第五話 暴漕開始

 巳之助は、思いつくと行動が速い。

 その場の勢いで三人が大いに盛り上がった夜が明けると、その日の夕方には相楽家の舟着き場に「赤い木札を下げるための釘」と「紐を引くと部屋の鈴が鳴る仕組み」を整えてしまった。

 清二と巳之助がおち合う方法も簡単だった。巳之助が働いている善吉親方の作業場は、柳橋から相楽家の舟着き場までの間の新大橋付近にあったから、途中で拾うのは容易だったし、永代橋を過ぎて江戸湾に入った先にある相楽家の屋敷と、巳之助が住む長屋とは、さほど離れてはいなかった。

 従って、清二が大川を下る途中、新大橋の袂で巳之助を拾い、相楽家の舟着き場を確認して、宗太がいなければ清二が巳之助を自宅近くの掘割まで送る、という手順とした。清二が住む仙台藩芝口上屋敷、通称『浜屋敷』の長屋は、現在の港区東新橋付近(汐留シオサイトがある一帯)にあったので、巳之助の長屋によると若干は横道に逸れることにはなるが、清二にとってはさほど問題ではない。

「なんだか済まないな」

 と、屋敷で待つだけの宗太は頭を掻いたが、屋敷から抜け出す手段が確保できたことは嬉しかった。


 さて、巳之助の身投げ騒動があってから三日後――実際に三人が揃って舟に乗り込んだ初日のことである。江戸湾に浮かぶ猪牙舟の上で、宗太が苦笑しながら言った。

「それで、今日は何をしようか?」

 よく考えてみれば、三人が揃って舟に乗ることまでは話をしたのだが、そこで「何をするか」までは考えていなかった。

「まあ、こうやって海に浮かんでいるだけでも、いつもとは景色が違って気持ちがいいんだけどよ。まあ、そのうち飽きるわなあ。かといって岡場所へ繰り出すというのは、いろいろと無理があるしな。好きなところにいける手段はできても、行先がないというのはねえ」

 発案者であることから、宗太は責任を感じているのだろう。舟に乗ってからというもの、頭を働かせていたが、これといって妙案は浮かばないようだ。

 清二は静かに櫓を動かして、舟を安定させている。その、別な生き物のように自然に動く櫓を、宗太と巳之助が見つめる。

 しばし、空白の時間が過ぎて、宗太がぽつりと言った。


「なあ、清二。この猪牙舟というのは一日でどのくらい行けるものなんだ?」


「どのくらいと言われても――」

 清二は眉をしかめて考える。

「川なのか海なのかで違うし、他の舟がいるかいないかで違う」

「ふうん、じゃあどれぐらい速く進むものなんだい」

「そりゃあ、人より速いが馬より遅いぐらい、かな」

「それじゃあ何だか分からん」

 宗太は清二の手元にある櫓を見つめて、次に巳之助を見つめる。

「なあ、巳之助。この櫓を舟に二つくくりつけることはできるかな」

「これだけ大きいものだから、同じところ、例えば艫に二つ括りつけると言うのは無理だろうね。けど、左右に分ければ大丈夫じゃないかと思う」

 巳之助は職人らしく、場合に分けて丁寧に説明をした。

「宗太、お前何を考えている?」

 清二はなんとはなしに不安を感じて尋ねる。宗太は海の水を掌に一掬ひとすくいすると、にやりと笑って言った。


「いやね、この舟を二人や三人で漕いだら、相当速くて気持ちがいいかもしれないな、と思ってさ」


 清二は黙り込んだ。

 怒ったのではない。宗太の思いつきにちょっと驚いたからである。 

 子供の時分から舟に乗っていたというのに、彼はそんなことを考えたこともなかった。猪牙舟は艫に櫓が一つあるのが当然で、そこに更に櫓をいくつか加えようとは考えたこともなかった。

(清二は知らなかったが、猪牙舟が作られた最初の頃には、二丁櫓や三丁櫓の舟もあった。ただ、あまりにも速すぎて危険だという理由で、禁止されたのである)

