第二話 十月十九日午後五時 山田家の日常

 東回りバスの自動ドアが開く。

 途端に車内のだらりと弛緩した温かい空気を押しのけるようにして、外の鋭く張り詰めた冷気が礼儀も知らずに割り込んできた。

 十月中旬ともなればさすがに長野県は相当寒い。

 よく晴れた朝には呼吸をすると喉にわずかな緊張を感じることもある。しかも、その日は雨から少し前まで降っていた。

 城山公園入口のバス停で降りた瞳子と同級生の山田聡子やまださとこは、塩竃神社の前の交差点を渡って西に向かって歩いた。

 しばらくすると道が五つ交差しているところに出るので、右斜め前方の坂道を昇る。

 黒々とした林が前方に見え、途中にある表示板には「城山公園」と書かれていた。

 その手前にある、足音がことのほか大きく響く静かな住宅地に出たところで左折する。

 最近になってから建築された、真新しいタイル張りの低層マンションを横目に歩いていると、

「建物も年をとるけど、このマンションはまだまだ赤ちゃんね」

 と、聡子が呟いた。

「周りの景色から浮き上がっている。おそらく高級という頭文字もついているのでしょう。鼻高々で周囲に溶け込むつもりがあるのかどうかも疑わしいけど」

 彼女は感情の乏しい声でそう続ける。

 こういう声の時、聡子は大抵怒っている。その矛先は建物だけではなく住んでいる人にも向いていた。

 ゴミの収集日を守らない。

 町内の集会には出てこない。

 出てきたと思うと自分達の権利を声高に主張する。

 その癖、役員などの義務は「新参者なので」と逃げる。

 聡子の父親である山田幸一やまだこういちは仕事柄、町内会の調整役を勤めることが多い。だから彼は新旧さまざまなものが同居する街の軋みを、日々体感していた。

 その話を聡子も聞いているのだろう。特にこのマンションとその住人に対する評価は、いつ聞いても辛辣だった。


 さて、二人が目的とする家は自称高級マンションのすぐ先にある。

 建てられてから随分時間が経ったその家は、風景にすっかり溶け込んでいた。といっても荒れ果てたところは微塵もみせず、静かな安定感とともに佇んでいる。

 道路から五メートルほど細い私道を通って入り込むと、奥に見えるリビングの大きな窓から漏れる明かりが、いつもながら安心感を与えてくれる。

 古くて温かくて落ち着いた趣は、住んでいる人の性格そのままだった。

 二人は『山田幸一 澄江 聡子 ペトロニウス』と書かれた表札を横目に見ながら、玄関の扉を開けた。

「ただいま」

 傘を閉じながら聡子が大きな声で言うと、家の奥からパタパタと小気味よく駆けてくる音がした。

 今日は澄江が休みの日らしい。扉が開くと同時に、

「おかえりなさい。まあ、瞳子ちゃん。お久しぶり。こんにちは、いらっしゃい、寒かったでしょう、お疲れじゃない?」

 という機関銃のような挨拶とともに、顔を真っ赤に上気させた山田澄江やまだすみえが現れた。

 瞳子の身長は百三十センチだが、澄江も百五十センチと小柄で『ぽっちり』している。今日はカールした黒髪を後ろでまとめていた。

 品のよい顔をしているので、よく知らない人からは『上品で物静かな性格』だと思われるらしい。

 当たっていないこともないのだが、家にいる時の澄江は小さな体をいつも元気よく動かして走り回っていた。

 今日も何かを作っていた最中らしく、動き回る姿にバターの香りがまとわりついている。

「こんにちは、お邪魔します」

