第一話 お佐紀

 江戸時代の風景と言われて、大川にかかる橋の姿を思い浮べる方は多いのではないだろうか。

 浮世絵でもよく見られる構図だが、実は江戸初期の大川には橋がかかっておらず、川を横切るためには渡し船が使われていた。


 その状況が一変したのは、一六五七年のことである。この年、「明暦の大火」と呼ばれる大火災が発生して、江戸の町の約六割が焼失した。

 復興の過程で防火を意識した町づくりが行われ、大川の西岸に密集していたために火災に弱かった市街地は、同じ時期に開発が進められていた大川東岸の本所や深川のほうに拡大していった。

 町が拡大すれば、当然のことながら行き来が頻繁になる。

 そのため、一六六〇年に両国橋、一六九三年に新大橋、一六九八年に永代橋が架けられ、それに一七七四年に架けられた大川橋(吾妻橋)を含めたものが「四大橋」と呼ばれた。

 そのうち両国橋だけが本普請、他の三つは仮設扱いの仮橋である。仮橋の袂には小屋があり、武士以外の通行人から二文の橋銭を取っていた。

 一例を上げると、町方の要望を幕府が認める形で架けられた大川橋は、維持管理費用を町方が負担することになっており、その費用を捻出するために橋番所が設けられていた。

 通行人が大川橋を渡ろうとすると、橋番所の小屋から長い竿の先に笊を付けたものが伸びてきて、通行人はそこに二文入れることになっていたという。

 橋番所は橋銭の徴収以外にも、日常的な橋の清掃や不具合の確認、橋からの身投げ防止や橋の上での喧嘩の仲裁などを行なっていた。

 なお、本普請の両国橋でも修繕中の仮橋では橋銭が徴収されている。


 さて、四大橋の中でも扱いの浮き沈みがもっとも激しかった永代橋に着目してみる。

 永代橋は、長さが百十四間(約二百メートル)、幅が三間四尺五寸(約七メートル)、橋桁は大潮時でも一丈(三メートル)以上になるという、巨大な木造の橋である。

 最初は幕府の費用負担で架けられたが、最も海側にある木造の永代橋は海水による杭の経年劣化や暴風雨の影響などで頻繁に破損するため、維持管理の費用が莫大になる。

 そのため幕府は、一七一九年に「新大橋を改修して、老朽化が激しい永代橋を廃止する」ことを決定した。

 しかし、それを聞いた深川の地主達から「橋を存続して欲しい。それが駄目なら払い下げしてほしい」という願いが出たため、幕府は町方が橋の維持管理をする条件で払い下げを行なった。

 一方で、修繕費用全額を町方が負担するのは困難だろうと危惧した幕府は、橋の袂にある広場で床見世を開業してもよいという許可を与える。

 更に、一七二六年から七年間に限り、武士を除いた通行人から一人当たり二文を徴収する許可を与えた。

 以降も、一七三六年から十年間は一文の徴収を認めるなど、焼失や流失によって大規模修復が必要になった際には、橋銭の徴収が認められるようになった。

 しかし、それでも十分な費用を捻出することはできず、維持管理が後手に回る中で最大の悲劇が発生した。

 一八〇七年九月、深川にある富岡八幡の祭礼の日に人の重さで永代橋が落ちて、四百四十人の死者を出す大事故となる。

 流石に事の重大さを認識した幕府は、その翌年には幕府の負担で永代橋の全面架け換えを行なった。この時、永代橋は本普請となり、文化六年に橋銭の徴収が禁じられた。


 *


 夏の厳しい暑さが過ぎ去り、大川縁を歩く人の表情に落ち着きが見られるようになった、初秋のある日。

 お佐紀は大川の日本橋側の堤を新大橋に向かって歩いていた。

 手には風呂敷包みを携えており、中には頼まれて仕立てた衣が入っている。これは、いつもであれば本所にある周旋屋の親父が長屋に立ち寄って、回収してゆくものだ。

 しかし、夏の暑さが緩み、冬の寒さの気配がまだみられないこの時期、ふと外を歩いてみたくなったお佐紀は、その口実として自分から店に届けることにしたのである。

 新大橋の袂にある橋番所では、入口に笊を置いている。お佐紀が巾着から二文を取り出して放り込むと、番所の奥にいた男が愛想笑いを浮かべたが、彼女はそれを無視した。

 番所の隣には高札があり、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず」と書かれている。

 橋の途中で止まってはいけない、荷車は橋が痛むので禁止する、という意味だ。

 長さ百間(百八十メートル)、幅が三間七寸(約六メートル)の緩やかに湾曲した新大橋を、お佐紀はそろりそろりと昇ってゆく。

 川面を渡る風は心地よく、頭の上を飛び過ぎてゆく鴎も呑気そうに見えた。心なしか行き違う人の顔も穏やかだ。

 新大橋の西岸は武家地であり、東岸は幕府の艦船を格納するための御船蔵や、幕府が飢饉などに備えて米を備蓄している御籾蔵がある。

 そのため、どちらも一見すると端正な街並みなのだが、東側は深川で、通りを一本入れば長屋が立ち並ぶ土地柄である。御籾蔵前の広小路には周辺の町人達が集まっては、散っていた。