 巳之助も黙り込む。こちらは、実際に櫓を二つか三つ舟につけるとしたら、どこにどれだけのものを付けたほうがいいのか、検討していた。

 あまり大きなものでは回す時に邪魔になる。かといって小さいと一回に掻ける水の量が少ない。巳之助はしばらく舟の中を見回すと、

「三丁櫓だと、右に櫓を二つ並べると左には一つになってつり合いが取れないな」

 と、職人の目をして言う。

「どうだい、だったら櫓を二つ準備して、この舟がどれだけ速く進ませられるのか試してみねえか」

「おもしろそうだな」

 新しいものに目がない巳之助は、すぐに賛同する。しかし、清二は思案したままだった。

「どうした清二、あまり面白くなかったか?」

「いや、そうじゃない」

 清二は櫓を右足の膝下に挟んで、腕組みしながら言った。

「面白いとは思うが、この櫓というのが簡単に見えて、結構動かすのが難しい」

「そうなのか、清二を見ているとそんなに大変そうに見えないけど」

「やってみるか?」

「え、いいのか? 是非やらしてくれ」

 清二が櫓を寝かせて舟を安定させると、舳のほうにいた宗太は舟の上を艫へと移動した。清二から櫓を受け取る。櫓は、掌の当たる部分が黒ずんで光を放っており、ずしりと重かった。

 宗太は試しに座った姿勢のままで、軽く櫓を動かそうとした。しかし、簡単には動かない。

 徐々に櫓に力を加えてみる。やはり、簡単には動かない。

 宗太は立ち上がって、今度は全身を使って櫓を押してみた。そうするとやっと、櫓がわずかずつ移動しはじめる。水が押されて舟はゆるやかに向きを変えたので、それに応じて宗太の上体が傾く。あやうく海に投げ出されそうになったのを、清二が帯を掴んで舟に戻した。

「あぶねえな」

「すまねえ、助かった。また風呂に逆戻りするとこだったよ。それにしても、こいつは見た目よりはるかに大変だ。清二はどうしてあんなに何気なさそうな顔で操ることができるんだよ」

「長年の技だ」

「そいつはそうだろうがよ。これじゃあ、同じもんを二つ付けただけじゃあ、清二はもちろん、巳之助ともおいらじゃ力が釣り合わねえぜ」

「お前が非力なだけだろう」

 清二はそう言い放つ。

 確かに、宗太は同じ年であるはずの清二や巳之助に比べて、貧弱な体躯をしていた。六尺(百八十センチ)近くある清二はともかく、五尺六寸(百七十センチ)ほどの巳之助に比べても、頭一つ分は背丈が低い。もしかしたら、五尺(百五十センチ)にすら足りないのではないかという上背である。

「そいつは悪かったな。しかし――」

 宗太は櫓を大事なものを扱うように撫でた。

 清二はその仕草に感心する。恐らく宗太は意識せずにやっているのだろうが、誰かの大切なものは大切に扱わなければいけいない、という感受性が凄い。

「――そうすると、もう少し簡単な櫓か何かが必要だな」

 そう言って、宗太は巳之助のほうを見た。巳之助は既にいくつか案を考えていたらしい。

「そうだね。櫓は一人で漕ぐために作られているから、大きくて長い必要があるのだろうけど、二人で漕ぐのならばもっと軽くて掻きやすいほうがいいね。それにどうしても縦並びで舷側から漕がなきゃいけないだろうしね。するとかいになるかな」

 舟の艫にある櫓は、推進力であると同時に方向を定める舵でもある。これは猪牙舟を一人で操るためのものだ。そして、猪牙舟は客を乗せるものであるから、横に二人並ぶことができない訳ではない。しかし、両手で漕ぐ動作をするとどうしてもお互いの動きがぶつかってお互いに邪魔になる。だから前後に並んで右と左に櫂、いわゆるオールを出して漕いだほうがやりやすい。従って、舵は別に必要になる。

 巳之助は頭の中でそう順番に考えて物事を整理すると、続いて図面を描き始めた。

「よく分からねえな。その、櫂というやつを一人で左右両方に持って漕ぐというのはどうして駄目なんだい。前後になっていても邪魔にならないところまで場所を離せばいいじゃないか」