「お邪魔なんて。そんなことありませんよ。気にしないで下さいな。ともかくお入りなさい。さあさあ」

 澄江に急き立てられるように靴を脱ぎ、瞳子はリビングに入った。

「やあ、瞳子ちゃん、こんにちは」

 幸一が炬燵の中からのんびりとした声で挨拶をした。

 幸一と澄江は弁護士で、自宅が事務所になっている。幸一は仕事の日だったが、予定の打ち合わせが早めに終わったので、ゆっくりしていたという。

「すみません、こんなときにお邪魔してしまって」

 家族勢揃いとは気がつかなかったので、瞳子は慌てた。

「ああ、あまり気を使わないでいいから」

 そう言って幸一はにっこりと笑った。

 確かに聡子の家と瞳子の家は、なにかと家族付き合いをしている。今年も夏のキャンプは一緒に行った。

 学校が早く終わり、洋が遅くなりそうな日は、聡子の家で迎えを待つことも多い。

 幸一と澄江が遅くなりそうな日は、学童クラブで聡子と一緒に迎えを待っているから、放課後に聡子と一緒ではない日のほうが少なかった。

 幸一は整った顔立ちと、趣味のテニスで鍛えた細いわりに華奢に見えない体格、日に焼けた外見から、西洋風の生活様式を好んでいるとよく思われるらしい。

 けれど、本人は一向に様式には頓着していないらしく、今日は炬燵に綿入れ半纏で、目の前には湯呑まで準備されていた。

「相変わらず、イケメン弁護士とは思えない姿ね」

 と聡子が率直に言った。幸一は少し目を細めて切り返す。

「風土の中で長い間育まれたものには、それなりのよさがあるからね。今日のような寒い日には、当然炬燵と半纏のセットだろう」

「にしても、その格好はテニスサークルのお友達が見たら泣くよ」

「いいよ、別に見せたいとも思わないしね」

 そう言いながら日本茶を旨そうに啜った。

 話は全然違うが、最近、児玉水力ファンのサイトが立ち上がっており、そこでは「児玉水力の素顔を推理する」というのがメインコンテンツとなっていた。

 深窓の令嬢説や逃亡中の犯罪者説などいろいろな素顔が紹介されていて、その内容を見た洋と瞳子は大笑いした。

 その一つで結構人気が高い素顔に「イケメン探偵説」というのがある。

 いつの間にか、誰かが似顔絵まで書いており、その絵が幸一にそっくりだった。


 幸一がすっかりリラックスしていると、この家のもう一人、いや、もう一匹の家族であるペトロニウスが、のっそりと部屋に入ってきた。

 白地に大きな黒斑のある雑種の雄猫で、瞳子が遊びに行くといつもどこからともなく現れる。

 いつから家にいるのか分からないぐらい年をとっているペトロニウスは、今日も大儀そうに炬燵の中にいったん入り込むと、首だけをまた外に出して横になってしまった。

 そして、これまたいつも通り目を大きく開いて瞳子のほうを眺めている。

「おやおや、今日も瞳子ちゃんを熱い視線で見つめているね。さすがは享楽主義者だ」

 穏やかな視線に笑いを含ませて、幸一は猫を眺めた。

 ペトロニウスという名前は、ローマ帝国の皇帝ネロ時代に実在していたペトロニウス・アルビテルという人物から、幸一がとったらしい。

 以前、瞳子が名前の由来を聞いた時に教えてもらった。

 小説『サテュリコン』の作者であり、ポーランドの作家シェンキェヴィッチの小説『クォ・ヴァディス』にも、重要な登場人物の一人として名前が出てくる。

 瞳子は最初、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』に出てくる猫、ペトロニウスからとられたと思っていた。

