第十一話 質問

「大変申し訳ございませんでした」

 第一声、笠井はそう言ったと、後で布団の中で聞いた。

 私が雪の中で倒れた後、彼によって室内に運ばれ、呼び声に気がついた御主人が私を布団まで運んだという。

 私が倒れた原因については、

「雪景色に惹かれて早起きした笠井が、大人げなく枯れ木を振り回しており、客を心配した私がその前に顔を出したために驚いて気絶した」

 ということになっていた。

 そんな安易な話で誰も言い包められるはずはない、と思ったのだが、驚いたことに御主人と女将さんはまったく疑問も持たずにその話を頭から信じていた。

 笠井がとても申し訳なさそうに説明してくれたので、

「あまり大人げないことはしないように」

 と注意するに留めたという。もちろん、話の中心はそこではない。

 目の前に枝が出てきたぐらいで人が気を失うことはない。

 

 *


 結局、その日は休暇ということになった。

 私としても非常に助かった。なぜなら、瞬間視という私の特殊能力のおかげで、早朝の枝の動きが再生され続けており、なかなか眩暈が去らなかったからだ。

 午後になって、やっと記憶が薄れたのか、それとも脳が動きに適応したのか、眩暈が収まってきた。

 それでやっと遅い昼食を取っていると、女将さんがやってきた。

「笠井さんが謝罪したいと言っているけど」

 私は即座に了解した。実は、旅館の浴衣を着せられた状態で、しかも安静にさせるために女将さんがブラを外しており、非常に不適切な状態であったことには後になって気がついた。


 *


「大変申し訳ございませんでした」

 やはり、第一声はこれだった。私はむくれる。

「悪くもないのに謝らないで下さい」

「いやあ――」

「謝るぐらいなら本当のことを教えて下さい。あれはいったいなんですか」

「あれ、とはなんでしょうか」

「しらばっくれても無駄です。私には興味を持って一度見たものをそのまま記憶する能力があります」

「瞬間視ですか」

「そうです」

 笠井は興味深そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 非常に珍しい。普通はここで瞬間視について説明しないと話が先に進まない。相手が怒り出して話が終わることすらある。そのまま既定事実のようにすんなり受け入れられたのは初めてだった。

 むしろ説明方法を思案している様子の笠井に、私は戸惑った。

「あの――聞かないんですか」

「あ、すいません。何をでしょうか」

「瞬間視についてです」

「ああ、そういえばあまり一般的ではない能力ですね」

「それだけ、ですか」

「はい」

「その実在を疑ったりとか、からかわれたと怒ったりとか」

「そんなことはしませんよ。事実でしょう」

 笠井はまったく疑問の余地はない既成事実として語ると、にこやかにほほ笑んだ。なぜか私の心の中の警告ランプが灯る。相手が信用ならないとか、犯罪者であるとか、そういった危険信号ではない。

