第四話 榊の休日

 しばらく修練出来なかったせいか、素引きしてみると体の開きと割り込みが十分ではなかった。

 榊は嘆息する。これは元に戻るまでに相当時間がかかる。いや、もしかすると戻らないかもしれない。

 時間が有り余っていた学生の頃は、朝から晩まで同じことを飽きずに繰り返すことができた。だからこそ体もすぐに応じてくれたのだが、社会人になって不定期にしか修練ができなくなると、急速に衰える。

 押せない、引けない、乗らない。この世界に馴染みのないものには分からない悩みである。外からでは変わりがないように見えるだろう。まあ、落ち込んでいても仕方がないので、榊は立ち上がった。


 目の前には藁を幾重にも巻いて、その端を切り落とした太鼓上のものがある。

 その円形の断面に体の左側を向け、顔も左に向ける。

 両腕は体の正面、下方向に大木を抱えるがごとく丸く構え、両掌には卵を握るように柔らかく力を加える。

 息を吸いながら、大木に沿って両腕を肩があがらない高さまで挙げる。頂点で息を吐く。

 続いて息を吸いながら、左手を先行させて藁のほうにまっすぐ伸ばす。右手はあくまでも左手の従者であり、右肘から先だけをまげる。力の配分は左手が三に対して右手が一。

 もちろん厳密ではないが、そのような心持で行なうのが重要だ。

 右手の肘から先が地面とおおむね平行に伸びきったところで、息を吐きながら左手を押し、右手を引いて、分ける。この時も基本的には左手が先行である。

 右手が右肩の先に収まり、左拳と右拳が唇の高さに揃ったところからが本番である。

 後は左掌がきりきりと絞り込まれるように、右掌がゆるゆると伸ばされるように力を加え続ければ、その瞬間がやってくる。

 力の頂点。木の葉に溜まった朝露が凝縮して、自重に耐えられなくなって葉の先から零れ落ちるように――

 右手と左手が軽やかに分かれて、その間に上半身が割り込む。

 目の前の藁には、一見すると竹の棒でしかないものが突き刺さる。


 拍手の音がした。

 藁が五つ並んだ室内の向こう、廊下のところに女性が立っており、感心した表情で手を打ち合わせている。

「間近で初めて見ました。緩やかな動きと最後の激しさが対照的ですね」

 なかなか良い見方をしている。

「いえ、本当は最後の離れは激しいという印象よりも鋭いという印象が望ましいんです」

 両腕を均等に降ろして、拳を腰に当てる。足の裏を使って体を藁の方向に向けると、左足を固定したまま右足を摺って合わせる。

 そして三歩歩み寄ると、向かって右側に立ち、藁に刺さった竹の棒を、三回に分けて引き抜く。

「あの、引き抜く時にも作法があるのですか」

「はい。道場内であれば、すべての動作に作法があるといってもいいでしょう。もっとも、そこまで細かく指導する道場も今では少ないのですが」

 榊は、左手に持っていたものを壁際の木枠に立て掛ける。

 それは世界最長の弓――和弓だった。


 *


 午前十時頃。

 松本市営弓道場に向かう途中、自転車に乗り、駅前の交差点で止まっていた榊は、

「榊さん、こんにちわ」

 という声に振り返った。ためらいなく榊の名前を呼ぶものはそれほど多くない。署内の同僚もたいていは「榊君――だよね?」となる。

 ところが寸毫の迷いもなく名前を呼ばれたので、榊は訝しんだ。それが表情にでたのかもしれない。

「あ、急に声をかけてしまって迷惑でしたでしょうか」

 慌てているにも関わらず、やはりおっとりとした声だった。今度は榊が慌てる。

「あ、いえ、すいません。ためらいなく名前を呼ばれることが少ないので、つい」

「ああ、そうなんですか。そういえばそうですねえ」

「そうなんですよ、まったく」

 と言いながら笑いあう二人。

「ところで、その長いものはなんでしょうか。薙刀ですか」

「ああ、よく言われます。釣竿とか」

「ずいぶん長いものですから、他にはあまり思いつかなくて」

「先生でもそうですか。まあ、これだけ長いという印象はないでしょうからね。これは、日本の弓――和弓です」

「まあ」

 目の前の女性――山根淳子は、両手を胸の前で組み合わせて、目を見開いていた。


 *


 練習風景を見てみたいという山根先生を連れて、榊は駅前から少し離れたところにある弓道場までやってきた。休日は大会などの行事が入っていなければ、個人使用可能である。

 その日は市外で大会でもあるのだろう。他には誰も来ていなかった。

 弓と矢を出し、弓道着に着替え、矢をつけない状態で肩慣らしに弓を弾く「素引き」をした後、『巻き藁』で十本程度引き、体を慣らした。

 いきなり的の前に立つのは礼儀に反していることもあるが、それよりも十分な技が出せない恐れがあるためである。

 体もこなれてきたので、榊は的前に出ることにした。

 和弓には基本的な長さが二種類ある。並寸と呼ばれる七尺三寸(約二百二十一センチメートル)のものと、伸び寸と呼ばれる七尺五寸(約二百二十七センチメートル)のものである。

 どちらを使用するかは、弓を射る者の身長や用いる矢の長さによって決まるのだが、通常の伸び寸でも窮屈な場合がある。

 そのため、あまり一般的ではない四寸伸という七尺七寸(約二百三十三センチメートル)のものもある。榊はこの四寸伸を使っていた。

 長いということは、取り回しにそれなりの気を使わなければならないということである。古い道場になると、両腕を頭の上に伸ばしたところで、天井の梁にあたることもある。

  和弓は想像以上にバランスに気をつかわなければならない道具であり、どこかに引っかかって力がかかり、弓の形が変わってしまうと致命的なのだ。

 榊はすっかり間合いに慣れているので、今ではどこかに引っ掛けるようなこともなくなったが、最初のうちはよく天井や出入口で引っかかり、その都度ひやりとしていた。

 実際に道場内で使う時には、この微妙な長さの違いが見た目の違いに現れる。さすがに四寸伸は長いので迫力がある。

(山根先生は他の長さの弓を知らないはずなので、あまりピンとこないだろうな)

 と思いつつ、榊は的前で弓を引きはじめた。

 巻き藁と的前は、やることは同じだが、感覚が全然違う。目の前の藁を狙うのと二十八メートル先にある一尺二寸(三十六センチメートル)の的を狙うのとは、まったく別物なのだ。

 前者はよほどのヘマをしなければ普通は藁に当たる。後者は通常の技を発揮しなければ普通は外れる。

 榊は、最近の彼にしては珍しく、的中を意識してしまった。

 左掌がわずかに緊張する。これはまずい徴候だ。動揺が右掌に伝わり、十分な伸びが感じられない。焦ると余計に体がこわばるので、最後の体の開き――離れに濁りが出る。

(えい、ままよ!)

 多少強引に弾いた弦から、微妙な動揺を拾った矢は、尻を振りながら的のほうに向かい、的の中心から右上方、端のすれすれに突き刺さった。左掌がうまく効かなかった時の定位置である。

 山根先生の拍手が響き渡る。彼女は素直に感動しているようだ。

 背筋に汗をかきながら、榊は思った。

(これは変なものは見せられないぞ)

 久しぶりに弓を引く緊張感がよみがえってくる。

 こういう休日も悪くない。 

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