第十一話 奥の奥

 八月十四日、午後三時過ぎ。


 真夏の炎天下、周囲の人形店の店員達が目を丸くする中を、鞠子達は物騒な男達に囲まれて堂々と拉致された。

 彼らはトヨタのヴェルファイア二台を用意しており、鞠子達はその指示に従って大学生四人とその他五人に分かれて乗車する。

「ふうん、さすがは本職だね。抵抗を抑えるためにわざわざ二つに分けるとはね」

 乗り込んだ鞠子がそう呟くと同時に、車は滑らかに発進した。

 鞠子達の車両は、前方二席には男達が乗り、中ほどには斎藤と山根が、後方には鞠子、瞳子、四月朔日が乗っている。前席の二名はなんだか緊張しており、斎藤が、

「せっかくの景色がスモークガラスのせいで見えないなんて、もったいないわね」

 などと声をあげる度に、いちいち反応して身動ぎをした。

 斎藤の言う通り、車内から外はスモークガラスで見づらくなっていたが、車は松本市民であれば見なくても間違いようがないルートを辿っていた。

 高砂通りは一方通行だから、右折して松本駅前を走る国道一四三号線に出る。

 そのまま駅前を通り過ぎて渚の交差点に進み、国道一五八号線、通称『野麦街道』へ。

 後は北アルプス方面へ道なりに進む。

 その、何の工夫も見られない走りに、鞠子は苦笑した。

 後方の車から嫌がられつつ、制限速度内でゆっくりと進んでいたミニバンは、

途中の新島々の辺りで脇道に逸れ、古ぼけた倉庫と思われる建物に入る。

 中にはマイクロバスが一台準備されており、そこで物騒な男達とは分かれることになった。

「快適だったよ。どうも有り難う」

 と斎藤が声をかけると、終始前方を向いていた助手席の男の頬が引きつった。

 ここで案内役が、雰囲気は異なるもののやはり巌のような男九人と、変におどおどとした男一人に代わる。

 彼らは全員が同じ種類の作業服を着ていたが、九人の男達はなんだか窮屈そうに見えた。要するに、出来合いの作業服ではあわない規格外の身体ということだ。

 ナンバープレートの読み取りを危惧したのだろう。車輛は左側をあわせて互い違いに停められて、乗り換えを急がされた。

 しかし、鞠子は奥に放置されていたアルミ板にナンバープレートが映り込んでいるのを見逃さなかった。一瞬で脳内に取り込む。それは「わ」ナンバーであったから、レンタカーと知れた。

 車を準備している暇すらなかったらしい。暴力装置の男達の手慣れた対応も問題だが、素通しの窓の車に拉致した者全員をまとめて乗せるというのは、素人考えも甚だしい。

 その、いかにも場当たり的な対応に、鞠子は苦笑した。

 運転席には屈強な男が滑らかな仕草で乗り込んだ。助手席にはおどおどした男が座り、屈強な男四名が車内前方に、残りの四人が車内後方に横並びに座っている。

 意味がある様に見えて、実はこれには意味がない。この並びでは窓側の席に座った二人は、緊急時に身動きが取れなくなるからだ。

 そのことで、彼らの所属する集団が鞠子にはなんとなくわかった。集団で行動する際、状況への対応よりも秩序や規律を重んじる。それは警察、消防、あるいは自衛官の在り方である。

 鞠子達の後から、大学生四人組がマイクロバスに乗り込んでくる。彼らはさすがに緊張していた。鞠子が「大丈夫」といっても、さすがに斎藤のようにはいかなかったらしい。

 乗り込むやいなや、沢渡が大きく溜息をついた。

「いやもう、緊張したの何のって」

 そう安堵の声を出して、後席右、窓側に座った男から、

「無駄な口を叩くな」

 と重い声で叱責される。それを聞いた途端に、今度は斎藤が嬉しそうな声を出した。

「そう、それだよ。そうこなくちゃ雰囲気が出ないよね」

 鞠子は別なことを考えていた。

(つまり、彼がこの中で最も階級が上ということか)