 その中に、数人の子供を連れた男の姿がある。遠目でも、人生の晩年に差し掛かった白髪の多い男の顔に、穏やかな笑みが浮んでいることが分かる。子供達も皆、楽しそうに笑っていた。


 お佐紀の足が止まった。

「おい、こんなところで止まるんじゃねえ。邪魔だよ」

 気の荒い人足が怒鳴って追い越してゆくが、お佐紀の耳にその声は届かない。

 お佐紀の顔は蒼ざめている。

「もし、お加減でも悪いのですか?」

 武家の妻女と思われる物腰の落ち着いた女が声をかけるが、お佐紀の耳にその声は届かない。

「もし、どうかなさいましたか?」

 武家の妻女が何度か声をかけると、やっとお佐紀はそれに気が付いた。

「あ、申し訳ございません。大丈夫です。お気遣い、有り難うございます」

 お佐紀は丁寧に礼を言って、そそくさと深川側へ橋を降りる。そして、最前目撃した初老の男の後を追いかけた。

 ――間違いない、あの男だ。

 自分が覚えている最後の姿からはかけ離れた相貌だったが、あの穏やかな微笑みに見覚えがあった。

 男と子供たちはゆっくりとした足取りで、御籾蔵の横を六間掘に向かって歩いてゆく。堀にかかる橋を渡ると左に折れて、南六間掘町のほうに進んだ。

 子供達の弾んだ声が尾を引いて、お佐紀の耳まで届く。横町から姿を現したどこかの長屋のお上さん三人組が、男に向かって丁寧に頭を下げ、彼は照れくさそうに右手を振った。

 道に面した店の中から声がかかったらしく、初老の男は足を止めて中に声をかける。中から店主と思われる男が現れて包みを渡そうとし、何度か行ったり来たりした後、初老の男は受け取った。

 すっかり町に溶け込み、周囲から好意を持って遇されている人物――そのことにお佐紀は苛立ちを覚えた。

 北六間掘町の手前で、子供達はばらばらと横道へ姿を消してゆく。最後の子供の姿が消えると、初老の男は北森下町方面に向かって足を進めた。

 お佐紀はその後を少し離れて追いかけていた。男が横道に逸れてしまったら見失いそうな街並みだったが、気取られるよりはましである。

 それに、先程の様子から男がこの近辺に長年住んでいることは明らかだった。その辺の店で訊ねれば、住まいがどこにあるのかは直ぐに分かるだろう。

 ただ、後ろ姿から目が離せなくなってお佐紀は後を追っていただけである。

 初老の男は北森下町手前で、右手にある木戸に入った。お佐紀は少し間を空けて、彼の姿が見えなくなった木戸のところまで歩みを進め、木戸口から長屋を覗く。


 目の前に初老の男が立っていた。


 お佐紀は慌てて走り去ろうとしたが、

「先程から気が付いておりましたよ。随分と大きくなられましたな、お佐紀様」

 という、男の穏やかな声に足を止める。

「そのような懐かしそうな口ぶりで話しかけられる仲ではございません」

 お佐紀が尖った声でそう言いながら振り返ると、男は穏やかな表情でお佐紀を見つめていた。

「それは勿論承知しておりますよ」


 気づかれてしまった以上はどうしようもない。木戸口で睨みあいを続けている訳にもいかず、お佐紀は男に案内されて彼の長屋に行った。

 男は玄関の戸を開け放したままで、お佐紀に座布団を進める。お佐紀は懐剣の感触を確かめながら、それに座った。

 男は真っ直ぐに背を伸ばして、お佐紀のほうに顔を向ける。江戸時代の頃、真正面に座って相手の目を見つめるという行為は大変無礼なことであったから、僅かに位置がずらされていた。

「改めまして――大変ご無沙汰をしておりました、お佐紀様」

「上手く姿を隠していたようですが、やっと突き止めましたよ。榎本宗三郎(えのもとそうざぶろう)」

「その名は国許を出る時に捨てました。今は比企総一郎(ひきそういちろう)と名乗っております。だからといって隠れるつもりはありませんでしたが――それで、どうなさるのですか」

