第7話 フンボルトペンギンの温泉合宿


 ——四ヶ月前

 それは増川美保が佐藤研究室に配属して間もない頃のことだった。美保は居室でレポートの作成を行っていた。佐藤研究室の学生は、教授の趣味でクラシカルなノイマン型プロセッサのマシンでテキストをキーボードで打つという苦行を強いられることになっていた。

 普段、キーボードといったデバイスを使うことになれていない美保はその所作に手間取っていた。そもそもテキストプロセッサという概念がわからないのだ。

「ねえ、小林君、テフって何?」

 美保は隣の席にいる同期の小林大樹に質問した。

 佐藤研究室の学生居室には机が並んでおり、机同士は顔を上げると見えるくらいのパーティションで仕切られている。通路にはパーティションはないので、ちょっと椅子を引いて横を見れば隣の大樹に声がかけられる。

「ん?」

 大樹の顔が美保の方を向く。

 そのころの大樹は、同じ年の男性と比較するとちょっと小柄であるが、もちろん人間の姿だった。髪の毛は短めに刈り込んであってさっぱりとした様子で、人なつこそうなくりくりとした瞳をしていた。

 美保は困り果てた表情を浮かべている。

「アルファベットを打ち込んで数式が出てくるってどういうこと?」

 大樹は立ち上がると美保のノートパソコンと呼ばれる機械の様子を見に来た。画面は旧式の平面画像表示装置なので、厚みが結構あり向こう側も透けていない。

「この不思議な道具の使い方がわからないの」

 半透明の薄型携帯端末にフリックとジェスチャー入力が当たり前の美保にとって、キーボードと厚みのある不透明ディスプレイを組み合わせたノートパソコンは、不思議な道具に見えた。

 大樹が手を伸ばして、キーボードというやたらめったらボタンが並んでいるスイッチ基盤をカタカタと操作する。

「たとえば積分記号を表示させたい場合は『\int』と打ち込んで……で、コンパイルのコマンドをシェルに送って、専用ビューアを起動すると」

 画面にきれいな数式が現れた。

 美保が目を丸くした。

「わ。魔法みたいだね。画面が透明じゃないのに数式が表示されているよ。不思議だね。すごーい」

 美保が大樹の顔を見る。

 大樹は人差し指で頬をぽりぽりとかいた。

「小さい頃からいじって遊んでいたからね。たまたまなれていただけだよ」

 そう言って大樹は美保に向かって笑った。

 さわやかな笑顔だった。

 優しい笑顔だった。

 少し気恥ずかしいような気持ちがして、美保は視線を大樹からずらした。





 第七話 フンボルトペンギンの温泉合宿





—一—


 相川守館長と小野寺真由助教の調査によって、フンボルトペンギン失踪事件は誘拐事件である可能性が高くなった。二度とこのような事件を起こさないようにすべく、小野寺真由の手によって強固なセキュリティシステムが構築された。

 ペンギン水槽に通じる通路にはマイクロ波レーダが配備され不振な侵入者を見逃さないようにした。さらにはレーダを補強する形で近赤外ライダも設置された。

 空気の循環系には対流センサと成分分析器が設置され不審な成分がないかをリアルタイムで監視している。さらには光コムおよびコヒーレント量子干渉計を併用した超高精度重力場ゲオメトリ観測装置によって空間の歪みをサブミクロンの単位で測定し、不審な空間歪みの傾向を警告として出力する。

 使用が疑われている光学迷彩装置に関しても抜かりはない。各種センサからの出力がおかしいと判断されれば、対光学迷彩照明装置が作動することになっている。この照明は通常光の偏光状態と異なる時変ベクトル偏光の照明で、通常光よりも散乱されやすい特性になるようにチューニングされている。この照明によって侵入者は通常の高感度カメラで撮影できる状態となる。

 それらの情報が有機多層ニューラルネットワーク型計算機で統合され、高度な判断がなされて侵入者を攻撃する。各種レーダやカメラによって特定された侵入者の位置に向かって催涙弾が放たれることで侵入者の行動を抑制し、空気砲により高電圧雷生成装置の射程距離に追い込み、高電圧雷生成装置の電撃によって侵入者にダメージを与え、投網装置によりスパイダーウェブが放たれて侵入者を捕獲する。

 念には念を入れて、ペンギン水槽の周囲を囲むようにして質量センサマットが床に接着された。このセンサ上の質量は常にモニタされ、水族館が閉められた後に一平方メートルあたり百グラム以上の誤差が生じるとアラームが鳴り警備員が現場に急行するしくみがつくられた。これは単純な重量センサなので有機多層ニューラルネットワークによる制御とは独立した系統になっており、佐藤教授が趣味で持っていた旧式のシリコンベースのノイマン型プロセッサによって制御されている。異常検知時には警備員への警報のほかにも、小野寺真由の携帯端末と相川館長の携帯端末にも警報が発せられるように構成された。