 *


 八月十四日、午前六時。


 元人形店には、洋、隆、清、鞠子、瞳子、四月朔日、斎藤、山根、三好、沢渡、野沢、深雪の、合計十二名が集まっていた。

 前日は姿のなかった清と斎藤の姿に、鞠子は、

「ああ、この二人が秘密兵器ということか」

 と納得する。

 全ての企てを実行するにあたって、洋は関係者一人一人に細かい指示を出していた。それは、大学生四人組だけではなく、驚いたことに瞳子にまで及んでいた。

「パパ、何て言ってたの」

 鞠子は一応、瞳子に聞いてみたが、

「へへへ、内緒だよ」

 と、楽しそうな声ではぐらかされる。自分も一人前にカウントされて嬉しかったらしい。ただ、その後で彼女はこう言った。

「でも、意味がよく分からないんだけどね」

 鞠子は各自の反応をよく見ていた。そして、瞳子、四月朔日、野沢の三名だけが、一瞬怪訝な顔をしたのを見逃さなかった。彼らだけは本人がよほど意外に思う指示を受けたらしい。

 その後、洋、隆、清の三人が姿を消した。

 正確にはもう一匹。前日から玄関付近で待機していたカニコ二号も一緒に行ったらしい。楽しそうな鳴き声が遠ざかっていった。

 洋が鞠子に残した指示はいくつかある。

「ママは一部始終をよく見ておいて欲しい」

 まず、それが一つ目だ。


 *


 八月十四日、午後六時。


 マイクロバスは様々な思いを乗せて、やはり制限速度以内を維持しながらゆっくりと北アルプスの奥深くへと入り込んでゆく。

 鞠子達はそのバスの車内中央、四人掛けの席に前から四人、二人、三人で座っていた。

 前方左側から、瞳子、鞠子、斎藤、山根。

 真ん中で廊下を挟んで、深雪と四月朔日。

 後方左側は、三好、沢渡、廊下を挟んで野沢。

 それぞれが何やら小声で話をしていたが、後方席にいた上官らしき男はもう何も言わなかった。言っても無駄だと観念したらしい。


 *


 一方、助手席に座っていた友の会総務担当は、車内の雰囲気に違和感を受けて仕方がなかった。

 彼女達のアジトが判明した後、会長は矢継ぎ早に指示を出した。

 まず、松本警察署と陸上自衛隊松本駐屯地には、急遽伝令が飛んだ。アナクロだが、こうなると直筆メモの手渡しが最も有効な手段である。

 それぞれに顔が効きそうな地元有力者が、すべての予定をキャンセルして駆けつけ、各々の総務担当窓口ルートに無理矢理割り込んで、

「見なかった、聞かなかった、何もなかった」

 という約束をさせつつ、伝言を託した。それは組織内の複雑な経路を辿り、佐藤と篠山に直接手渡される。

 息子の同級生だという切れ長の目をした女の子から、厳しい質問を次から次へと投げかけられて四苦八苦していた佐藤は、メモを横目で読むなり、

「ああ、そう」

 と言って、質問地獄へと戻っていった。

 色白の脚本家から執拗な質問攻めにあって身動きの取れない篠山は、同じく横目でメモを読むと、

「馬鹿な」

 と短く吐き捨て、一瞬眉間の皺を深くした。彼は即座に部下九名を友の会事務局に派遣したが、具体的な指示を受けていない彼らはただのお目付役に過ぎない。

 初動は完全に会長の独断で行われていた。地元暴力団である山森組への指示も、会長が直接行った。ただ、途中で拉致した者の受け渡しをするため、

「実行した。これから現地に向かう」

 という連絡を、総務担当は直接受けており、その暴力団員の声に妙な強張りがあるのを彼は感じ取っていた。

 彼も友の会事務局を預かる者であったから、基本的な素養は高い。浅月グループ傘下の企業から引き抜かれた生え抜きであり、人の心の動きを細かく感じ取ることに長けていた。その彼が確信していた。

