四章

一話 サーシャは踏み出す (サーシャ)

 朝早い時間に父と母が家を出る。二人は都会にある同じ警備会社に勤めていた。

 十分に時間を開けてからサーシャは行動を開始する。まずはリータの部屋に入って服を拝借。

 ボトムはグレーのデニムパンツ。普段のサーシャはもっぱらスカートを穿き、デニムのパンツなんてものは数えるほどしか穿いたことがない。感触にかなり違和感があるけれど、リータに化けるためには必要だ。


「思っていた程ウエストに差がないのが腹立たしいわ」


 バストもヒップも妹の方がずっと大きいのに。ともあれベルトを締めて裾を折れば問題なく穿けた。

 トップスは、袖をまくったデニム地の長袖シャツと前を開けた赤いダウンベスト。厚いベストでもってバストの差を誤魔化す。パットで誤魔化すのはサーシャのプライドが許さなかった。

 そして自分の部屋に戻ると髪をアップにし、電磁波対策をしてあるサーシャ専用のベージュ色をしたチューリップハットを被る。

 ひと通りの準備が終わったサーシャは、姿見で双子の妹たるリータに化けた自分を見てみた。チェスノコワ姉妹をよく知る者が見ればサーシャだと分かるだろうが、今回騙す相手はリータをそれほどよくは見ていないはずだ。


「後はリータらしい元気な挙動をすれば大丈夫そうね。なんとかして私のにじみ出る気品を消さなくては」


 そして自分のベッドで寝ているリータに顔を向ける。この無垢な妹をなんとしてでも守りたい。


「行ってくるわね、リータ」


 そっと口付けをした。






 黒いハイカットのスニーカーを履いてサーシャは玄関を出る。そのまま前庭を歩いて抜けて門扉の前で立ち止まった。ここを抜けて出ないと話にならない。それは分かっているが……。


「いいえ、私はやるわ」


 門扉は縦に何本も並べた鉄の棒でできている。牢屋みたいだといつもサーシャは思うけれど、ここに閉じこもっているのは過去を振り切ろうとしないサーシャ自身の意志だった。

 黒くて太い鉄の棒を掴み、ゆっくりと手前に引いた。耳障りな音を立てながら門が開いていく。門を握る手は自分で分かるくらい汗がにじんでいる。

 どうにか通り抜けられる程度開く。


「大丈夫。私はやれるわ」


 家の敷地の際に立ったサーシャは何度も深呼吸をする。前回の失敗が――文人の前で無様に吐いた自分の姿が、脳裏から離れてくれない。


「今日は絶対に外へ出ないといけないの。リータのため……リータのためなら何でもできるはずでしょ?」


 声を出して自分に強く言い聞かせ、右足を門の外へ大きく出す。

 途端に獣の咆哮が耳をつんざいた。飛びかからんばかりに猛り狂っている。さらに目の前に広がる森の木々が枝を伸ばしてサーシャを捕まえようと迫った。何十羽という烏の鳴く声が頭上からする。サーシャに襲いかかる相談をしているに違いなかった。

 サーシャの脳の奥から恐怖が湧いて出てくる。これに囚われてはいけない。それは分かっているが恐怖はサーシャの心を、身体を束縛する。


「リータ……私に力をリータ……」


 愛おしいリータの笑顔がサーシャの頭に浮かんだ。リータに抱き締められた時のように身体が温かくなるのを感じる。湧き上がった勇気がよくない考えを追い出していく。


「消えなさい! 空っぽの幻覚風情がっ!」


 サーシャが叫ぶと獣は吠えるのを止めた。森の枝は引っ込み、烏も遠くへ去る。

 そもそもこの近所に獣なんていないのだ。当たり前の事実に勇気付けられ、サーシャは身体の重心を前へ移していった。

 ふわっと行く手からそよ風が吹いてくる。それを頬で受け止めたサーシャは、外の世界が自分を迎えてくれていると感じた。胸が心地よく高鳴る。

 そして右足が門の向こうにある道路の上に降り立つ。その右足に体重を移して左足を浮かす。平衡感覚が狂い少しよろめいてしまう。どうにか立て直して浮かした左足を前へ。そしてゆっくり右足の横へ下ろす。アスファルトの上でしばらく立ち尽くした。上体だけを後ろへ向けて自分が確かに門の外にいることを確認する。再び前を向く。

 サーシャは、十年ぶりに家の敷地の外へ出た。






 一歩一歩慎重にサーシャは歩んでいく。

 みもろ台の中へ入っていくにはチェスノコフ家の前に広がる森を抜けていく必要がある。きちんと舗装された道なのにサーシャには未開の地を歩いている気がしてしまう。頭上には覆い被さるように枝を伸ばす木々。