 全てが完成したのを見て、小野寺真由は満足げに頷いた。

「これならば二度とフンボルトペンギンは盗まれないでしょう」

 相川館長は口をあんぐりと開けている。

「あ、ありがたいのですが、これほどまでの設備を設置するための費用は一体どこから捻出したのですか?」

 ふふん、と小野寺真由は頷いた。

「うちの研究室の佐藤教授が支援してくださいました」

 もちろん例の金髪美人と佐藤教授の会話を録音した音源と引き換えにである。

「後ほど、佐藤教授へお礼に伺います」

 相川守は深々とお辞儀をした。





 監視システムが作動してから二週間、フンボルトペンギンの失踪事件は無かった。

 定例の休館日、警備員室では警備員が監視カメラの映像やセンサからの出力を監視していた。

 ドアが開いた。フンボルトペンギンの飼育員こと山下圭吾だった。

 手にはセキュリティ会社から届いたワクチンを持っている。

「いつものワクチンが届いたので、やっときますよ」

 フンボルトペンギン水槽監視システムの制御に用いられている有機ニューラルネットワーク型ワークステーションは、ウイルス感染を防ぐために定期的にワクチン注射が必要だった。

 顔見知りだったので警備員は帽子をとって会釈した。

「すまないねえ」

「いえいえ」

 そう言って、山下圭吾は届いた注射器を持ったまま警備員室の奥にあるサーバルームに移動した。

 左右を見て他人の視線が無いことを確認すると懐からワクチンとまったく同じ形の注射器を取り出して入れ替えた。そして、有機ニューラルネットワーク型ワークステーションのワクチン注入孔へその注射器を突き刺して中身を注入した。すぐそばにある廃棄ボックスにその注射器を捨てる。

 山下圭吾はサーバ室を後にした。

 水族館の裏口から外に出ると携帯端末を操作した。すぐに相手が映話に出たが映像は切られており音声のみだった。黒地の画面には白い文字で『T』とだけ表示されている。

「うまくやりまーしたか?」

「はい」

「発症までしばらくかかりまーす。怪しまれないように行動してくださーい。いいでーすか、あなたののこれまでの行動は記録していまーす。私がその情報を漏らせばあなたの職はなくなりまーす。借金の取り立てがあなたの両親にまで及びまーす」

「はい」

 山下圭吾の返事を確認したところで通話は切れた。





—二—


 月が変わって三月第一週の佐藤研究室研究会である。

 ロの字をした形に囲まれた机の周囲の席には反時計回りに順番に、助教の小野寺真由と学部三年の増川美保と小林大樹ことフンボルトペンギンが座っている。フンボルトペンギンはそのままでは席の上に顔が出ないのでマカロン型のクッションの上に立って、フリッパー(翼)を机の上に置いている。このクッションは増川美保の家から持ってきたもので、パステルカラーの水色が可愛らしい雰囲気を醸し出している。

 正面の席にはいつもの通り佐藤教授がでっぷりと肥えたお腹を抱えて椅子に座っており、どこからともなく整髪剤の匂いが漂ってきている。その隣に多田健一が座っており、手元のタブレット端末を操作しながら論文の説明をしている。

 本日の発表は謹慎明け、修士一年の多田健一だった。題目は「ピコブラックホール(PB)における事象の地平線の非局在化による自己意識圧縮について」である。謹慎明けということで、論文を読んで説明するという研究室にいなくてもできる内容である。

 説明は結論部分に入っていた。

「ん、というわけで、この理論によるとPBの中で自己意識は平面に圧縮された形で保存され、そこにおける時間の進行は、PBの外と比較して無限小の倍率でゆっくりになるということが示される」

 増川美保は首をかしげた。

「はてな?」

『ペン?』

 フンボルトペンギンこと小林大樹も同様である。

 くちばしをぶんぶんと左右に振ってわからないというジェスチャーである。

 佐藤教授が多田健一に指摘する。

「多田君、その説明じゃ誰もわからないよ。本当にわかっているならもっと噛み砕いた言葉で言えるはずだ」

 佐藤教授の右手の指はフレミングの法則の形に直交してまとめられ、空中で円弧を描いてぶんぶんと振り回された。教授お気に入りの手の配置で、しっかりと三本の指が直行するところがポイントだ。

「えっと」

 健一は大樹を見た。

「つまり、小林大樹の体のフンボルトペンギンは心を持っていたわけだ」

 大樹はぱたぱたとフリッパーを動かした。そのペンギンの名前を知っている。

『名前はペン吉ペン』

 健一は頷いた。

「そう、この理論によると、そのペン吉の心と、小林大樹の体はピコブラックホールの事象の地平線のぎりぎりのところを漂っていることになる。そしてその境界は制御可能だという」

 おずおずと増川美保が手を挙げる。

「その、事象の地平線って何?」

「帰ってこれないところと帰ってこれるところのギリギリの線だ。そして、その線の近くでは時間はゆっくりと進む。そこでペン吉の心と小林大樹の体が閉じ込められている。そして、その線は重力場理論により制御できる」