(暴力団員は怯えていた。これは賭けてもよい)

 既に事が動き出した後であったため、彼はその確信を会長に告げる暇がなかった。

 さらに、暴力団員に拉致されてきたはずの九名は、至ってのんびりとしていた。車内の会話が小声なのは、修学旅行で先生が同伴している時の中学生のようなもので、恐怖や怯えとは程遠い。

 これではまるで遠足だ。意味が分からない。一体何なのだ、これは?

 総務担当は混乱した。

 一方、会長の怒りは本物であったから、彼女達がこれから辿る運命のことを考えると総務担当の肝は冷えた。

 なにしろ、これから行く施設は友の会の中でも、

「あそこに行って無事に戻ってきたのは、会長、鉄人、夜叉、そして会長の運転手と前の総務担当ぐらいだろう」

 と言われたところである。

 ただ、前任の総務担当はその後、別な案件で会長の不興を買い、姿が見えなくなっていたから、現地の詳細を知るのはやはり幹部三名と運転手しかいない。

 会長専属の運転手は先代からの代替わりで、会長に無条件で忠誠を誓っているから、彼から何かが漏れ出すことはないだろう。それに彼も普通の人間ではない。

 専属運転手として過酷な訓練を積んできたらしい、と聞いている。

 会長は現地に先行していた。鉄人と夜叉は今日の用件が済み次第、ここに直行することになっており、時間的には既に市内を出ているはずである。

 同乗している自衛隊員には箝口令が敷かれるであろうし、最終局面になると彼らは施設から外に出されるはずだ。

 中で起こることは、会長、鉄人、夜叉、運転手、そして自分しか知らない。

 そして、その関係者の中で一番切り捨てやすいのは自分である、と総務担当は自覚していた。

 それが、今後の自分の身分を確実にしてくれるのか、それとも口封じを会長に決断させる発端になるのか、それが分からない。

 後席の穏やかな囁き声を聞きながら、総務担当者の背筋からは冷や汗が一向に引かなかった。 


 *


 車が山の奥へと進んでゆく途中で、鞠子はあることに気がついた。

(このルートには見覚えがある)

 マイクロバスがとある橋を渡る頃になると、彼女はもう確信していた。車は廃墟と化した旅館の前を通り過ぎてゆく。

 窓際に座っていた瞳子が、外を眺める鞠子の表情に気づき、

「ママ、なんで楽しそうな顔をしているの」

 と、小声で話しかけてきたので、鞠子は、

「後で教えてあげるね」

 と、話をそこで留めた。洋がこの周辺の地理に詳しいことを、相手に知られる訳にはいかない。

 ただ、鞠子は思わず苦笑いする。

(なるほど、旧日本軍絡みだったのね。橋が根こそぎなくなるはずだわ)


 *


 旅館跡を通り過ぎたすぐ先のところで、舗装道路は大きく右に曲がっていた。

 その直進方向には錆の浮き出たフェンスで仕切られた私有地があり、舗装されていない砂利道が奥に向かって伸びている。

 助手席から降りた男が、入場口を守る武骨な南京錠三個を鍵で開き、続いて太い鎖を解いた。車を中に入れ、再び施錠する。ただ、裏側から表の南京錠を閉めるのに苦労している様子が窺えた。

 男が助手席に戻ったところで、車は更に奥へと進む。道は小高い丘を回り込むように続き、表の道路からは見えないところまで入ったところで、土砂に埋もれたコンクリート製のトンネルに繋がっていた。

 トンネルの周囲には草が鬱蒼と生い茂っており、上空から見てもそこに人工物があることは分からないだろうと思われた。間口も、マイクロバス一台分がぎりぎり通り抜けられるほどの大きさである。

