第一章 あつまらない星

Bygone days.1




 ――あの日、僕は少しだけ嬉しかった。

 遠くにいた父が、初めて近くに寄ってきてくれた、そんな気がした。

 

 

 

 二〇〇九年、十二月――。

  

 高木すばるは待っていた。父の帰りを待っていた。

 今日は学校が終わってから、いつものように学童(保育所)へ行った。

 学童は小学校の敷地内にあって、主に両親が共働きの子を夕方まで預かってくれる。登録している子供の数は多いが、昴の同級生はあまりいなかった。小学三年生ともなると習い事を始める子が多い。早くも中学受験に向けて塾へ通い出す子もいる。家で過ごしたいから、友達と遊びたいから、という理由でやめる子もいる。子供たちの放課後は、家庭の方針によって様々だ。

 今日も同学年の子はおらず、昴は下級生の子と、クリスマス会に向けての飾りを作った。厚紙をハート型や星型に切って色を塗ったり、輪っかを何十個も作って長くつなげたり、ピンクの花ちり紙で紙花を作ったりした。

 宿題もやった。算数のドリルはあっという間に終わってしまった。まだ習ってないところまで進めようとすると、先生に止められた。みんなと一緒にやらなくちゃだめだと言う。簡単なのに……と思いつつも、ドリルを閉じた。

 五時を過ぎて外が真っ暗になると、ぽつぽつと仕事帰りの親が子供を迎えに来始める。迎えに来るのは、祖父母や年上の兄弟の場合もある。最近、学校近くで不審者による児童への声かけが頻発し、学童は保護者の迎えを推奨している。しかし、昴には関係のない話だった。

 一人、二人と子供たちが帰っていく中、昴は黙々と本を読んだ。所内は人が減り、静かになっていく。先生たちはうーんと大きく伸びをして、片づけを始めた。

 学童は六時までだ。壁時計の針が、縦に真っ直ぐになったのを見て、最後まで残っていた昴も立ち上がった。ランドセルを背負って先生たちに別れを告げ、学童を出た。

 いつものように、一人で家に帰る。帰っても誰もいないけれど――。

  

 学校から歩いて十五分ほどの、閑静な住宅街の一角にある、コンクリートの三階建ての一軒家、それが昴の家だった。

 一枚の壁のようにそびえ立った灰色の建物は、当然ながら真っ暗で、しいんと静まりかえっている。昴はペンダントのように胸に下げた紐付きの鍵を取り出し、ドアを開けた。典型的な鍵っ子だった。

 砂と埃が積もった玄関は、薄汚れた男物の靴しかない。昴は、まず一階の全ての部屋の電気をつけた。それからリビングに入って、エアコンの暖房とテレビをつけた。テレビはアニメがやっていた。目がチカチカするほどの原色が踊り、愛くるしいキャラクターが楽し気な声で騒いでいる。別に好きで観ている番組ではないが、なんとなく賑やかな雰囲気になった。

 リビングは生乾きの衣類や玩具、雑誌や本で散らかっていた。テーブルの上には、空のペットボトルが何本も並んでいる。ゴミ箱もゴミでいっぱいだ。食べ散らかした残飯もそのまま放りこんであるので、すえた匂いが漂ってくる。匂いが気になりつつも、昴は見て見ぬ振りをした。

 ソファの上で、両膝を抱えるようにしてテレビを見た。アニメは続いていたけれど、話は頭に入ってこなかった。ただ潰されるためにある、無為な時間だった。慣れているので苦痛ではないが、虚しさはある。一人ならば尚更だ。

 七時近くになると、昴は無意識のうちに玄関の方を見た。

 長年の習慣みたいなもので、この時間になると妙に胸が騒ぎ、そわそわしてしまう。

 本来なら、母親の麻理子が仕事から帰ってくる時間だった。

 麻理子は大手町の商社で働いており、平日は帰ってくるのが早くても七時、残業がある日は八時、九時にもなった。帰ってきてから食事を作るので、夕食はいつも遅かった。学童から帰って、適当に時間を潰して、母親と二人でご飯を食べて、その日あったことを話して、風呂に入って、次の日の授業の準備をして寝る。それが昴の、当たり前の日常だった。

 土日も大体似たようなものだった。二人で買い物に行き、母の友人や親戚に会い、学校行事に参加した。夏休みや冬休みには旅行にも行った。盆もクリスマスも正月も、常に母親と一緒だった。