『じゃあ、それを制御したら、ペン吉の心とぼくの体が元に戻るということペン?』

 大樹はくちばしを健一に向ける。

「そういうことだ」

 健一は頷いた。

「そういうことね」

 小野寺真由が肯定した。

「ふむ」

 佐藤教授が顎に手を当てる。

「この原理を応用した装置は面白いな。あれを利用したら作れるかもしれない。しかし……」

 小野寺真由が細いめがねに手を当てて掛け直した。天井の照明からの光線が眼鏡表面のコーティングで反射してきらりと光る。

 不審げな目つきをして小野寺真由が佐藤教授を見た。

「先生『あれ』とは何ですか?」

「い、いやなんでもない」

 佐藤教授はあわてて手を振って言葉を打ち消した。

「そうだ、小林君に渡したいものがあったんだ」

 明らかな話題転換である。

 佐藤教授はごそごそと腹巻に手を伸ばした。

「ぱらららっぱらー。ペンリンガルマークツー」

 取り出されたものは腕輪の形をした道具だった。

 通常フンボルトペンギンは個体識別のため、フリッパー(翼)の付け根に細い腕輪をする。ちょうど、その腕輪と同じに見えるものだった。

「これは、普通のペンギン用の腕輪に見えるが、今までのペンリンガルの機能を全て持っている上に現在位置情報特定機能や通話機能などが追加されているのだ。さらには防水構造になっているから水中でも壊れず泳いでも外れない。そしてきわめつけは空気を読む機能で、周囲の空気を読んで台詞を修正してくれる。つけてあげよう」

 嫌がるフンボルトペンギンこと大樹は、小野寺真由の手によって教授に手渡された。

「ムォーウ」

 悲しそうな大樹の悲鳴は教授の整髪剤の匂いを間近で嗅いだためである。人間でさえ拡散前の凝集した整髪剤の匂いで気が遠くなるのだから、人間より嗅覚に勝るフンボルトペンギンが嗅いだ匂いは強烈だった。

 じたばたと大樹は机の上でフリッパーを動かして暴れる。

「こら、小林君、おとなしくしなさい」

 小野寺真由が押さえつけて、ペンリンガルを付け替えた。

『ペン』

 正常にペンリンガルマークツーは作動しているようだった。

 体の押さえつけが解放される。

 あわてて大樹は机の上をぺたぺたと歩いて増川美保の方へ逃げ帰った。

『ペ〜ン』

 空気を読む機能が正常に作動して語尾の「ペン」が長く延びている。

「よしよし」

 頭を増川美保に撫でられて、大樹は落ち着いたようだった。

「さて」

 小野寺真由がぱん、と手を打った。

「ここで、重大発表があります。水族館のフンボルトペンギン失踪事件については監視を強化することで落ち着いています。そこで、休養を兼ねて、一泊で近くの温泉に研究室合宿を計画しています」

「うむ」

「おお」

『ペン』

 ぱちぱちぱちと拍手が上がる。



 ——ちょうどそのころ

 東北東大学、海洋研究所、附属水族館の事務室で受付の園田町子が発表していた。

「と、いうわけで、今回の職員旅行は一泊で、近くの温泉に行くことになりました。館長の希望でカニですよ。茹でガニを丸ごと一匹ずついただきます」

「きゃあ」

「おお」

「うれしい」

 職員たちの拍手がぱちぱちと起こった。





—三—


 佐藤研究室が合宿を行う温泉宿——菜花亭は、水族館のある湾を挟んで向かい側の岬近くにあった。車で行けば実は十分ほどですぐにつく。大学の近くにあるので、サークルのお泊まり会などでよく使われるところだった。

 佐藤研究室の佐藤正教授、小野寺真由助教、修士一年の多田健一、学部三年の増川美保とフンボルトペンギンこと小林大樹は菜花亭のロビーに着いた。

 研究室合宿が初めての増川美保は「わあ」と歓声をあげた。

 床は桃色の花柄をした絨毯でふかふかしていた。並べられているソファーはすわりごごちがよさそうだった。ガラスの窓から灯籠のある小さな中庭が見えた。小さな川に水が流れており、時おり鹿威しの乾いた音が聞こえる。

「佐藤研究室のみなさまですね。お待ちしておりました」

 菊の花柄の留め袖を着た女将が出てきた。髪は後ろで団子にまとめている。てきぱきと記帳の手続きをすると部屋割りを説明した。部屋割りは、教授が個室で、男性と女性が別々の部屋になっていた。手際よく荷物の運搬の手配をすると教授を専用の部屋に案内し始め、女部屋と男部屋のそれぞれの担当の仲居さんへ引き継いだ。