 バスがその入り口に頭を突っ込む寸前に、

「私、こういうところは苦手」

 と、斎藤が珍しく気味の悪そうな声を上げたので、隣から山根が笑いを含んだ声で言った。

「茜ちゃんは昔から、暗くて、狭くて、湿っぽいところが苦手だよね。それに幽霊」

「ああ、あれは駄目だわ。殴りたくても殴れないし」

「怖いじゃなくて、苦手なんだよね。物理的に」

「そう、物理的にね」

 そう言って二人は笑った。

 後席に座っていた深雪は、そんな二人の心が通じ合ったやりとりを見て、寂しそうな顔をした。

 彼女は、幼馴染という言葉と無縁だった。

 幼い頃は旧家の縛りが今よりも遥かに厳しく、友達付き合いも厳密に管理されていた。近所の子供と連れだって遊びに行くことは許されなかったし、空き地で歳の離れた子供と同じ遊びに興じた覚えもない。

 親が許した旧家同士の付き合いはあったが、それが日常的な友好関係まで成熟することはなく、偶に会って話をする程度だった。

 学校にいる間は直接の手出しはできなかったが、近隣の子供達は彼女に関与することを徹底的に避けていた。粗相があると、親に迷惑がかかるからである。

 彼女にいたずらをした子供が、数週間後には一家まるごと他の町に引っ越した、というまことしやかな噂まで流れる始末だった。

 近くの子供達からは敬遠され、遠くの子供達とは偶にしか会えず、一族の同年代とは本家と分家の関係が拭えない。実家から離れられなかった高校生までの人生を、彼女は孤独の中で過ごしていた。

 大学生になって、やっと親元を離れて自由に友達が作れると思ったら、その友達をこんな危険な目にあわせてしまっている。

 彼らが今日、無事に帰れるかどうかは、自分にかかっている。

 お爺様に会ったら平身低頭謝って、助命嘆願しなければならない。

 そんな気分で思わず拳を握っていると、その手をふわりと上から掌で包み込まれた。

 手の先を見ると、四月朔日が微笑んでいた。

「貴方と私は似たようなものね。自分のことで周りの大切な人々をここまで巻き込んでしまうなんて」

 彼女は深雪の思いを正確に汲み取っていた。

「でもね、自分が何とかしなければならない、という段階はもうとっくの昔に過ぎてしまった。こうなるともう、仲間の助けを有り難く受け取らないとどうしようもない」

「……」

 深雪は何も言えなかった。

 彼女は決して四月朔日の言葉に納得できなかった訳ではない。むしろ、その労りがとても嬉しかったし、自分を仲間として受け入れてくれた人々を、仲間として信じたいとも思う。

 ただ、彼女は祖父の権力の強大さを子供の頃から身近に感じてきたので、それを超える力があるとは思えなかったのである。今も、最期には自分がなんとかしなければいけないという思いが強い。

 四月朔日はそれもお見通しで、

「簡単には信じられないでしょうけれど、既に貴方は知っているはずよ。この世の中には自分が思いもよらない世界があるということを」

 四月朔日と深雪はここで、先日のプロレスイベントにおける馬垣と山根の姿を思い出していた。

 さらに思いもよらない世界があることを、この時点の二人は知らない。


 *

 

 狭いトンネルは二十メートルほどで終わり、車は想像以上に広い空間へ出た。そこは周囲が蒲鉾状の壁で覆われており、旅客機がまるごと一台格納できそうな余裕がある。

 バスの後方から、

「何だこれは……」

 という声が漏れたので、鞠子は自衛官らしき彼らがこの施設のことを承知していないと知った。つまり、ここは友の会が極秘裏に建造した施設、軍事物資の秘匿場所に他ならない。