 似ているが違う。この人に深入りすると人生が変わる――そういう警告ランプだ。

 もし、ここで私のほうが

「もう謝罪の言葉は聞きましたから結構です」

 と話を打ち切っていれば、以降の人生はまったく違っていたかもしれない。

 他の人ならそうしただろう。幸運なことに、その時私は珍しくすねてしまった。

「――まあ、大した能力ではありませんけど」

「すいません。そういう意味ではないんです」

「では、どういう意味ですか」

「困ったなあ」

「どうして困るんですか」

 普段の私であればこんなに初対面の男性に食いついたりしない。どちらかといえば礼儀正しい人間だし、「物事を冷静に判断できる」ことを自分の理想像としている。

 にもかかわらず、その時はどうしても目の前の笠井という男に自分というものを評価して欲しいと感じていた。

 理由は分からない。笠井はとても困惑しているような表情で、右斜め上を見つめながら言った。

「あの、わかりました。順を追って説明しますから、落ち着いて体を起こして頂けますか」

 私はかなり頭に血が上っていたらしい。

 笠井に顔と体を近づけて上目使いになっていた。

 笠井の身長は百七十五センチぐらいで正座している。

 私の身長は百五十センチぐらいで、布団の上に女座りしている。

 私の体が斜めになっているところを上から眺めるわけであるから――

 浴衣の前が乱れているとほぼ上乳が丸見えである。事実そうだった。

 私は真っ赤になって浴衣の袂をしっかりと合わせると、下を向いて硬直する。

「――見えましたか」

「まあ」

「責任は取って頂けますか」

「可能な限り」


 *


 その後、笠井が語ったことを要約する。

 彼が木立の下でやっていたのは古武道の練習だった。

 彼の実家は田舎拳法の流れを汲んでおり、代々、既に実用性を失っている古武道を伝えており、練習を欠かすことができない。

 今朝、誰も見ていない時間に練習するために、早朝からあの場所にいた。

 私が倒れたのは、起き掛けに繰り返しの運動を見たため、三半規管が認識障害を起こしたのだろう。流派の中でもたまに見られる。

 そう、非常に申し訳そうな顔をして話す男を私は信用することにした。

 後から思い返してみると、彼は決して嘘をつかなかった。事実の大半を話さなかっただけだ。


 *


 そこまでは納得したが、乙女の純情を踏みにじった落とし前はもっと高くつく。

「わかりました。もう謝罪は結構ですが、もう二つ質問に答えて下さい」

「はい、お答えできることでしたら」

「玄関でお会いした時のことです。あの時、笠井さんは私がアルバイトで休憩中であることに気がついたようですが、それはどうしてでしょうか」

「ああ、そうでしたね。実は――」

「あ、こちらはヒントでいいんです。今日は時間があるので、なんとなく自分で考えたくなりました」

「そうですか、じゃあ二つだけ。――スリッパと図書館の本です」

 私は少しだけ考えてみた。図書館の本ときたか――なるほど、それならば理由が分かる。

「有り難うございます。それで結構です。ではもう一つのほうですが」

「はい」

「あの時、私の手元の本を見て驚かれていたようですが、私はてっきりこちらの本を見ての反応と思っていました。古武道の本でしたら、今のお話で理由が理解できます。しかし、こちらの本に驚かれた理由が分かりません」

 手元にあったヘロドトスの『歴史』を示す。

「私は子供のころから正義の味方にあこがれていました」

 笠井は笑う。それは、私がいつもこの話をした時に感じる「青臭さを馬鹿にした態度」ではなかった。むしろ、それを許容して応援しかねないふんわりとした笑いだった。

「そして、ある時、長野県の山岳遭難救助隊員の救助活動を、現場のすぐ近くで見ることができました」

 ちょっと口が重くなる。はたして次のことを初対面の人間に言ってもよいのか迷ったためだった。

 とても不思議な感じがする。

 自分の思考が外部に延長されていくような感じと言えばよいのだろうか。

 私とは別な世界から答えが届くのではなく、私の中にあるものから私がなかなか気づけなかった、しかし時間があれば分かったはずの答えが返ってくるような感じといえばよいのだろうか。

 そのために必要な情報を隠してはいけない。

「小学生の時の初恋でした。その人の後を追って山岳遭難救助隊員になりたいと思いました。そのことを本人に伝えたところ、こう言われたのです」

 笠井は何も語らないが、視線がすべてをありのままに受け入れてくれたことを示していた。 

『カンビュセスの籤について、考えて頂けますか』

 笠井は、一瞬、考える時の癖で鼻の頭を人差し指で軽くなぞると、初めて真面目な顔をして姿勢を正した。

「そうですか。分かりました。ではまず、貴方がどこまで知っているのか教えて頂けますか」


 *


 私がその時点で知っていた事実を簡単に列挙するとこうなる。 

 紀元前五百年頃、アケメネス朝ペルシアのカンビュセス王が、五万人の兵を従えてクシュ(現エチオピア)に派遣した際のことである。

 進撃の途中で糧食が尽き、物資輸送のための家畜まで食べつくした後、砂漠でどうしようもなくなった。

 そこで、兵士は十人一組となって籤を引き、その籤に当たった者を殺して食料とした。

 この故事はヘロドトスの『歴史』に記載されている。


 *


 そのことを笠井に伝えると、彼は難しい顔をした。

「それだけですか」

 私は考える。他にこの話について何か書かれたものを読んだことはないはずだ。

「これだけです」

 笠井は沈黙する。顔を見れば非常に集中した状態で高速度・高密度の思考をしていることが分かった。その回答が出るまで、しばらく待つ。

 さほど時間はかからなかった。

「まず、最初に言わなければいけません。私ができることは一つ、もう一つだけヒントを付け加えることです」

 指を一本立てながら、彼は言った。

「それ以上のアドバイスはすべきではありません。なぜなら貴方が自分から生み出さなければ、出題者の意図に反するからです」

「ヒントは意図には反しないのですか」

「近道を示すだけで、答えにはなりません。出題者はかなり時間をかけて考えてほしいようですが」

「私もカンニングするつもりはないのですが、ヒントでしたらお願いします。時間が惜しいわけではなく、情報が出そろった後でじっくり考えたいのです」

「分かりました」

 笠井は背筋を伸ばす。

「さらに『トリアージ』について調べる必要があります」

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