 実はおおもとは一緒である。

「彼も年をとりましたね」

「飼い主に似るというからね」

 幸一は大きな手で包み込むように湯呑みを持つと、お茶をごくりと飲んだ。

 あまり「ごくり」という音は最近の日常生活では聞かないものなので、瞳子は何だか貴重な体験をしたような気分になった。


 その時、澄江の、

「きゃ」

 という声とともに、なにかが派手に落ちたらしい金属音が鳴り響いた。

 瞳子はびくりとして、思わずキッチンの方角を眺めたが、聡子も幸一もペトロニウスでさえも、さほど気にしていないようで顔を向けることもなかった。

 実は、瞳子が聡子の家に来てから今までの間に結構な回数、澄江の悲鳴となにかが落ちたらしい音を聞いていた。

「あの、幸一さんは澄江さんの声がまったく気にならないのですか?」

 すると幸一はにやりと笑って、こう答えた。

「ああ、あれは澄江がなにかしている時の癖のようなものだから。それに本当に危ない時には声でそれが分かるよ。何も物音が聞こえないほうがむしろ不安だ」

 そして、今度ははにかんだような笑顔で言った。

「彼女が友達と旅行に行っている時は、あれが聞こえてこないので少々寂しい」

 幸一が澄江のことを深く愛していることは、視線の温かさや言葉遣いからも分かる。おそらく、本当に危ない時にはすぐに立ち上がって駆け寄っているのだろう。

 瞳子は羨ましさとちょっとした気恥ずかしさを覚えた。


 しばらくすると、澄江が紅茶とクッキーを運んできた。

 ペトロニウスは澄江が近づいてくるのを察知すると、そそくさと炬燵から這い出してカバーのかかったアップライトピアノの上に避難する。

 そうしないと、澄江にいつ踏まれるかわからないからだ。ただ、目はクッキーをじっと見つめていた。

 澄江は、あらかじめ取り分けておいたクッキーの皿をペトロニウスの前に置く。

 すると何とも言えないいい感じのカリカリという音が、部屋に響きわたった。

 ――さきほどまでの大騒ぎは、クッキーを作っている音だったのか。

 瞳子は納得した。

 澄江が作るクッキーはアーモンドや胡桃がごろごろと入ったもので、見た目は豪快だがとてもサクサクしている。

 しかも、ほどよい甘さから食べ飽きることがなかった。

「はい。今日はマリアージュ・フルールのマルコ・ポーロですよ」

 澄江はそう言いながら、チョコレートのような甘い香りとすっきりした後味が特徴的な紅茶を、大きめの陶器ポットから大胆に注いだ。

 カップはロイヤル・コペンハーゲンである。聡子の家では子供に対しても手加減なしで高いティーカップを出すので、要注意だ。


 澄江が加わって、話は今日の天気から山の天気が変わりやすい理由、風につけられた精霊の名前まで、次々に移っていった。

 いつもながら、聡子の家の興味の幅は広い。子供に分かるか分からないかは全くお構いなしに疾走する。

 幸一が、ある映画関係者に聞いたという話を始めた。

「映画のオーディションをすると、よく演技の勉強をしていてそれなりに容姿にも気を使っている人が多いので、いずれ劣らぬ魅力になかなか決めるのが大変なんだそうだ」

「そうでしょうね」

 と、澄江。

「それで、その人は変わった方法で選ぶようにしていた」

「それはどういうやり方ですか」

 と、瞳子。

「控え室の姿をビデオで撮影しているそうだよ。演技をしていない時の姿を見て、それを参考にしているらしい」

「普段の姿にその人の性格が一番表れるしね」

 と、聡子。

「そうだね。ホテルのドアマンに言わせると、彼らに対する対応で有名人のその後の浮き沈みが分かるそうだよ」

「ふうん」

 聡子がうっすらと笑う。多分、クラスの誰かの姿を思い浮かべたのだろう。

「外見的なところや周辺的な情報よりも、その人の本質のほうが大事ということだね」

「そうそう、それで思い出したんだけど」

 澄江が急に楽しそうに言った。

「私の友達の話で、とっても素敵な恋の物語があるのよ。しかも謎解き要素バッチリの」

 なにが「そうそう」なのかよく分からないが、最後の「謎解き要素バッチリ」というところにみんなのアンテナがたった。

 ペトロニウスもクッキーを食べることを中断して、澄江を見つめている。

 聡子の一家はみな読書家で、ミテリーも守備範囲である。

「それは私も聞いたことがない話かな」

「そうね。話したことはないわね」

「母さん、それは小学生でも分かるお話なの?」

「ちゃんと難しいかも。でもね、話をよく聞いて、ちょっとした知識があれば、答えは分かると思う。どう、挑戦してみる?」

「しますします」

 瞳子にペトロニウスのような尻尾があれば、盛大に振っていただろう。

 澄江はにっこりと笑うと、紅茶を一口だけ飲んでから話を始めた。

「パリスの審判というお話を知っているかしら」

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