 しかし、ここまでの道筋を地図を見ながら指示していた助手席の男まで、同じように驚いていたのは解せなかった。

「ママ、ここって――」

 と瞳子が言いそうになったので、鞠子は急ぎ口を塞ぐ。

「ごめん、今は黙って」

 瞳子は口を押えられながら頭を振った。

 パパからの指示、二つ目。

「旧日本軍の物資については、我々と友の会以外には知られないでほしい」

 実際に現地に着いて、やっとその意味が分かった。

 ここでその事実を自衛官達が知ってしまうと、彼らもただでは済まない。


 周囲を見回しながら、鞠子はふと、くだらないことを考えた。


 秘密結社の秘密基地に潜入した正義の味方は、最初に最新鋭の兵器がところ狭しと並んでいることに驚く。

 その直後にサーチライトが四方から正義の味方に浴びせかけられ、ひとしきり敵の高笑いが続いた後、

「よくここが分かったな、たいしたものだ、褒めてやる」

 と、高いところから秘密結社の首領ボスが、上から目線で言葉を投げかけてくる。これが定番だ。


 しかし、その施設の中はがらんどうだった。

 物資を置く棚もなく、ただの空間が無意味に広がっていた。

 ただ、よく見ると蒲鉾型の建物内の、舗装道路側に面した半円形の壁――仮にこちらを「表」と呼ぶことにするが――の近くに、何かが置いてある。鞠子は目をこらした。

 それは整然と置かれた机と椅子だった。

 机には皺を伸ばした白い布が掛けられており、椅子は遠目で見ても十脚はある。

 どう考えてもダイニングテーブルだったが、それが殺風景な倉庫内にぽつんと置かれているところは、シュールを通り越して悪趣味ですらある。

 それとは逆、裏側の壁近くには旧日本軍が物資の輸送に使ったと思われるトラックが二台、朽ち果てていた。施設内部で明確な形をもって見えているものは、それだけである。

 保管されているはずの軍事物資も見当たらないが、洋が想定した通りの貴金属であれば、こんな広い場所は無用である。恐らく、どこか奥の方に隠してあるのだろう。

 天井から下がっている照明――おそらくは水銀灯――も薄汚れた物ではあったが、少なくとも時代が平成に変わってから設置されたもののように思えた。

 根拠はない。そんな風に見えると思っただけである。

 マイクロバスがここに入ってきた時点で、内部の照明は灯されていたから、先に何者かが到着していたことになる。

 住み込みの管理人がいる可能性は低い。これはその必要性に乏しいからだ。

 徒歩で来られるところでもない。自動二輪の可能性はあるが、先行しているとすれば友の会会長であるから、それは無理があるだろう。

 そう思って鞠子は周囲を見回してみるが、その空間にはマイクロバスと朽ちたトラックの他に、乗物は見当たらなかった。

 裏側の半円形の壁には具合の良い通路と踊り場が設けられていたが、そこで会長が高笑いをする気配はなかった。

 続いて、外回りの情報は頭の中に入っていたから、トンネルとの位置関係から鞠子は施設の全体像を思い浮べてみる。

 すると、小高い丘に見えた部分の内側が刳りぬかれて、そのまま蒲鉾状の施設として使われていることが理解できた。ただ、そう考えると中途半端であることも分かる。

 丘を回り込んだトンネルは、確かに表の道路からは見えないが、入口から丘を挟んで真逆に位置している訳ではない。

 むしろ三分の二ぐらいの中途半端な位置に掘られており、トンネルから施設に繋がる通路は施設の裏に接して横から繋げられていた。

 従って、その壁の向こう側にはまだ丘が続いている。

 この丘がすべて人工物であると仮定すると、出入口の向こう側に隠された部屋があってもおかしくはない。むしろ、半分だけ人工物にする理由が思いつかない。

 となると、蒲鉾型の保管庫はあくまでもダミーで、壁の向こう側に本来の貴金属保管庫と車両の駐車場所があることになる。

 鞠子は腕時計を確認する。時刻は午後七時を過ぎているから、外はさすがに陽が傾いているだろう。

 しかし、施設には窓らしき開口部がなかったから外の様子は分からなかった。

 一応、逃げ道となりそうなものを探していると、表側の壁のかなり上の方に、空気を入れ替えるためのダクトらしき穴が設置されていた。

