第二話 鞠子の休日

 朝、私が目覚めてキッチンにいくと、瞳子が眠そうな顔で本を読んでいた。

 今日は月曜日、時刻は午前十時。学校に行かなくてもよいのかと言いそうになって、寸前で土曜日の授業参観の振替休日であることに気がついた。

(危ない、危ない。欠席した挙げ句忘れていたのでは、瞳子になにを言われるか分かったもんじゃない)

 パパが淹れておいたコーヒーポットを保温サーバから外すと、カップにいつもの三分の二だけ注いだ。そこに冷蔵庫から取り出した牛乳を加える。

「珍しいね。ブラックじゃないの?」

「今日は特別」

 そう言って、キッチンの椅子に腰かけた。

 最近、あまり朝食を食べていない。悪い習慣であることは重々承知していたが、食べる気が起こらないのだ。

 子供の頃は、教師だった母が必ず朝食を準備しており、遅刻寸前であっても食べ終わるまでは外に出られなかった。

 結婚直後はさすがに作っていたが、次第に作ってもらう立場に移行した。そして、二ヶ月前ぐらいから食べる気が起こらなくなってしまった。

 理由はよく分からない。今は六月だから、夏バテは早すぎる。

 コーヒーを一口飲むと、喉だけでなく胃からもカフェインが吸収されていくような気がした。(まあ、実際にその通りなのだが)

 頭の中で、バチリと放電が起こり、それが全身へと伝播していくイメージ。大きく息を吐き出すと、瞳子に話しかけた。

「昨日は徹夜?」

「そう。やっちゃった」

 そう言って、瞳子は笑う。

 よく出来た娘だと改めて感心する。授業参観の件も、無理かもしれないとは言ってあったが、僅かな期待はしていたに違いない。

 さすがに忘れていたら論外だが、仕事の都合で致し方のないことには、決して文句を言わない。

 私が子供の頃は、もっと自己中心的で、我が儘で、野放図だったと思う。私が特にそうだった訳ではなく、普通はそうだったと思う。

 だから、余計に我が子の物分かりの良さが、無理をしているように思えて仕方がない。

「髪、溶こうか」

「えーっ、ママのは痛いからなあ」

 と言いながら嫌とは言わない。

 ハリとツヤとコシのある黒髪に櫛を通す。ときおり、

「痛い」

「ごめん」

 というやりとりをしながら。


 *


「何読んでるの」

「児玉水力の最新刊」

「あれ、この間まで『こだますいりょく』って呼んでなかった?」

「え、あ、そうでしたっけ。そんなこともありましたかのう」

 瞳子は明らかに動揺している。

「――実は私もずっと『こだますいりょく』だと思っていたんだけど」

 そう言いながら、本の表紙を指差す。そこにはローマ字で、

『KODAMA SUIRIKI』と印字されていた。

「なるほど、変な名前ね」

 コーヒーを一口飲み、また視線を瞳子に戻すと、彼女は上目遣いにじっと見つめていた。

「それだけ?」

「えーっと――」

 なんだか恐い。瞳子は大事なことになると、日頃の物分かりの良さから一転して、とても頑固になる。

「――特に何もございません」

「ぶしゅ――」

 瞳子は豪勢に溜息をついた。腕組みをして横を向く。

 すねた。

「なんでパパが、ママのような人と結婚したのか分かんない」

「――あ、話してなかったっけ」

「何を」

「パパとママの出会いのこと」

「なにそれ、聞いてないよ!」

「あ、そうなんだ」

 コーヒーを飲む。

「まーりーこーさーんー」

 瞳子がにらむ。私は両手をあげると、

「分かった、分かった。じゃあ、話すけど、長くなるわよ」

「えっ、ちょっとだけ待って」

 瞳子は大急ぎでキッチンから飛び出していった。

 まずはトイレ。次にリビングにあるお菓子の入れ物――通称『会話の友』――を持ってくる。最後に牛乳をコップに注いで準備完了。合計、十五分か。

 話す順番を整理していると、リビングの方から、

「きゃ」

 という短い叫び声とものが散らばる音がした。修正、二十分。

 慌てた瞳子の声を聞きながら、私は口をほころばせた。

 こういう休日も悪くない。

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