第十話 勝負

 その日は静かにやって来た。


 仕事を終えた清二は、猪牙舟を柳橋から深川方面に向ける。途中、新大橋までやってくると、その袂に巳之助の姿が見えた。

 右手を軽く上げて笑った巳之助は、黙って舟に乗り込む。清二の前に、舳のほうを向いて腰を下ろすと、そこで二本の櫂の調整を始めた。持参した小刀で微妙なささくれを削り、滑らかに整えてゆく。

 清二は舟を出して新大橋から離れ、途中で小名木川に入る。いつもの『丸木戸』の桟橋には、お園が既に立っていた。

 三人は互いに頷きあう。お園は何も言わずに、巳之助の前に腰を下ろした。 そして、胸に抱いていた風呂敷包みを降ろすと、中にある黒覆面と黒装束を丁寧に改め始める。丁寧に火熨斗をかけたのか、皺ひとつなかった。

 最後に、永代橋の先にある相良家の船着場に到着する。そこで待ち受けていた宗太は、全員を落ち着いた目で眺めた。

 それから静かな笑みを浮かべながら舟に乗り込み、舳に腰を落ち着ける。四人の乗った猪牙舟は、傾いた陽の光を浴びながら、再び大川に戻って新大橋まで遡上した。


 佃島漁師の押送舟は、既に新大橋の下に陣取っていた。

 清二は、お園を岸に上げるために新大橋の袂に接岸する。彼女は、いつもであれば「どこかの路地」に身を隠すことになっている。しかし、今日だけは何を言っても無駄だろう。彼女は勝負の全体が見渡せるところ、おそらく新大橋のど真ん中に、堂々と立つに違いない。

「佃島漁師と話がめそうになったら、直ぐに逃げろ」

 先日、宗太はお園にそう言ったのだが、「最後まで彼女は決して逃げないだろう」ことも、全員が分かっていた。

 お園は、三人が黒覆面と黒装束を身にまとう手伝いをする。それを終えて岸に上がるだけになると、にっこりと笑って懐から鉢巻を四本取り出した。それを一本ずつ手渡すと、最後の一本を自分の頭に巻く。

 鉢巻を巻くお園の手は、傷だらけだった。

 三人は黙って、おのおのの頭に鉢巻を巻く。全員の鉢巻が揃うと、誰ともなく笑顔がこぼれた。ここまで、誰も何も言わなかったが、全員が同じことを考えていた。

(今日は勝とうぜ!)


 *


「よくきたぁぁ、褒めてやるぜぇぇ」

 佃島漁師の押送舟の舳に大男が立ち、こちらを向いて大声を出していた。

 仁吉である。

 その後ろには、同じように体格の良い四人の漕ぎ手が控えていた。佃島漁師の中から厳選した手練れだろう。いずれ劣らぬ赤銅しゃくどう色の体躯が、気持ばかりの衣を窮屈そうに押し上げている。

「先に勝負の内容を説明するぅぅ。よく聞いとけぇぇ」

 川風で微妙に語尾が流れているものの、流石に海で鍛えた声だ。よく響く。新大橋の上を歩いていた者が、

「なんだなんだ」

 と、橋の下を覗きだした。その数は次第に増えてゆく。仁吉の狙い通りだった。

 こうして衆目を集めた中で、徹底的に叩き潰すのが目的の勝負である。

「この新大橋から永代橋までがぁぁ、勝負の場だぁぁ、一緒に出て先に永代橋を潜ったほうの勝ちとなるぅぅ」

 仁吉の話す内容が、新大橋周辺に誤りなく伝わる。橋の上や両岸に、

「おい、勝負だってよ」

「舟の勝負かよ。でも、漕ぐ人数が違うじゃねえか」

「馬鹿野郎、どこに目ぇつけてんだよ。舟の大きさも違うだろ」

「ああ、猪牙舟と押送舟かよ。じゃあ、まあ、とんとんだな」

「おい、あの押送舟は佃島漁師じゃねえのか」

「何だって、じゃあ猪牙舟の連中は佃島に喧嘩を吹っかけてんのか」

「誰だよ、そんな命知らずな真似をしたのは」

「黒覆面だから分からねえよ」

 という、ざわざわとした声が広がってゆく。

 いち早く新大橋南側の欄干の、ちょうど真ん中にその位置を確保したお園は、胸の前に両の掌をあわせて立っていた。周囲に立ち止った男たちが「なんだ、この大女は」と怪訝な顔をするが、今日の彼女には伝わらない。

 二艘は、大川を遡上して新大橋の北側に出たらしい。

 お園の背中のほうからざわざわとした声が聞こえていたが、それが一瞬静まる。

(来た)

 お園は思い浮かべる。


 大川に浮かんだ猪牙舟の艫に、『暴漕上等』の旗がひるがえる姿を。


「なんだ、あれは。なんて書いてあるんだよ」

「ぼう、そう――暴漕上等だとよ」

「どういう意味だよ」

「知らねえよ」

 見物客は口々に勝手なことを言い始める。


 大川の上では、仁吉の説明が続いている。

「いいかあぁぁ、始めの合図は新大橋の上から落とされた半紙だぁぁ、それが川に落ちた途端に漕ぎ始めるぜぇぇ」

 清二と巳之助は既に準備を終えている。彼らの手元の櫂は、水を吸ってしっくりと掌に収まった。

 宗太は艫で舵を小刻みに振っている。こちらも準備万端。

「いいかぁぁ、それじゃあ邪魔が入らないうちにさっさと始めるぞぉぉ」

 流石に、大川の上で派手な勝負をしていると役人に目を付けられる。舟番所が駆けつけてこないとも限らない。

「三太ぁぁ、落とせぇぇ!」

 仁吉の声に応じて、新大橋の上から半紙がふわりと落とされた。穏やかな川風に吹かれて、半紙はふらふらと舞う。

 宗太は息を吸う。

「いくぜ!」

 宗太は第一声をあげる。

「おう!」

 清二と巳之助の二人は、櫂を水面に平行に構えた。

 三人の腹に力がこもる。

 橋の上のお園の拳がきゅっと鳴る。

 四人の想いが一つに重なる。


(宗太は大きく息を吸い込み)


 半紙はくるくる回りながら、


(清二と巳之助の腕が絞られ)


 全員の目の前を落ちてゆき、


(宗太の口が、大きく開いて)

 

 最後にふんわりと浮かぶと、


(「やああっ」と、声が響き)


 半紙は静かに川面に落ちた。

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