 もちろん、外の世界と直接連結されていないようで、陽光は指していない。黒々とした穴があるだけである。

 ただ、よく見ると何かがその穴の手前に置かれている。

 柔らかい繊維でつくられた細長い棒状のものが二本、上に伸びており、その下に丸い形状のものがある。

 暗闇に紛れて細部が分からないものの、形状だけ見れば「兎の縫いぐるみの頭部」である。

 旧日本軍の秘密基地の換気口に、何故そんなものが置いてあるのか鞠子には咄嗟に理解できなかった。


 それに、なんだかあの形状には見覚えがある。

 昔、何処かであれを見たことがあるはずだ。


 昔見たことがある兎の縫いぐるみ――そんな条件で自分の記憶を検索していた鞠子は、ふと、該当する部分に思い当たって愕然とした。

 同時に口元が緩み、最期には笑い声が漏れる。

「あははは――」

 周囲をよく見てほしいとは、こういうことだったのか。

「ママ、どうしたの、ちょっと、状況分ってるの?」

 瞳子が慌てていたが、鞠子の笑いは止まらない。

「あははは、まさかそこまで用意周到とは思わなかったわよ」

 鞠子は、これがどのような状況なのか十分にわかった。

 遠くから警察車両のサイレンが聞こえてくる。それは次第に近づいていた。


 *


「さて、どうしたものかねえ」

 斎藤は苦笑した。

「外がやけに騒がしくなってきたから、どうやら増援の部隊が到着したようだね。逃げるなら今のうちなんだろうけど」

 斎藤は洋から、出来る限り安全に事態を引き伸ばして欲しい、と指示されていた。

 マイクロバスで一緒にやってきた自衛官の一団は、入ってきたトンネル付近を固めている。その数、九名。出入口は一つしかないから、分散する意味がない。

 対して、味方の中で斎藤以外にまともに戦えそうなのは山根ぐらいである。しかも、彼女は防御に特化していたから、攻撃は斎藤一人が担当しなければならない。

 鞠子と四月朔日もそこそこ動けるだろうが、自衛官相手では中途半端な力の行使はかえって危険だ。プロレス同好会の四名と瞳子は論外である。むしろ不測の事態から彼らを守らなければならない。

 さすがの斎藤でも、玄人を三人も相手にしたら勝てない。

 更に自衛官達は武装しているはずだ。一般人と同じ車に迷彩服を着て乗るわけにはいかないから、作業服を着たのだろう。服の下に何を隠し持っているか分からない。

 見ると、左肩が少し下がっていたので、少なくとも拳銃を携帯しているのは確実だ。

「まあ、ここに立っているのも何だから、向こうに座りましょうか」

 そういうと、斎藤はさっさと奥に準備されていた椅子のほうへと歩いて行った。全員がそれに合わせて、倉庫の一番奥に移動し、着席した。

 広い空間の中、表側の片隅に斎藤達がまとまって座り、裏側の片隅には自衛官が整列していた。間には何もない。

「これからどうするつもりなんだろうか」

 と、沢渡が不安そうに三好に尋ねたが、三好も困ったような顔をしただけだった。

 斎藤も疑問に思う。

 自分達を拉致したのは、人質として利用するためだろう。しかし、わざわざこの倉庫に連れ込む必要はないはずではないか。どこか別に適当な場所があったはずだ。

 斎藤は別な可能性を考える。

 我々が本丸に籠城して守備を固めなければならないほどの手強い相手だと、友の会が考えている可能性だ。それならば連れ込んだ意味は分かる。

 しかし、洋達はここの存在を知らないはずではないのか。間に連絡係を設けて、要求だけをやり取りすればよいのであって、ここを固める意味が分からない。

 そこで斎藤は、先程、洋の妻の鞠子が突然笑い出したことを思い出した。

 彼女は、今、落ち着いた顔をして座っている。子供のいない斎藤には理解できないのだが、普通、娘と一緒に拉致された母親は、取り乱すか、娘の安全を最優先して無茶な行動に出るような気がする。

 そのいずれでもない。しかし、絶望している訳でもない。あれは必ず助けがやってくることを承知している姿だ。従って――洋はここの存在を知っていることになる。

 いつ、どうやって知った?