 多田健一とフンボルトペンギンこと小林大樹は男部屋である。

 一階にあるふかふかの絨毯の上を、荷物と大樹が乗った台車を仲居さんが押してゆく。

「エレベータはこちらになります。フンボルトペンギンのお客様はそちらのお兄様にボタンを押してもらってください」

『フンボルトペンギンだとエレベータのボタンも押せないペン』

 大樹はちょっと寂しそうにつぶやいた。



 多田健一とフンボルトペンギンこと小林大樹は三階の和室に案内された。

 部屋の外から海岸が見えた。宿に面したところは崖になっていて波が打ち寄せていた。

 差し出されるままに健一と大樹は座ぶとんに腰を下ろした。

 仲居さんが手際よく机の上の急須と茶碗を準備してお茶を煎れた。

 きちんと大樹の分にはストローをつけてくれている。

「ようこそいらっしゃいました」

 深々とお辞儀をしてから館内の説明が始まった。食堂と温泉は一階にあるという。

「温泉は一階にございます。当旅館の露天風呂は海に面した場所にございます。海側は岸壁になって危のうございますので、海側には出ないようにご注意ください」

 仲居さんは一息ついてから続けた。

「なお、こちらに特に男子学生様向けに注意事項が書いてございます。必ずお読みください」

 ごゆっくり、と言って仲居さんは出て行った。

『注意事項が気になるペン』

 真面目な大樹は注意事項が書かれた紙に目を通した。

 ——ご入浴の男子学生様へ——

 男湯の露天風呂と女湯の露天風呂が崖を介して接しております。過去によからぬ思いを抱く者がございましたので厳重な覗き見防止対策を施しております。不審者が女湯に近づいた場合、命の保証は致しかねます。

 ——

 多田健一とフンボルトペンギンこと小林大樹は顔を見合わせた。

『覗き見なんてしないペン』

 大樹の言葉に健一は大きく首を振った。右手はぐっと握り締められている。

「俺はするぞ」

『ペン?』

「覗きは男のロマンだ」

 大樹はくちばしをあんぐりと開けた。



 佐藤研究室メンバーは、荷物を部屋に置いた後で会議室に集合した。

 あくまでも『合宿』であり、単なる温泉旅行ではない。今回の合宿の大きな目的はフンボルトペンギンこと小林大樹が元に戻るための方法をまとめることである。

 助教の小野寺真由が細い眼鏡に手を当てて掛け直す。

 今日の発題者である。

「これまでの多田健一君の検討によってピコブラックホールにおける事象の地平線の非局在化が自己意識の保存に寄与することがわかったわ。そして、事象の地平線の精密制御がこれまでのサトウ・アーント理論で制御できることもわかっている。これらを組み合わせれば、理論的には小林君の体とフンボルトペンギンの自己意識をピコブラックホールから取り出すことが可能になるはずだわ」