 宗太が新しい案を出すと、巳之助が想定していた図面を一旦頭の片隅に置いて、新しい案を頭の中で検討する。

「ううん、それでもやはり難しいかな。猪牙舟の巾が邪魔になってしまうような気がする」

 巳之助は桟橋から舟を出す時に使う竿を手に取ると、舟の真ん中に座って竿の先を右側に出して握った。

「左右に同じ長さで櫂を出すためには、舟の真ん中に座る必要がある。真ん中に座ると、舷側の高さが邪魔になって櫂の差し込みが浅くなるね」

 そして、こんどは右舷のほうによって竿を握る。

「ほら、こっちのほうが水に深く差し込める。このほうが水を余計に掻けると思うよ」

「なるほどね」

 宗太と巳之助のやりとりに、清二は瞠目する。

(二人とも、昨日までは舟の漕ぎ方にすら興味がなかったはずなのに――)

 舟を速く走らせるためにはどうしたらよいのか、という目的が与えられると、途端に船頭である清二が驚くようなことを次から次へと考え出す。また、それが出来るか出来ないかを考える、巳之助の説明が実に分かりやすい。

(――こいつらは何者だ?)

 本当にただの武家と町人なのだろうかと、清二は訝しく思う。そんな清二の想いとは別に、二人の話は続いていた。

「そうすると、櫂が二つに舵が一つあればいいのか」

「そうなるね。漕ぎ手が二人に、行先を定める舵取り役が一人。ちょうど三人ということになるね」

「それがあれば、この舟を速く進めることができると……」

 と言ったところで、宗太と巳之助が清二のほうを見た。

「……思うんだけど、船頭から見てどうだろうね」

 急に『頭の中だけの思いつき』が不安になったらしい。清二は小さく苦笑する。

「まあ、やってみないと分からないが、おかしくはないと思う」

「おう、そうかい。それじゃあ試してみるか」

「じゃあ、おいらは櫂と舵を細工してみるよ。漕ぎ手はおいらと清二で、舵取りが宗太ということでいいのかな」

「仕方ねえな。おいらじゃ釣り合いがとれねえしな」

 宗太が頭を掻いて笑う。全く影のない笑い方だった。

(そう、それだよ――)

 清二は羨ましく思った。

(その、自分の弱みを素直に認められる強さだよ)


 *


 三日後、巳之助は試しに作った櫂を、清二の猪牙舟に持ち込んだ。善吉親方の許しを得て、細工場にあった木材と道具で作り上げたという。

「そんな勝手なことして、大丈夫なのかよ」

 と、宗太が心配そうに言うと、巳之助は笑って答えた。

「おいらも『櫂を作ってみる』とは言ってみたものの、まったく経験がなかったもんで親方に素直に相談したんだよ。猪牙舟を二人で漕ぐためにはどんな櫂をつくったらよいでしょうか、って」

 すると、話を聞いた善吉が妙に乗り気になってしまったという。

 そもそも、善吉もこういう普段の仕事とは関係のない細工が嫌いではない。むしろ、大好きな性質である。

「こういうことは出来ないか」

 と相談されると、今までの自分の経験を総動員して、可能な限り最高のものを作ろうとする職人気質があった。

 善吉と巳之助は、頭を並べて「ああでもないこうでもない」と言いながら図面を作り上げる。それが出来あがると、善吉は、

「じゃあ、これにあわせてお前が作ってみろ」

 と、巳之助に細工場の道具を使う許しを与えた。

 巳之助は欣喜雀躍きんきじゃくやくして細工に挑み始める。一昨日、折からの雨で普請場が休みとなってしまったこともあり、一日中ゆっくりと細工に勤しむことができたのも大きかった。善吉の大工としての経験と、巳之助の柔軟な発想が合わさった櫂は、清二の玄人目、宗太の素人目から見ても、なかなかの出来栄えであった。

 それを、まずは清二が試してみる。

 最初に、巳之助が櫂と一緒に持ってきた金属製の留金を、進行方向右の舷側に固定した。この留金は、もともとは火事で焼けた大店の普請場から出てきたものである。本来の用途はよく分からないのだが、細工場の片隅に放置されていたそれに、櫂をどうやって舷側に固定しようかと頭を悩ませていた巳之助が目を付けた。思わぬ第二の人生を歩むことになった留金は、舷側から大きく外側に張り出した形をしている。今でいう『アウトリガー』である。