 知っているのであれば、誰も知らないうちにさっさと占領してしまえばよかったのではないか?

 どうしてここまでの大騒ぎになっているのだ?

 疑問は深まるが、現状ではその問いには意味がない。ともかく、洋がこの場所を知っていて、ここにやってくると前提を置く。

 すると、必然的に馬垣もついてくるはずだ。彼は極めて重要な戦力となるからだ。馬垣によると、洋とその父親である清、そしてその弟の隆は、彼を上回る化け物だという。

 しかし、その四人で一体、どこまで出来るというのか。

 外の喧騒が遠ざかってゆくのを感じながら、斎藤はさらに考えを進めた。

 一緒に来た男達が自衛官だとすると、外の一団も自衛官だろう。相当な数の車両が周辺に停車したようだったから、その数は小隊レベルではなく中隊レベル。

 具体的に何人なのかは分からないが、それが全員武装している。

 馬垣は自分と違い、三人ぐらいならば自衛官相手でもいけそうな気がする。それでも十分に化け物だったが、さらに格上だとしても五人はきついだろう。

 囲まれて全方位から攻撃されたらひとたまりもあるまい。となれば、最大でも戦力差の許容範囲は二十人。

 どう考えても先程の喧騒はそれを遥かに上回る数だ。それが戦場に分散配置されている。

 さすがに無理だ。

 しかし、斎藤と同じところまで理解が進んでいるはずの鞠子と山根の落ち着きはどうだろう。全くぶれがない。

  全ての可能性を検討して、最後に残ったものがどれほど信じがたいとしても、それが真実である――そのようなことを言った探偵がいるが、あれはフィクションだ。

 神ならぬ身の斎藤に、全ての可能性が検証できるはずもない。それに神ですら完璧ではない。完璧ならば、失敗を糊塗するために跡形も残らぬほど水で押し流したりしないからだ。

 よく分からない。ということは心配しても無駄ということだ。それに、鞠子と山根が落ち着いているということは、全て洋の掌の中に納まっているということだ。それを信じるしかあるまい。

 斎藤はそう結論付けて、椅子の背凭れに寄り掛かった。激しく軋む音がしたが、知ったことではない。

 その時、斎藤の視線の向こう側、裏側の蒲鉾の中央部が開く。


 そこから、タクシー運転手のような整った身形の男が、カートを押しながら現れた。 彼は乾いた音を倉庫内に響かせながら、歩いてくる。


 斎藤は自衛官の動きを見逃さなかった。

 彼らは扉が開いた途端に身構え、今も男の動きを警戒していた。

 つまり、彼らも男のことを知らない。

 従って男は友の会直属ということになる。

 しかも、動きを見て斎藤にはすぐ分かったことがある。

「淳子。あの男、かなりやってる」

「そうだね。多分、空手だと思う」

 流石に山根も気がついていた。

 隙のない身のこなしと頭の安定した歩き方が、武道家特有である。

 近付くにつれて、さらに彼の細かい特徴が見えてくる。

 年齢は三十五歳ぐらい。

 自衛官のような筋肉質ではない細身が、むしろ武道家であることを強調している。

 帽子を被っており、その下に見える生え際は綺麗に短く刈り揃えられていた。

 細い目と細い鼻筋。

 唇の薄い口が一文字に結ばれている。

 整った顔立ちが、冷酷さを感じさせた。

「柏倉さん――」

 深雪が擦れた声を上げた。

 名前を呼ばれたにもかかわらず、柏倉の表情はまったく変わらなかった。

 彼は黙ったままテーブルの傍までやってくると、カートの隣に屈んだ。

 中から、水差し、コーヒーポット、人数分のグラスとカップと皿、カラトリー一式、サンドイッチの載った大皿三つ、オードブルの大皿三つ、そしてナプキンを人数分取り出すと、流れるような手際でテーブルの上にセットしてゆく。