 高木家に、父親の姿はなかった。家族の行事があるごとに、母は溜息をつきながら、「お父さんは、仕事が忙しいのよ」と言った。普段は明るく快活な声は沈み、表情は強張っていた。深い葛藤があるようだった。仕事が忙しいのは彼女も同じだった。フルタイムで働き、残業も多い。家庭持ちだからといって仕事が減ることはなく、家事も育児も全部一人でこなさなくてはならなかった。

 昴も、気を使って父のことは尋ねないようにしていた。

 父は確かにこの世界に存在しているし、一緒に暮らしている。

 アルバムをめくれば、三人で写った写真もある。

 けれど、生まれてこのかた一緒にいた思い出はあまりない。

 思い出がないということは、特別な想いもない。記憶とは、言葉やからだの触れ合いなくしては生まれようがないのだ。昴の中で、父の存在は紙のように薄っぺらく、重きをなさなかった。

 ――そう、これまでは。

  

 だらだらしているうちに、八時を過ぎた。

 昴もわかっていた。

 夜じゅう待っても、母は帰って来ない。手作りの夕食もない。それが現実だ。

 一ヶ月ほど前、この家から麻理子の私物は消えた。

 何も知らない昴が家に帰って来た時には、全て片付けられ、運び出されていた。

 洗面所に所狭しと並べられていた化粧品、お気に入りの食器、靴箱に仕舞われていた沢山の靴、二階の寝室のクローゼットにぎゅうぎゅうに詰まっていたスーツ等が綺麗さっぱりなくなっていた。家具は残されていたが、家電は台所にあった炊飯器だけ持ち去られた。なのに、米が残っているのがおかしかった。

 あらかじめ用意周到に準備された、実に鮮やかな退去だった。

 昴は本当に何も知らなかった。

 知らされないまま、母は彼の前から突然姿を消した。

  

 九時近くになって、昴は空腹を覚えた。

 学童でおやつを沢山食べたけれど、夕食分にはならない。キッチンへ行って食べ物を探した。キッチンはリビングよりもさらに雑然とし、シンクには汚れた食器が積み上がり、スーパーの袋やパックが散らばっていた。戸棚の中に、割引のシールがついたクリームパンを見つけた。昴は冷蔵庫から牛乳を取り出し、立ったままパンを食べ、牛乳を飲んだ。パンは賞味期限を過ぎてかたくなっており、牛乳もどこか酸っぱかった。それでもよかった。腹がふくれるなら、なんでもよかった。

 食べ終わるとリビングに戻って、ソファにごろりと横になった。つけっぱなしのテレビはニュースになっていたので、バラエティ番組に替えた。水着姿の芸人たちが氷水を張ったプールに飛び込んで悲鳴をあげ、それを見たスタジオのゲストがかしましく笑っている。昴は無表情のまま、画面をじっと見つめた。面白くはないが、人の笑い声を聞いていたかった。笑っている人を見て、笑えたらいいのにとも思った。

 とうとう十時を過ぎた。

 まだ、帰ってくるはずの人間が帰ってこない。母ではない。父の明彦だ。

 明彦は今、母を失った息子が家に一人でいることを理解している。なので、親の務めとして帰ってこないというのはありえない。

 だが、遅い。これまでもそうだったはずなのに、今の昴は父の多忙さが腹立たしくある。

 苛々しながら、テレビを消した。

 消した途端、静まり返った部屋に、時計の秒針の音がやけに響いた。孤独な音だった。

 昴は意を決して立ち上がり、ダウンジャケットを着、マフラーを巻いた。

 このままでは父が帰ってくる前に寝てしまいそうだ。それは嫌だった。

 暖房と電気はつけっぱなしのまま、靴を履いて玄関の外へ出た。

 ドアを背中で押すようにして閉め、そのまま寄りかかった。

 外は帰ってきた時よりも寒かった。冬の容赦ない冷気に、暖房で煮えた頭がしゃきっとした。吐く息は白く、両手をダウンのポケットに突っ込んだ。

「遅いなぁ……」

 空を見上げてぼやく。思えば学童を出てから、初めて発した声だった。寒さからか、それとも切なさからか、少し震えていた。星が幾つか見えた。弱々しい光だった。

 昴は、二ヶ月前に九歳になった。

 大人たちの複雑な事情はよくわからない。

 いまだに、母が家を出て行った理由もよく知らない。

 だが子供の、子供ならではの本能めいた直感で、二つの事実を冷静に受け止めていた。

  

 一つ。お母さんは、たぶんもうここには帰ってこない。

 二つ。だから、お父さんとはうまくやっていかないといけない。

  

 

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