 しっかりと留金が固定されていることを確認した清二は、次に櫂全体を一旦、水につけて湿らせた。そうすると手元で滑りにくくなるのだ。

 最後に、櫂を留金に載せて準備完了である。

 櫓の場合、船頭は進行方向を向きながら漕ぐが、櫂の場合は進行方向に背中を向けて漕ぐやり方が江戸時代には既に一般的となっていたから、清二も進行方向に背中を向ける。

 大きく息を吸って、彼は身体全体を使って一漕ぎした。江戸湾に浮かんだ猪牙舟が、滑らかに回頭する。

「おお、こいつぁ――」

 清二は絶句した。

 とても舟を知らない大工の手仕事とは思えない。櫂が水を掻く部分は滑らかな曲線を描いて切られており、水に差し込む時、水中で押し込む時、水面に上げて切り替えす時の、各々の瞬間で引っかかりが見られない。

「じゃあ、こっちも試してみよう」

 反対側の舷側に固定した留金に同じように櫂を設置した巳之助が、同じように進行方向に背を向けて漕ぐ。猪牙舟は、清二の時ほどではないが、やはり滑らかに回頭した。

 宗太は、櫓を外した艫に、舵を嵌め込んでいた。

「こっちも準備万端だ。それじゃあ両方の櫂をあわせてみようじゃないか」

 舳側に巳之助、真ん中に清二、艫側に宗太が腰を落ち着ける。

 清二と巳之助は大きく息を吸った。

「初め!」

 宗太の掛け声とともに、清二と巳之助が一気に櫂を漕ぐ。

 猪牙舟はぐいと舳を上げて、勢いよく進み出すかと思われた。

 が、次の瞬間――


 清二が櫂を漕ぐ速度に巳之助が合わせきれず、二人の動きがばらついてしまう。


 猪牙舟は左右に大きく振れ、三人は舟にしがみつくのに手一杯で、とても漕ぎ続けることが出来ない。

「櫂はよく出来ているが、漕ぎ手がそれに見合わねえな」

 宗太が頭を掻く。こういう言い方をしても決して漕ぎ手に嫌味に聞こえないのが、宗太の人徳だった。

「おいらのほうが慣れていないから、清二の漕ぎについていけないのかな」

 巳之助は悔しそうに言う。宗太は苦笑しながらそれに答えた。

「そいつはそうだろうけどよ、だからといって清二にあわせるのは難しかろうよ。そいつぁ、鼻から分かってたことだ」

「だけど、これじゃあ真面に漕げやしないぜ」

「俺が手加減するか」

 清二は、基本的に個人主義の彼にしては珍しいことに譲歩した。彼も、なんとなく全員で力をあわせて舟を動かしてみたくなったのだ。

「そうかい、悪いねえ。でも、何か合図がないと合わせづらいんじゃないか」

「確かに、太鼓か何かあるといいけど、今は持ち合わせがない」

「じゃあ、声でいくか」

 宗太がにっこり笑って言う。つられて清二も話に乗った。

「どんな声だ」

「そうだな――」

 宗太が小さい身体を大きく伸ばして、腹の底から声をあげる。

「やっ、せーい」

 快活な響きが水面を渡ってゆく。

「こんな具合だとどうかな。最初の出だしの『やっ』で櫂を揃えて準備、『せーい』で漕ぐ。次からは、『やっ』で櫂を返して、『せーい』で漕ぐ。そんな感じだけど」

「悪くない」

 いや、かなり気分よく漕げそうな気がする。清二はそう思ったが、なんとはなしに気恥ずかしくなって、そこまでは言葉を繋げなかった。

「それじゃあ、この掛け声で試してみようか。とりあえず三回だけ、いくぜ!」

 宗太の声に艶やかな張りが出る。清二と巳之助は、腰を揺すって舟の中での尻の位置を定めた。

「やああっ」

 宗太の声が川面に響き渡った。最初の合図なので、少し長めにしたらしい。

 清二と巳之助は、櫂を水面と並行になるように構えた。かもめが一羽、舷側をかすめてゆく。


「せーい」 漕ぐ。

「やあっ」 櫂を返して、

「せーい」 漕ぐ。

「やあっ」 櫂を返して、

「せーい」 漕ぐ。

「やめ!」 櫂を上げる。


 わずか三回ばかりの漕ぎ(ストローク)だった。

 一漕ぎ目で、舟は一旦、舳をふわりと上げる

 二漕ぎ目で、舟はすいと水面を滑った。

 三漕ぎ目で、舟はぐいと勢いに乗った。 