 全てが整え終わった後、柏倉は背筋を伸ばして、

「粗食ではございますが、ご用意させて頂きました。皆様におかれましては毒などのご懸念もあろうかと存じますが、孫娘の深雪様ご同席でありますから、その点はご安心頂きたいとのあるじからの伝言にございます。また、皆様との話し合いの結果によりまして今後の処遇を検討することになりますため、現時点では客人としてぐうせよとのおおせに御座います」

 と滑らかな口調で言い、そこで一旦言葉を切った。

 斎藤は内容を理解した。つまり、話し合いの結果、合意に至らなければ敵として排除されるということである。そして、自分達は合意するつもりなぞ全然ない。

 柏倉は少しだけ目を開いて、さらに続けた。

「なお、話し合いにさほど時間を取ることができません。長時間話し合ったところで結論は変わりませんし、皆様が合意されなければ遅れていらっしゃる皆様も合意はされないでしょう。お迎えする準備を維持するのも限りがございますので、午後九時で区切らせて頂きます」

 つまり、自衛官とその装備を借り受けられる時間には限度があるから、さっさと決めろということだ。

「また、皆様の中には、既に合意の可能性を放棄されている方もおられるでしょうし、遅れていらっしゃる方々を期待されている向きもあるでしょう。さらには、自力での脱出を試みる場合があるかもしれません。しかしながら、そのようなお考え自体、大変危険であるから改めて頂きたい、との主からの伝言がございました。ただ、残念ながらそれでもご理解頂けない場合があろうかと思いますので、その場合はお相手して差し上げろとのことです。もちろん、私一人だけでは荷が重いので、何名か揃えさせて頂きました」

 斎藤は、柏倉が最後の言葉を口にするや否や、入口の警備をしていた自衛官達が緊張するのを見た。

 彼らは二つに分かれて整列し、その間から新たに三人が姿を現す。

 先頭を歩いていたのは、全身をオリーブ色の装備で固めた男だった。

 頭にヘッドギアを付けている。全身が膨れ上がっているように見えるのは、恐らくボディ・ア―マーだろう。なにもそこまで、という重装備である。

 それでも動きに乱れたところはなかったから、中の人物が相当の力量を持っていることが推察された。

 もちろん、事前の打ち合わせで斎藤もその素性は聞かされている。

 陸上自衛隊第十二旅団第十三普通科連隊第四普通科中隊長、篠山雄三だ。

 その後から中年男性と小学生ぐらいの男の子が入ってきた。

 それとは入れ替わりで自衛官たちが外に出てゆく。

 中年男性は松本警察署長の佐藤俊夫であろう。

 しかし、この場に子供というのは――と、訝しむ斎藤の傍で、

「どうして俊一君まで?」

 という瞳子の声がした。それで斎藤も、彼が俊夫の息子の佐藤俊一であることを知る。

「おや、柏倉さんまでお出ましですか。それじゃあ、僕は最後まで出番なしでいいですかね。どっちかといえば、遅れてくる方に興味があるのでね。それに、拝見した限りでは俊一で十分事足りると思いますし」

 俊夫が、場違いなほど明るい声で言った。

「何をいまさら、状況開始の暁には自衛隊の中隊一つを動かせ。そうでなければ自分は動かない――そう無理を言ったのは貴様ではないか。さらに最新装備も準備しておけという話だったから、こんな無様な格好をするはめになった。私はいい迷惑だ」

 篠山が険悪な声で答える。

 ふむ、あの二人は犬猿の仲なのだな――と、斎藤は直感した。

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