 増川美保は首をかしげた。

「はてな?」

『ペン?』

 フンボルトペンギンこと小林大樹も同様である。

 くちばしをぶんぶんと左右に振ってわからないというジェスチャーである。

 佐藤教授が小野寺真由に指摘する。

 整髪剤の匂いが漂ってくる。

「小野寺君、その説明じゃ誰もわからないよ。本当にわかっているならもっと噛み砕いた言葉で言えるはずだ」

 佐藤教授の右手の指はフレミングの法則の形に直交してまとめられ、空中で円弧を描いてぶんぶんと振り回された。

「えっと」

 小野寺真由は大樹を見た。

「簡単に言うと、がんばれば小林君の身体を元に戻せるってことね」

 佐藤教授はため息をつく。

「かみ砕きすぎだよ。がんばるって、どういうことなんだ?」

 多田健一が手を挙げた。

「検討した結果、このピコブラックホール制御に必要なエネルギーは、物体の質量エネルギーに状態次元数を乗じたオーダであることがわかりました」

 美保は隣の席にいてマカロンクッションの上に座っている大樹のおなかをつんつんとつつき、小声で話しかけた。

「小林君、オーダって何? 注文するの?」

『オーダとは「だいたいこれくらいの規模の量」っていう意味ペン』

 健一の説明は続いている。

「この見積もりが意味するところは、小林大樹の身体を元に戻すためには、同じ質量の反物質爆弾と同じエネルギーが必要ということです」

「なに? それでは現実的なエネルギーで小林君を戻せないということではないか」

 教授が席から身を乗り出し、腹巻きの中をごそごそといじり始めた。

 ぱっ、と机の上に物を投げる。

 からん、と乾いた音がした。

 銀色に光る物体が机の上に転がった。

 小野寺真由が怪訝そうな顔をする。

「佐藤先生、これは」

 全員の視線が物体に集まる。それは一本のスプーンだった。

 佐藤教授がつぶやいた。

「匙を投げた」

 ——一瞬の間

 小野寺真由が静かにスプーンを拾って教授に返した。

「対応案を考えましょう」

 多田健一は「はい」と答えた。

 増川美保は「わかりました」と答えた。

 小林大樹は『ペン』と答えた。

 しかし、根本的な対応案は見つからず、議論は次回の研究会に持ち越された。





—四—


 研究会の後は夕食で宴会だった。研究会の後でいったん部屋に戻っているので、フンボルトペンギンの大樹を除いて全員浴衣姿である。

 畳が敷かれた和室の広間を襖で仕切った一角に、お膳が五組並べられている。

 佐藤正教授、小野寺真由助教、修士一年の多田健一、学部三年の増川美保とフンボルトペンギンこと小林大樹で四人と一匹しかいないのだ。

 一方、隣ではすでに宴会が始まっているようで賑やかな笑い声が聞こえて来る。

「なんだか寂しい宴会だな。隣は賑やかなようだが」

 整髪剤の匂いを漂わせる佐藤教授がやや不満そうな声を出す。先ほど匙を投げた冗談が通じなかったので少し不機嫌な様子だった。

 へそを曲げている教授とは関係なく、隣の賑やかで陽気な声が襖を通じて聞こえてくる。

「さあ、皆さ〜ん。お待ちかねのカニ三昧ですよ〜」

 小野寺真由が眉をひそめた。

「うるさいわね。注意するわ。なんだかどこかで聞いた声のような気がするけど」

 すっと小野寺真由が襖を開けると、仁王立ちしてカニの美味しさを熱演する女性の後ろ姿が現れた。

 くるりと女性が振り返る。

 丸い顔に小柄でふくよかな体型。

 大きな声に、にこにことした笑顔。

 紛れもなく、東北東大学海洋研究所付属水族館受付勤続三十年の園田町子だった。

「あら〜。偶然ね」

 笑顔がさらに緩まり、にんまりとした表情になり、怪しさ百万倍だった。

「な、なんで園田町子さんが」

 小野寺真由が後ずさる。

「いや、こちらは水族館職員の懇親会ということで。相川館長もおいでですよ。小野寺さん」

 後ずさる小野寺真由に近づいて、園田町子がぽんぽんと小野寺真由の肩を叩く。

「いや〜奇遇ね〜。せっかくだから一緒に宴会しましょうか。おかみさ〜ん。宴会場を一緒にして〜」

 あれよあれよという間に、襖が取り払われて宴会場のお膳の配置が組み替えられ、水族館職員と佐藤研究室合同の宴会場へと変貌を遂げる。まるで、あらかじめ相談していたかのような手際の良さである。

 そそそ、と園田町子は佐藤教授の脇にすり寄り、ビール瓶を片手にお酌を始めた。

「さ、さ、さ。一杯いかが?」

「うむ。宴会はやはりこうでないとな」

 佐藤教授はうんうんとうなずいて満足げである。

 仲居さんたちが慌てて料理を準備し始める。

 宴会が始まった。



 多田健一、小林大樹、増川美保、小野寺真由助教は並んで座っていた。

 美保にとって大樹が右で助教が左にあたる。

「食前酒は梅酒でございます」

 すっと、小さなグラスに入れられた梅酒が差し出される。

 全員二十歳を超えているので、法律的に飲酒は問題ない。しかし、フンボルトペンギンこと小林大樹にはその量は多かった。一気にアルコールが回ってほろ酔い気分になって、ころりと倒れる。

 転がった先は増川美保の膝の上である。しかし、美保はそれを気にしていない。

 それよりも料理に忙しかったのだ。

 今回の料理はカニづくしコースである。通常の学生の身分ではお目にかかることすら難しいのだ。今回はみんなで一年間かけて積み立てた合宿用予算と教授の拠出金が潤沢につぎ込まれているので、質と量ともに充実していた。

 食前酒に続いて出てきたのはカニ刺しである。

 刺身特有の生々しさはあるものの、カニ肉をかんだ瞬間に感じる優しい甘みと、その柔らかいカニ肉の食感が食べた者すべての味覚を魅了した。

 続いて登場したのは焼きガニである。小さな竈(かまど)に固形燃料を入れて自分で焼く形であり、お膳の空気は香ばしいカニ肉のにおいで飽和した。身がぷくぷくとふくらんで食べ頃になり、口に入れると暖かい肉がうま味成分を舌の表面に放出した。

 一つの料理が終わるころ、ちょうどよい頃合いに次の料理がやってくる。

 そして、それは本日の主役だった。

 ——茹でガニ

 ばばーんと出てきたのはズワイガニの姿ゆでだった。

 紅色をしていて皿から足がはみ出ており、体つきは立派で見るからに肉が付いていそうだった。

「おおー」

「なんと」

「ややっ」

「やったー」

 あちこちから歓声が沸き起こる。



 美保にとって初めての『カニの姿茹で』である。

 美保はまずはカニを手でもって観察した。

 裏返した。

 それはまさしくカニで、足もしっかりとついていた。

「これ、どうやって食べるんですか?」

 美保は左にいる小野寺真由助教に問いかけた。

「まずはね、甲羅をばりっとはがすのよ」

 小野寺真由は豪快に手元のカニの甲羅を手で引き剥がした。ばりばりと音がした。甲羅の中にはカニの脳髄——カニ味噌がドロドロと充満していた。

「ええっ?」

「この、カニみそがおいしいのよねえ」

 うっとりとした表情で小野寺真由はカニスプーンをカニの身体につっこんで、カニ味噌を口に運んでいる。

 その様子を横目に眺めながら、美保は思いきってカニの甲羅をばりっと剥がした。

 おそるおそるカニ味噌を食べる。

 最初の一口は気持ち悪さが勝ってあまりいい味に感じなかった。しかし、二口目からはカニのタンパク質が作り出す味わいのハーモニーが美保の舌をとらえた。カニ味噌にしかない絶妙な味わいを美保は理解した。

