セレネ、しゅーじく、ちょっと」

「な、つき?」

「ごめ、ごめん、……くるし……」

「おいおいおいおい、洒落なってへんぞこいつぁ」


 倒れこむ夏希を修二はどうにか支える。


『修二様! 応急処置を! 呼吸が止まっています!』

「な、なに」

「どけ修二! くそ、血中粒子機械がダメになったか! 血流も……!」


 瞳は修二を押しのけて夏希を横たえ、胸骨圧迫を開始する。

 嫌に手慣れた動作で姉は応急処置を続けた。


「マルファス、職員に連絡!」


 瞳の一声より早く、鴉は飛び立っていた。


「カーン君、診断アプリは!」

「俺ぁ救護用やあらへんので、……ライラウス!」

『インストール中故、十三秒待たれよ!』

「セレネ!」

『い、今救急コール中よ!』

「すでに私が済ませた!」


 セレネもまた、青い顔をしていた。


「修二、代われ! 呼吸はダメだ、直接体内に酸素を送る!」


 瞳に言われて、修二は見よう見まねで心臓マッサージを始める。

 こんな時なのに、彼女の胸に触れる事には抵抗があった。

 余計な事を考える自分を、殴りつける余裕もない。


 上半身の体重を使って、胸骨を圧迫……その手つきは瞳と比べれば明らかに拙く、効果があるとも思えなかった。まず三十回押すのだったか。


 瞳は指を糸のように細く伸ばし、首筋に添えた。皮膚を割り、潜り込んだ極細の指が血管を傷つけずに内部に到達したのを確認して、目を閉じた。

 シリコノイドは誰しもそこまで万能ではない。医療行為は当然知識と技術が必要だ。

 姉がどこでそんな技術を学んだのか、修二は知らない。


 イスカはセレネへ向き直った。

 これほど必死なイスカを、修二は知らない。


『彼女のナノマシンの生体認証キーを解除しなさい』

『な、に言ってるのよ』

『貴方も解除権限保持者でしょう。瞳様を介して、手動でシンセティックSマイクロMバランサーBを再起動します』


 何度押したかわからなくなった。とにかく気道を確保。

 仰向けになった夏希は苦しそうな顔をほんの少しだけ和らげた、気がした。


 修二は混乱していた。

 けれど何が起きているのか分からないのは修二だけで。


同期異常病ディスチューンドの応急処置は、心得があります。手を貸しなさい』


 その言葉に動きを止めたのも、修二だけだった。


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