「……」

「懐に剣をお持ちなのでしょう? 今ここで決着をつけるおつもりですか。後日、という訳にもいきますまい。お佐紀様に居所を知られた以上、私は姿を消すかもしれません」

「……いえ、そんな卑怯なことを貴方がするとは思いません」

「何故そう思われるのですか?」

 比企の声はあくまでも穏やかである。

 ――そう、昔からそうだった。

 榎本だった頃から、彼はどんな時も穏やかだった。思ったことをそのまま口に出して失敗することが多かったお佐紀に対して、感情的になることなく、

「何故そう思われるのですか?」

 という問いかけを根気よく続けて、お佐紀が自分の間違いに気が付くまで待つのが彼の常套手段だった。そしてお佐紀が最も苦手とする相手である。

「問答をするつもりはございません。藩を通じて幕府に正式な許しを得てから、正々堂々と勝負する所存です」

「いかにも貴方らしい、筋目の通ったやり方です。しかしながら、藩の許しを貰うのは、もう少し先にされては如何でしょうか」

「未練な! この期に及んで命乞いなど――」

 激昂したお佐紀の言葉を、比企は右手を挙げて止めた。他の者には決してできない、比企だけの絶妙な間合いの取り方である。

「この期に及んで命乞いなぞ致しません。仰る通り、逃げるつもりもございません。ここにおりますから、いつ勝負を申し出て頂いても構いません。しかしながら私にも多少の事情はございます」

 そう言って、比企は手元にあった風呂敷包みを掴む。咄嗟にお佐紀は胸元に忍ばせた懐剣に手を伸ばしたが、その様子を見た比企は苦笑しながら、

「騙し討ちも致しませんよ。これをご覧頂きたいのです」

 と言いながら、風呂敷包みから古びた紙綴りを取り出した。お佐紀はそれに目を落とす。紙綴りには、名前が連綿と書き連ねてあった。

「私は今、糊口をしのぐために手習指南所の師匠を務めております。この筆子達の行き先を確保してからでないと、死んでも死にきれません」

「そのような身勝手なことを。私の父と夫がどのような目にあったのか、知らぬわけではありますまい」

「勿論、知っております。ですから、貴方には私と違ってしっかりと筋目を通して頂きたいのです」

 振り上げた拳を更に持ち上げられた状態になり、お佐紀は何も言えなくなってしまった。これも比企特有のあしらい方である。正面から正論で攻められると、お佐紀は弱かった。

「ずるい人です。貴方は昔からいつもそうやって私をあしらってばかりで」

 お佐紀は唇を噛んで、比企を睨む。

「そんなつもりはございません。お佐紀様こそ、好き放題にご質問をされるものですから、私はほとほと困り果てました」

 懐かしそうな顔をして、比企が言う。


 そこで、ぽつりと間が空いた。


「申し訳ございません。私とお佐紀様とは、こうやって昔話をする間柄ではございませんでしたね」

 急に真顔に戻った比企が言う。

 お佐紀は思わず拳を握った。それが恨みによるものか、それとも悲しみによるものか、お佐紀にも判然としなかった。 

「分かりました。筆子達の行き先が決まるまではお待ちます。それが片付いたら速やかに藩の許しを得ますから、尋常に勝負して下さい」

「承知仕りました」

 そう言って、背筋を伸ばして頭を下げる比企を、お佐紀は複雑な思いで眺めていた。


 *


 比企の長屋を出てから自分の長屋に戻るまで、お佐紀はどこをどうやって歩いたのか殆ど覚えていない。

 周旋屋に届けるつもりだった依頼の品のこともすっかり忘れており、長屋に戻って水を一口飲み干してからやっと気がついた。期日や約束事に五月蝿い、常のお佐紀には有り得ないことである。

 そろそろ夕餉の支度について考えなければいけない頃合いだったが、何も手につかなかった。

 ――お酒が飲みたい。

 急にそんなことを考える。これも常のお佐紀には考えられないことである。

 しかも、長年探していた男をやっと見つけることができた祝い酒、という気分ではない。苦々しい思いを吐き出してしまうためのヤケ酒、が似合っている。

 お佐紀は納得がいかなかった。

 榎本宗三郎(えのもとそうざぶろう)が追っ手の影に怯え、身を持ち崩して、市井の隙間の吹き溜まりに身を隠していたとしたならば、こんな気分にはならなかっただろう。

 ところが、比企総一郎(ひきそういちろう)は市井の人々に温かく迎えられて、暖かい陽だまりの中を、子供達に囲まれながら堂々と歩いていた。

 それでも、比企が昔のことをすっかり忘れて別人として楽しく暮らしていたのであれば、恨みの掻き立てようもあった。

 しかし、比企の長屋は物が殆ど置かれておらず、彼があくまでも慎ましく暮らしていることを髣髴させた。

 周囲の人々から向けられる好意も、彼は固辞してなかなか受け取ろうとはしなかった。

 そして何よりもお佐紀が納得いかなかったのは、比企が過去のことを語る時に浮かべた表情である。

 それは懐かしさであり、失ったものへの哀しみと悔恨であった。

 ――今そんな顔をするぐらいなら、どうしてあの時、私の父と夫を斬り捨てたのですか?

 そのことがお佐紀には全く分からなかった。

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