 もう秋も深い。ちょっとした風で枯れた葉が降り落ちてきた。その葉が呪いか何かのような気がして身体にかかるたびに手で何度も払う。

 サーシャはまだまだ神経質になっている自分を感じた。


「こんなことなら自転車に乗る練習をしておいたらよかったわ」


 リータお気に入りのマウンテンバイクなら目的地まですぐだろう。どうせ外へ出ていかないからと言って練習を怠った自分を恨むサーシャ。

 どうにか森を抜けると一戸建てが建ち並ぶのどかな住宅街。それでもサーシャにとっては迷宮と同じだ。

 みもろ台の主婦たちの話を総合して目的地までのルートは検討済みだ。犬を道に面したところで飼っている家は回避。野良猫をよく見かける付近も避ける。当然、車の多い道も。

 烏が厄介だ。連中は町中のどこへでも姿を見せる。今日がゴミの日でないのがせめて幸いか。

 不気味な烏の鳴き声を聞いてサーシャは身を強ばらせる。遠くにいると分かり胸をなで下ろし、それでも警戒しながら前へ進む。

 それにしても電磁波が予想以上にきつい。電柱にある変圧器の下はできるだけ避けているのだけれど……。


「そこいら中にあるWi-Fiワイファイもきついけれど、歩きスマホに比べたらずっとマシだわ。さっきの男は絶対に許さない……」


 スマホで通話しながら道の真ん中を歩く営業マン風とすれ違ったら、強い電磁波で頭が酷く痛んだ。人を呪う能力なんてないサーシャだけれど、取りあえずあの男の営業成績がゼロになるよう呪っておく。

 そもそも自動車やバイクも厄介な電磁波の発生源だ。あれのエンジンは点火プラグの火花放電を利用して燃料を燃焼させるのだけれど、その毎秒何十回と繰り返される放電が少なからずサーシャの頭に響いた。エンジン以外の電装品からも当然電磁波が発生する。チェスノコフ家にも自動車はあるけれど、サーシャは遠くからしか見送りをしない。

 思ってもみなかったことだけれど、電磁波があまりにも煩わしいせいで外への恐怖は忘れがちになっていた。昨夜見たDVDの効果もあるのだろう。どの道外を歩き回るのが苦痛なのには変わりがない。


「あら、サーシャちゃんじゃない」


 前から近付いてきたのはチェスノコフ家によく遊びにくる主婦の一人だ。サーシャは彼女たち主婦の情報網を一括管理して『みもろ台マダムネットワーク』として活用している。

 それにしてもひと目でサーシャとバレてしまった。サーシャは自分の変装に自信がなくなってくる。


「おはよう、樋口さん。朝からウォーキングとは熱心ね」


 電磁波で頭が痛いけれどそれを表には出さずに声をかけた。不調を知られて大げさに心配されるとかえって困る。


「サーシャちゃんもお散歩? やっと家の外へ出る気になったのね」

「今日は特別よ。じゃあ、私は急いでいるから」

「またお邪魔しに行くわね」


 二、三言葉を交わしただけで別れた。長話好きの人でなくて助かったとサーシャはほっとする。






 そして難関。大通りの横断歩道だ。

 サーシャは生まれてから今日まで歩いて横断歩道を渡ったことが一度もなかった。しかもここは四車線もある。

 横断歩道にたどり着いた時には信号はまだ青だったが、サーシャは次の青までやり過ごすことにした。途中で信号が変わったら大変だ。

 青信号を曲がってきた自動車が横断歩道の手前で停車する。どうして走り去らないのか不思議に思ったサーシャだけれど、自分が渡るのを待っていると気付いて慌てて後ろへ下がった。

 ふいにちりんちりんと音が鳴る。音がした方を見ると歩道を走る自転車が迫ってきていた。正確にはサーシャが周囲を確認せずに後ろに移動したから自転車の進路を妨害してしまったのだ。現状を認識したサーシャだけれど、どうしたらいいのか分からない。

 今から動いたらかえって危ない気がした。だけれど自転車は進路を変えない。サーシャの方から向こうの進路を塞いだのだから避けるのはサーシャなのか? 海上では衝突しかけた船の回避方法はちゃんと決められているのに。サーシャはひたすら混乱する。

 自転車に乗っているのは小汚いジャンパーを着た中年男だった。人を見かけで判断してはいけないのかもしれないけれど、こういう人間は自分から避けるような親切な心は持ち合わせていないのでは? か弱い女の子を自転車で轢いてしまっても平気な顔をして過ぎ去っていきそうだ。

 そこまで考えたサーシャは一気に前へジャンプした。これで危機は回避した。


「おいコラッ!」

「えっ!」


 向こうも同時にサーシャを避けようとしたのだ。結果、サーシャは自転車の進路に立ち塞がる形になった。さらに前へ踏み出そうとしたサーシャだけれど足がもつれて転んでしまう。


「気ぃ付けろや、ドアホ!」


 どうにか自転車はサーシャにぶつからず通り過ぎてくれた。ほっとしたサーシャのすぐ目の前を車が走り抜ける。十年前、赤い車に追い立てられた恐怖がよみがえり身体がすくんでしまう。