 美保はカニスプーンでカニ味噌を食べきった。

 カニを左右に半分に割って、胴体の肉を食べた。

 カニ肉とカニ酢の取り合わせも絶妙だった。

 まさに感動の味わいであった。



 カニの感動に揺れ動く美保の膝に、小林大樹は目を覚ました。

 身体を起こす。

 目の前には増川美保を含めてカニに没頭する人間たちの集団がいた。

 フンボルトペンギンこと小林大樹は完全に蚊帳の外であった。

『ぼくもカニを食べたいペン』

 小林大樹は右隣にいる多田健一の腕を、フリッパー(翼)でつんつんとつついた。

 つついたのに健一は反応せず、ひたすらにカニを口に運んでいる。

「おおー。カニうまうま」

 健一は気づいていないかまたは気づいていても無視しているかのどちらかだった。

 健一はカニの足を一本取り、足の関節を割り、蟹ばさみを入れ、中身を食べた。

 採りにくいところは蟹スプーンでほじりだしていた。

 第二間接の真ん中のところや、足先などにも、はさみを入れて丁寧に最後まで食べていた。

 大樹はそのカニ肉を見つめる。

 やわらかそうで、いかにもおいしそうだった。

 大樹は多田健一の脇腹を、くちばしで攻撃した。つんつんとつついた。

 さすがにくちばし攻撃の刺激には我慢しづらかったのか、多田健一はいったんカニから手を離すと大樹の身体をむんずと掴んだ。

「ああ、俺は自分のカニに集中したい。というわけで、こいつをお願い」

 大樹の身体を抱き上げて、ぽん、と美保の横に置いた。

 大樹は美保を見上げる。

『ぼくもカニを食べたいペン』

 美保が大樹を見下ろす。

 つぶらな瞳だった。小さな身体に愛らしいお腹だった。そのお腹が、くう、と鳴いていた。

「そうだよね。カニおいしいもんね。小林君、フンボルトペンギンだから、カニを分解できないから、仕方ないよね」

 美保は大樹のお膳のカニを分解して、カニ味噌をカニスプーンに盛った。

「はい、あーん」

 大樹の口がかぱりと開く。

 カニスプーンが大樹の口の中に突っ込まれる。

 ぱくりと大樹は口を閉じた。カニ味噌のうま味が大樹の口の中に広がった。

「じゃあ、こっちのカニ肉もあげるね」

 美保が箸でカニ肉を大樹の口に運ぶ。

 再び大樹は美味しさに恍惚とした表情になる。

 大樹の様子を見て、美保は優しい笑顔を浮かべる。

 そんな二人の様子を園田町子は抜け目なく横目でチェックしていた。

「まあ、ほほえましいカップルだわ。これは何とかくっつけなくちゃ」

 園田町子は小さな声でそう、つぶやいた。



 宴もたけなわ、酔っぱらっている成人が量産されていた。

 小野寺真由は赤い顔をして相川守館長の隣でビールのボトルを手にしている。

 なんとしてでも相川守館長と話がしたかった。ここはまず無難に目の前にある料理の話題で様子を見ようと声をかける。

「相川さん、カニは美味しいですねえ」

 そう言いながら、ビールのボトルを空になった相川守のグラスに傾ける。

 相川守は「ありがとうございます」と言いながらグラスで受けて、それを飲み干した。

「カニは美味しいですね。カニは好きです。温泉も好きです」

 こんどは相川守が小野寺真由のグラスにビールを注ぐ。

 小野寺真由はそれをぐっと飲み干した。ぷはあ、と一息つく。

「カニと温泉が好きなんですね。じゃあ、彼女とカニ旅行などに出かけたりするんでしょ?」

 相川守を見上げるように視線を送りながら質問する。

 手酌で自分のグラスにビールを注いでから、相川守は手のひらをひらひらとさせた。

「いやいや、そんなことはありません。こう見えても女性には縁がありませんので」

 そのままグラスのビールを飲み干した。

「え、そんなことないでしょう。じゃあ、今は、彼女募集中ですか?」

 相川守は笑った。

「小野寺さんみたいな優秀な人とおつきあいできれば、うれしいですねえ」

 小野寺真由はぐっと身を乗り出した。

「じゃ、じゃあ、今度、ランチでもご一緒しませんか」

 身を乗り出したついでに、相川守のグラスにビールをつぐ。

 相川守がグラスの中身に口をつけようとした瞬間、

 ——整髪剤の匂いがした。

「小野寺君、相川君、やっとるな」

 でっぷりと肥えたお腹を抱えた佐藤教授が、芋焼酎のボトルを持ってやってきた。

 どかり、と小野寺真由と相川守の間に座り込む。

「小野寺君、君にはいつもお世話になっとるな。まあ、一杯どうだ」

 佐藤教授はとくとくと小野寺真由のグラスに芋焼酎を注いだ。

「いただきます」

 小野寺真由がそれを飲み干す。

 佐藤教授がぽんぽんと相川守の肩を叩いた。

「相川君、君のところの水族館でフンボルトペンギンが盗まれとるそうじゃないか。俺はフンボルトペンギンが好きなんだ。フンボルトペンギンのためだったら、いくらでも金をだすぞ。ほんとだ。だから、是非、犯人を捕まえてくれ」

