フンボルトペンギンはピコブラックホールから取り出せるか

園田光之助

本編

第1話 フンボルトペンギンのお泊まり

 我が輩はペンギンである。

 大学三年の小林大樹は、そんな状態になる日が来るとは夢にも思っていなかった。


 ——数時間前。午前四時。徹夜実験開けである。二月の朝はまだ寒い。

 東北東大学工学部、応用物理学科、亜空間技術研究所、佐藤研究室、コンクリート打ちっ放しの地下実験場でピコブラックホール(PB)への生体投入実験が行われていた。広さ二十五平方メートルの空間に所狭しと測定機器が並べられ、その間を通信ケーブルとエネルギー交換ケーブルが這っていた。中央に直径一メートルほどの金属製のステージが置かれており、上部には天蓋のような形状の金属構造が設けられていた。

 金属ステージの上には小ぶりのカタクチイワシが置かれており、まだピチピチと尾を動かしている。隣にある海洋研究所からもらってきた生きのいいイワシだ。この実験が成功して生きたカタクチイワシをPBへ投入して取り出すことができれば、世界初のPBへの生体投入実験成功となる。

「小林君」

 中央にある制御卓に座りパラメータの微調整を行っていた助教の小野寺真由(おのでらまゆ)が声を発した。長い黒髪をポニーテールにして藍色のリボンでまとめており、薄水色をした実験用作業着に流れるようにして長い黒髪が伸びている。細い眼鏡をかけた小野寺真由の視線の先は小林大樹に向けられている。

「小林君、エネルギー供給に問題は無い?」

 学部三年で研究室に配属されたばかりの小林大樹が返事をする。

「はい」

 寝不足の裸眼の眼をこすりながら大樹は電源系を確認した。高圧コイルとコンデンサが絡み合い、液体窒素の循環ポンプが稼働音を静かに響かせる電源系の各種特性値は正常範囲を示していた。

「至って正常です。小野寺さんが実験が大好きでこの前デートの予定をすっぽかしてしまったくらい正常です」

 頭がはっきり働いていないので、研究室の先輩に聞いた与太話が口に出てしまった。

 小野寺真由の眉間にしわが寄る。

「小林君、それが今の実験と何の関係があるのだね。『はい』とだけ言って、わたしの指示のままに操作するだけでよろしい」

「はい」

「よろしい」

 小野寺真由は満足げにうなずいた。

「では実験を開始する」

「はい」

「そこの、電源系Aの系統を開く」

 小林大樹がスイッチを入れた。

「はい」

「制御系をアクティブに」

「はい」

「超電磁導メタマテリアル流体の流動ポンプの状態をデルタマイナスからデルタプラスに」

「はい」

 エネルギーインジケータが跳ね上がる。

「注意しておくが、そこの黄色い斜線に囲われた赤いボタンを押してはいけないからな。エネルギーの逆流が起こる」

「はい」

 そう言った瞬間、黒い物体がステージの上に跳び上がるのを大樹は見た。

 人間の膝上の高さくらいの身長の鳥類で、タキシードを着たように見える黒い背中と黒い翼(フリッパー)があった。喉は黒くて顎先は白く、いったん黒い縞があってから、白くまん丸と膨らんで柔らかそうなお腹があった。くちばしの付け根の一部からつぶらな瞳の周りまでピンク色の皮膚が露出していた。

 それは紛れもないフンボルトペンギンだった。海洋研究所から逃げ出したに違いない。

 フンボルトペンギンは、ステージの上のカタクチイワシをぱくりと食べて飲み込んだ。

「こらっ」

 反射的に大樹はフンボルトペンギンを取り押さえた。

 フンボルトペンギンの足がジタバタと動いて、ステージ上の赤いボタンを、ぽん、と押した。

 かちりという音がして、スイッチが入る。

 電源系から突入したエネルギーは高圧系から制御系の指令に従ってステージに流れ込み、装置近傍に存在していた生体である小林大樹とフンボルトペンギンを巻き込みつつ生体の変換処理を開始した。

 爆発。轟音。立ち上る水蒸気。

 一瞬の間があって水蒸気が大気に溶け込み小野寺真由の視界が回復する。

 破壊された実験装置の中央に銀色のステージがあり、ステージの上には一つの生体だけが残された。

 倒れた椅子から小野寺真由が起きあがる。

 服の埃をかるく払って、眼鏡をかけ直す。

 ステージの上のフンボルトペンギンが首を傾げる。

 不思議と小野寺真由には直感があった。

「君は、小林君か?」

 フンボルトペンギンは頷いた。





第一話 フンボルトペンギンのお泊まり


 —一—

 東北東大学工学部、応用物理学科、亜空間技術研究所、佐藤研究室、二月第一週の定例研究会の時間である。佐藤教授が正面の机を陣取り、その隣に学生が座らされて教授に虐められる恐怖の時間であるが、今日の研究会はすこし様子が違っていた。

 正面の佐藤教授はいつもと同じだ。でっぷりと超えたお腹がスーツの上からもはっきりわかる。頭は規則正しいバーコードを形成し、どこからともなく整髪材の独特の匂いがたちこめていた。