 自分の身体が車道にはみ出しているとは分かっているけれど、身体が動いてくれない。クラクションを鳴らしながら車が走り去る。


「どけよ! クソガキ!」

「轢いて欲しいのかよ! 頭湧いてんのか、テメエ!」


 赤い車の男の罵詈雑言がサーシャの中で次々よみがえる。


「違うの……動けないの……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 身体が震えてどうしようもない。ただただうわごとのようにつぶやくサーシャ。


「おい、お嬢ちゃん、大丈夫か?」


 肩を叩かれて赤い車の男の声が遠ざかった。


「ええ、大丈夫……ありがとう……」


 サーシャはどうにか自力で立ち上がる。

 声をかけてくれたのは小汚いジャケットの初老の男。見た目、さっきの自転車の男とそう変わらない。やっぱり見かけで判断してはいけないようだ。


「いや~、びっくりしたで」

「ちょっと転んだだけよ。もう平気だから」

「そうなんか? ほな気ぃ付けや」


 そう言い残して男は横断歩道に入っていく。ぼんやりしていた間に信号は一巡したようで、道の向こう側に立つ中年女性も歩き始めるところだった。

 もうこんなところにはいられない。サーシャは小走りで横断歩道を渡っていく。

 と、右折してきた車がすぐ横で停車する。サーシャが走ったせいでぶつかりかけたのだろうか? サーシャはぺこぺこ頭を下げながらとにかく走ってその場から逃げ出す。滅多に頭なんて下げないサーシャは自分の卑屈な態度にショックを受ける。涙が浮かんで前がかすんで見えた。






 横断歩道を渡り終えたサーシャは上を向いて涙が流れ落ちないようにする。こんなことくらいで泣くわけにはいかない。

 どうにか気を取り直して前へ進んでいく。いきなり後ろから子供がわめく声が聞こえた。身を強ばらせたサーシャの脇を小学校低学年くらいの男の子が何人も走っていく。

 あんな小さな子どもでも平気で町をうろついてるのに、自分は横断歩道すらまともに渡れない。酷くみじめな気持ちになってくる。

 いいや、サーシャは頑張らないといけない。リータを救うという大きな目的があることを忘れては駄目だ。

 心を奮い立たせながらサーシャがたどり着いたのは小さな喫茶店。当然、サーシャが一人で喫茶店に入るのは生まれて初めてのことだ。


「いらっしゃいませ」


 老人と言ってもいい年のマスターらしき男が声をかけてくる。こういう時、お客は馬鹿正直に返答しなくてもいいとサーシャは小説で読んで知っていた。

 これからサーシャは電話を借りないといけない。ここにあるピンク色をした旧式の電話なら、サーシャでもあまり頭を痛ませず使えるはず。この電話があるからこそサーシャはこの店に来たのだ。

 だけれどこの時点でサーシャは随分気が弱くなっていて、いきなり電話を借りるのは図々しい行為に思えてしまった。仕方なしにテーブル席に腰かけてブレンドコーヒーを頼んだ。紅茶はなかった。

 サーシャは紅茶を愛飲していたがコーヒーが飲めないわけでない。お客を歓待する際には相手の好みに合わせてコーヒーを飲んだりした。

 とはいえ今は紅茶で心を落ち着けたい気分だ。何もかもがうまくいかない……。

 自分を励ましつつコーヒーを飲み終えたサーシャは、用件を済ますべくマスターに声をかけた。


「電話を借りていいかしら?」

「はい、どうぞ」


 サーシャが電話をかける相手は宗作だ。彼の電話番号は前にリータから聞きだしている。何かの時に役立つだろうと思ったが正解だったわけだ。


「はい、高杉ですけど?」


 非通知でかけたので戸惑っている様子。どこまでも気が弱い。


「宗作? サーシャよ。あなた、私のかわいいリータをトラブルに巻き込んでくれたわね? 少し話をしたいわ。今すぐ私の家まで来てくれないかしら?」

「あ、うん。そうだね……分かった」


 彼なりにリータを巻き込んだことに責任を感じているようだ。簡単に言うことを聞いた。


「ただ、例のノートパソコンは持ってこないでね。私は超能力のせいで電磁波を出す機械があると具合が悪くなるの。リータから聞いていないかしら?」

「あ、聞いてないな……。でも、あれは手元に……」

「駄目よ。リータだけでなく、私まで苦しめるの?」

「わ、分かったよ。手ぶらでいく」

「そうして頂戴。じゃあ、待っているわ」


 がちゃんと切る。

 宗作は気が弱い上に頭のキレもよくない。ああ言っておけば馬鹿正直に例のノートパソコンを置いてサーシャの家へ向かうはず。

 ようやく……ようやく、ドゥヴグラーヴィ作戦は第一段階を終えた。

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