 佐藤教授が芋焼酎のボトルを傾けようとしたので、相川守は慌ててグラスの中身を飲み干した。

 とくとくと芋焼酎が相川守のグラスに注がれた。

「はい」

 飲み干した後、返礼として相川守は佐藤教授のグラスに焼酎を注ぐ。

「佐藤教授のご健康とご活躍を祈念しております」

「うむ」

 教授は満足そうに立ち上がり、またふらふらと別の席へ回っていった。

 入れ替わりに給仕係の女性がやってくる。

「お料理、おもちしました」

 カニ茶碗蒸しである。

 まだまだ豪華カニコースは続いていた。

 残りの料理として、カニや青唐辛子などの天麩羅(てんぷら)、カニ汁、ご飯とおつけ物、梅ゼリーがデザートに出て宴会はお開きとなった。





—五—


 宴会の後、多田健一と小林大樹の男性組と、小野寺真由と増川美保の女性組は大浴場へと向かった。お酒を飲んでのお風呂はあまりよろしくないが若気の至りである。

 特に女性組は宴会の後のお酒くさい身体でそのまま寝るのはどうにも我慢ができなかったし、寝る前の腹ごなしもしたかったのである。お腹一杯のまま寝ると太って体型維持に支障をきたすと考えていた。

 温泉は一階にあったが、女湯が一段高く眺めの良いところにあった。

 脱衣場は広々として鏡や洗面台は大きく、ナノイオンドライヤーや化粧水や乳液などのクレンジングセットも用意されていて、使い捨てのヘアブラシやシャワーキャップ、コットン、綿棒など女性が必要とする消耗品も充実していた。さらに、自動体外式除細動器(AED)やベビーベッドなどが備えられており設備も充実していた。また、全体的に掃除も行き届いており、衛生的な印象があった。

 小野寺真由と増川美保は脱衣所で浴衣を脱ぎ、洗い場で体を洗うと、早速露天風呂へと繰り出した。


 ——女湯の露天風呂

 この宿の売りの一つである、波の打ち寄せる海岸を望む野趣あふれる岩造り露天風呂である。

 源泉から湧き出る熱いお湯が岩肌を伝い、広々とした露天風呂へと注いでいる。小野寺真由は長い髪の毛をタオルで巻いて頭の上にまとめ、熱いお湯にどっぷりと浸かっている。頰が上気してほんのりと赤く染まっている。

「いい湯ね」

 隣には増川美保がいて、こちらも髪の毛をタオルで束ねている。

「カニが美味しかったです」

 ふにふにとしたほっぺたが膨らむ。ほう、と美保が息をついた。

「カニに教授もご機嫌でしたね」

「教授はいつもあんな感じよ」

「今日は、水族館の人たちも来ていたんですね。びっくりです。相川守館長ってやっぱり格好いいですね」

 小野寺真由の手が動いて、お湯がぱしゃりと音を立てた。

「小野寺さんと年も近いそうですね。独身みたいですし」

 美保がにこりと小野寺真由助教に笑いかける。

「そ、そうね」

 小野寺真由は空を見た。

 露天風呂には屋根がなく、空の星が見えていた。

 ただ温泉のお湯が流れる音だけが聞こえていた。




 ——ちょうどその頃の男湯の露天風呂

 男湯の露天風呂の湯の中で、女湯の露天風呂の方向に向かって前進する一人と一匹がいた。

 多田健一と健一に抱えられたフンボルトペンギンこと小林大樹である。

 男の露天風呂の湯は女の露天風呂から見て、ちょうど人工的な崖下にある。

 そして健一と大樹は湯の中でちょうど崖下にあたる場所まで前進してきていた。

「しかし、どうしてここだけこんなに深い温泉になっているんだろう。足をついて首がやっと出るくらいだ」

 湯は入り口から崖下に向かってどんどん深くなっている構造になっていた。入り口付近は座って首が出るくらいの浅さだったが、崖下の部分は人間が飛び込んでも大丈夫なくらい深かったのだ。