 それだけのことで、驚くほどの距離を進んでいた。まだ舟は動いており、清二の耳元を風の流れる音が掠めている。

「おっ、こいつはいいねえ。気持ちがいいや」

 宗太は眉を上げて喜んでいだ。

「今度はさきより上手く漕げたような気がするよ」

 巳之助は大事そうに手製の櫂を撫でながら、まんざらでもなさそうな顔をしていた。


 そして、清二の二の腕には、鳥肌が立っていた。


 素人の二人には「今、一体何が起こったのか」分からなかったに違いない。

 清二は巳之助にあわせるために、手加減をして漕いでいた。いつもの半分ぐらいの力で、宗太の合図にあわせることだけに専念した。それなのに、猪牙舟が進んだ距離とその滑らかさは、清二が一人で本気を出して櫓を漕いだよりも長くて、早い。

 清二は、自分が「当代きっての漕ぎ手である」などと自惚れてはいなかったが、「上手いほうだ」という自覚はあった。それを、素人と半分しか力を使っていない玄人の櫂が、凌駕りょうがした。

 しかも、巳之助はさっきの漕ぎが初めてである。だから、まだまだ動きはぎこちなかった。これから彼が漕ぎに慣れていき、清二が本気を出しても大丈夫になった時、舟がどこまで速くなっているのか見当もつかない。

 ともかく、こんな経験は清二にも初めてだった。

「それじゃあ、もう一回。今度はさっきよりも長めに試してみようぜ!」

 宗太が明るい声を上げる。清二は、思わず櫂を水面と併行に保持しそうになって、

「いや、ちょっと待った!」

 と大きな声をあげた。

「どうしたんだよ、急にでかい声出して。驚いただろ」

 宗太が怪訝そうな顔をする。巳之助も後ろを振り向いていた。

「何か問題でもあるのか」

「大ありだよ」

「何でだよ」

 清二は周囲を見渡す。

 日が長くなってきたので、まだまだ江戸湾内は明るい。遠くに五大力船の形だけが見えていた。その手前を高瀬舟が一艘ゆったりと流れていたが、ここからは距離がある。岸のほうを見ると、こっちを見つめている者はいない。人影はあったが、忙しそうに歩く者ばかりだった。つまり、さっきの漕ぎはまだ誰も見ていない。

 清二は安堵の溜息をつくと、宗太に向かって言った。

「さっきみたいな勢いで江戸湾を舟で横切ってみろ。怖いお兄さん方にいろいろと因縁つけられるぜ」

「なんで? 俺たちはただ、舟を漕いでいるだけだろ」

「そうはいかないんだよ。佃島漁師の押送舟とかち合おうもんなら、向こうからどんな難癖をつけられるか分かったもんじゃない」

「そうなのか? なんだか尻の穴が小さいやつらだなあ」

 事情の知らない宗太はそう言って笑っていたが、佃島漁師の荒っぽさを知っている清二にとっては冗談ではない。

彼らは自分達が『江戸湾最速』だと自惚れている。そしてそれ相応の実力が確かにある。その彼らの目の前で、さっきのような漕ぎなんか見せようもんなら――確実につぶしにくる。

「いいから、もう少し暗くなってからにしろ」

「そうかい。残念だが、清二がそういうなら確かだ。もうちょい待つか」

 宗太はここですっと引いた。この引き際の良さも彼の持ち味である。

「巳之助、気分はどうだった?」

「舟がすいっと進むと気持ちがいいんだね」

 巳之助は留金とめがねの締りを確認していたが、宗太のほうに顔を向けると明るい顔で言った。

「なんだか嫌な気分だけ、そのままのところに置き去りにして、進んでいけそうな気がするよ」

「おお、そいつぁ気の利いた話だな。嫌なもんは全部置き去りか」

 宗太は目を細めて岸を眺めた。巳之助と清二には、その仕草だけで彼の気持ちがよく分かるようになっていた。

 宗太の視線の先には多分――彼の屋敷がある。



 江戸の空を染め上げていた赤い陽が、次第に闇に置き換わってゆく。目を凝らしても海上の出来事が判別しがたいほどの薄闇となるまで、三人は江戸湾上を漂っていた。

 話は尽きなかった。

(男同士だから、そのうち話のネタにつきるだろう)