 健一は大樹を頭の上で保持し、崖に向き合った。

「覗きは男のロマンだ。お前もつき合え」

『そんなことはやめるペン』

 フンボルトペンギンこと大樹は、フリッパー(翼)をジタバタとさせて抵抗している。

 しかし、器用にも左手で大樹を持ちながら、右手と両足を使って健一は崖を登り始めた。

「俺はこう見えてもクライミングの上級者だ。これぐらいの人工的な岩壁など問題ない」

 ずんずんと健一は登っていく。

「よし、あと一メートル」

 あと一息で女湯の柵に手がかかりそうであった。

 ピピ、と電子音がした。

『センサに反応あり。覗きと判定します。覗き見防止システムが作動します』

「ぬおっ」

 がくん、と健一の捕まっている岩肌が動き出した。

 岩肌の一部が壁から独立し、傾斜が増加し始めた。

 持ち前の握力を使って競り出した岩に健一がしがみつく。

「ぬぬぬ。俺は諦めん」

 しかしそれまでだった。上から温水が流れ出し、摩擦係数が急激に低下し始め、健一は握力による保持の限界を感じた。

「もはや俺はこれまでだ。お前だけでも行ってこい」

 健一は左手に持っていた大樹を女湯に向かって力一杯投げた。

 作用反作用の法則に従って、大樹の体は女の露天風呂に向かう軌道を描き、健一の体は男の露天風呂に向かう軌道を描いた。

 湯柱が二つ立った。

 一つは男湯の露天風呂で、もう一つは女湯の露天風呂だった。





 ——女湯の露天風呂

 小林大樹は自分の体が熱いお湯に飛び込んだのを感じた。

 必死でフリッパー(翼)を動かした。体はフンボルトペンギンである。水中姿勢の回復は早かった。そして綺麗な曲線を描き風呂の底にぶつかる直前に急転回で湯上にでた。息を吸う。目を開ける。

 目の前に、増川美保がいた。そして見た。

 美保のほんのりと上気した肌色の視覚情報は、青年期の発達課題を抱えた小林大樹の脳細胞の処理能力を越えるのに十分な情報量を有していた。血流の大規模な増加はいとも簡単に小さな頭を極限状態に追いやった。

 小林大気は気絶した。

 ぷかりと大樹の身体はお湯に浮かんだ。

「きゃーっ」

 かわいい悲鳴が女湯の露天風呂であがった。

 何が飛んできたのかわからずに、美保と小野寺真由はタオルで胸を隠して、湯船から飛び出した。少し離れて様子を伺う。

「あれは、ペンギンね。しかもフンボルトペンギンだわ。小林君ね」

 小野寺真由は冷静に判断する。

 大樹はぷかりと浮かんだまま動かない。

「大丈夫かしら」

 小野寺真由はじりじりと湯船に近づき、そしてしゃがみこんだ。

 湯船にぷかぷかと浮かぶ大樹のお腹を、つんつんとつつく。

 首筋をさわさわとさわる。

 美保の方を振り返る。

「脈はあるし、呼吸もしているわ。とりあえず目隠しときましょう」

 美保はこくこくと頷いた。

 小野寺真由は自分の頭に巻いていたタオルを解くと、大樹の目に巻いて目隠しした。

 二人で大樹をそのまま脱衣所のベビーベッドに運んで寝かせる。

「小林くん、大丈夫かな。AEDとかしないでいいんですか」

 美保が心配そうな声を出す。

「そんなことしたら本当に死んじゃうわよ。大丈夫、単に気を失っているだけよ。目を覚ます前に着替えちゃいましょ」



 浴衣を着た二人はフンボルトペンギンこと小林大樹を女子部屋に運んだ。

 座布団の上に寝かせ、お腹にはバスタオルをかけている。

「きっと、多田君が関係しているわ。ちょっと説教しに行ってくる」

 そう行って小野寺真由助教は出て行った。

 目を閉じている大樹の横には増川美保が残された。

 ゆっくりと大樹のお腹が上下している。

「小林くん」

 美保がつぶやく。

「不思議だね。この小さな身体に小林くんの心が入っているなんて。まあ、小林くんはもともと小さかったけどね。小林くんは小さくてもいろいろ知っていて賢い人なんだけど」

 美保の手が大樹のお腹に伸びる。

 そしてやさしく撫で、そしてお腹の上に手を置いた。

 しばらく美保はそうしていた。



 ノックの音が聞こえた。

 増川美保は立ち上がると入り口の扉を開けた。

 多田健一だった。健一は入り口で両手を合わせて美保に頭を下げた。

「すまん。俺が、女湯に大樹を投げ込んだんだ。許してくれ」

「許してくれって、それを言うなら小林くんに謝って」

 美保に引きずられるようにして、健一が大樹の脇に連れられてきた。

 二人はしゃがみこんで大樹を見守った。

 大樹の身体が動いた。

 眼が開いた。

『ペ、ペン?』

 むくりと起き上がる。

「よかった」

 美保がほっとした表情を浮かべる。

「すまん」

 健一は深く頭を下げた。





 ——翌日の朝食会場にて

 美保と大樹は隣り合って座っていた。フンボルトペンギン一匹だけではご飯が食べられないということもあって、美保がしきりに大樹の口にご飯をつっこんでいる。

 一方で、小野寺真由助教と相川守館長も隣り合って座って、にこやかに談笑している。時折、相川守がペンギンジョークを言い、小野寺真由がそれを聞いて笑っている。普段にはあり得ない光景だった。

 多田健一は首をひねっている。

「あれ? 美保ちゃんと大樹ってあんなに仲良かったっけ? それに相川守館長と小野寺さんも仲良くなってるし」

「ふむ。俺が合宿に資金協力したおかげだな」

 佐藤教授は満足げにうんうんと頷いた。

「うふふふふ」

 園田町子は不気味な笑いを口元に浮かべた。





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