 と全員が思っていたのだが、そんなことはなかった。

 そもそも、初めて会った夜から既にそうだったと言える。基本的に三人の会話は、宗太が話題を提供して骨格を定めて、巳之助が補足して内容を発展させ、清二がごくたまに話に割り込んで方向修正する、そんな分担で構成されていた。

 宗太は、町人と武家の両方の世界を知っており、その両面から話が出来る。話題の幅が格段に広い。屋敷では大人達に囲まれており、話し相手はいなかった。学問所や道場には同年代の仲間がいたものの、「直参旗本」という身分に遠慮して距離を置かれる。一緒に遊びに繰り出す連中は、どちらかといえば半端者で、話していてもさほど興味を引かれない。このように同じ目線で、同じ水準で会話できる相手に飢えていた。

 巳之助は発想が柔軟で、同じ物事を様々な側面から眺めてみて、違った答えが出せる。家に帰ると口煩い母親からの駄目出しばかりで、自然と無口になる。親方の細工場では一番の下っ端ということもあり、言葉を選んでいた。自分の考えを素直に表に出しても怒らないどころか、関心を示してくれる相手は有り難かった。

 清二は基本的に無口だが、仙台藩上屋敷の長屋住まいのためか、一般世間の常識に強い。宗太と巳之助には欠けた道理をわきまえていた。兄の死後、すっかり塞ぎこんでしまった父親と、帰りが遅いためにあまり顔を合わせない姉の間で、すっかり「人と話をすることの楽しさ」を忘れかけていたのだが、こうやって「黙っていても大丈夫、ときおり話しかければちゃんと聞いてくれる」相手により、ゆっくりとその感覚を取り戻し始めていた。

 そして、各々がその自分の役割を十分に認識しており、また、その位置付けが心地よい。三人の性格の違いをお互いにうまく補完しあった「奇跡のような結果」であった。

 しかし、彼らはまだそのことを自覚していない。


「さて、真っ暗になる前にもう一度だけ試してみようぜ」

 宗太が頃合いを見て声をかける。

「今度は十回続けてみようか。清二、どちらに向けて進んだほうがいいかな」

 宗太が音頭を取ることに、清二も巳之助もすっかり違和感がなくなっていた。宗太も、だからといって自分がすべてを仕切らずに、各々の得意分野に従って指示を求める。清二は周囲を慎重に見回してから、言った。

「岸に向かって進むのは、いざという時に舟を止めるのが難しい。沖に向かうと波が高くなるので、猪牙は本来向かない。底が平たいからな。大川の真ん中を遡るのがいいんだが、川は橋からまる見えだ。岸に沿って進むしかないな」

「分かった、それでいこう。清二、右を少しだけ漕いでくれ」

 清二は進行方向に背を向けている。だから、櫂は清二にとっては「左向き」にある。しかしながら、舟の上での「右左」は、基本的に進行方向から見た状態を指すから「右舷」だ。宗太は教えられなくとも自然にそのことを飲み込んでいた。

 右舷側の清二が軽く一漕ぎすると、舟は滑らかに向きを変えてゆく。岸と併行になったところで、清二は櫂を水に立てて舟の挙動を安定させた。

「よし、それじゃあ準備してくれ」

 清二と巳之助は腰を振って座る場所を定める。 

「やああっ」

 宗太の合図が川面に響き、清二と巳之助は櫂を水面と並行になるように構えた。


「せーい」 漕ぐ。

「やあっ」 櫂を返して、

「せーい」 漕ぐ。

 漕ぎを十回繰り返したところで、

「やめ!」 櫂を上げる。


 舷側を風景が恐ろしい勢いで流れる。

 彼らは一本の矢だ。

 びんを風がなぶる。

 いや、鬢が風を切り裂く。

 どちらかは分からない。

 ともかく速い。

 こんな舟足の速さは、清二も感じたことがない。

 清二と巳之助は、自分たちの力が引き起こした「速さ」に背筋が伸びる。

 一方で、宗太は冷静に舵を試していた。右舷に軽く舵を切ると、舟は左に少し曲がる。左舷に切れば右だ。

「ちょいと強めに舵を切るぜ、舟縁に掴まってくれ!」

 そう警告し、二人が舷側を握ったのを確認すると、宗太は勢いよく舵を右に傾けた。勢いに乗った猪牙舟は、左舷に傾きながら滑らかに回頭する。

「おお、こいつぁいいや」

 宗太は満面の笑みを浮かべていた。

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