 しかし学生の座るべき席には人影はなく、教授の隣の机の上にはフンボルトペンギンが立っていた。

「こ、こいつは?」

 思わず声を発したのは修士一年の多田健一である。健一の学部卒業研究により、超電磁導メタマテリアルを利用した重力場制御により特定の条件化でピコブラックホール(PB)における事象の地平線が可変となり、生体が生きたままPBに閉じ込められうることが理論的に明らかになった。

「スフェニスクス・フンボルディ。鳥類ペンギン目ペンギン科フンボルトペンギン属フンボルトペンギン。ペルーからチリにかけて南米大陸西岸で繁殖する温帯ペンギン。かわいい」

 詳しい解説をしたのは大学三年の増川美保だ。ペンギン好きで知られている。

 くりくりとした瞳をきらきらとさせて感動している様子だった。

 増川美保は教授の隣にいる小野寺真由助教に視線を向ける。

「小野寺さん、カタクチイワシはやめにして、フンボルトペンギンを閉じ込めて取り出したんですね。じゃあ、実験は成功したんですね? あれ、でも、一緒に実験していた小林君はどこ?」

「増川さん、実験は失敗したのよ」

 小野寺真由は神妙な顔をする。

「彼は」

 ペンギンを指さす。

「小林君よ」

「うそっ」

 増川美保は驚いた。

「ふむ」

 佐藤教授は鷹揚に頷いた。

「このフンボルトペンギンが小林君という事態はあり得る話かもしれん。フンボルトペンギンのくちばしの付け根にあるピンク色の皮膚の裸出部が繁殖期には鮮やかになるという話くらい、あり得る話だ」

「ムゥオーウ」

 小林大樹はフリップのような羽をばたばたとさせ、声の高い牛のような奇声をあげて、机の上で自己主張した。

「この通り、フンボルトペンギンの声が実は可愛らしい声ではなくて牛の悲鳴のような声であるというくらい、あり得る話だ。その証拠に小野寺君がまとめてくれた実験データを確認すると、このフンボルトペンギンは通常のフンボルトペンギンよりも情報量が多く、その情報量は小林君に一致する。さらにエネルギー移動の経路を確認すると小林君の体のエネルギーはPBを介してこのフンボルトペンギンに移動した痕跡が見られるのだ」

「ムゥオ、ムゥオーウ」

 騒ぐフンボルトペンギンこと小林大樹に小野寺真由はやや疲れた顔で眼鏡をかけ直した。

「それでは、まあ、その件はそのくらいにして、研究会を開始しましょうか。本日の議題は『ピコブラックホール(PB)への生体投入実験結果について』で発表者は小林君の予定でしたが……」

 視線がフンボルトペンギンこと小林大樹に集中する。

「ふむ」

 佐藤教授はおもむろにスーツの前ボタンを外し、ワイシャツの上に巻いていた腹巻きに手を入れた。

 小野寺真由が顔をしかめる。

「教授、腹巻に道具をしまい込む癖を止めませんか? 教授の好感度がかなり下がります」

「いいじゃないか、小野寺君。私の趣味なんだ。じゃあん」

 胴巻きから取り出されたのは、見たところ普通の蝶ネクタイである。

「ペンリンガル—。この道具をペンギンの首にかけると、ペンギンが言いたいことを人間の言葉に翻訳してくれるんだ。隣の海洋研究所の同期に頼まれて私が趣味で作ったのだ。どれどれ」

 佐藤教授は机の上のフンボルトペンギンこと小林大樹の小さな首に蝶ネクタイをかけた。蝶ネクタイはぴったりと小林大樹の首に合った。

「さあ、何かしゃべりなさい」

 くちばしを開いて声を発した瞬間に、逆位相で「ムゥオーウ」という声は打ち消され、日本語の音声が重畳された。

『ぼくは小林大樹だペン』

 何とも愛らしい声である。

「あ、本当だ。日本語になっているよ。でも声が高めで子供の声みたい。しかも末尾に『ペン』なんて安直な語尾をつけるなんて」

 増川美保の素直な感想である。

 小野寺真由はパッド型携帯端末を操作して議事録を書き始めながら答える。

「まあ、これはこれで良いのでは。ペンギンが太い叔父様のような声をだしていて『我が輩はペンギンである』なんて言っていたら違和感がありますので。ねえ先生」

「それはペンギンに対する偏見と言うものだ。別にペンギンが低くて太いおじさんみたいな声を出してもなんの問題もない」

「あえて、このような愛らしい声に設定した先生に言われたくはありません」

 こほん、と佐藤教授が咳払いしてフンボルトペンギンこと小林大樹に向き直る。

「そもそも君が作動中の実験装置に手を出したのが原因というじゃないか小林君、どうなんだ、その所は」

『ペ、ペン』

 小林大樹は返す言葉がない。

「実験装置の動作手順について事前に確認しておくとか、禁止事項は無いかとか、そういった基本的な事は学部一年の時にやったはずじゃないのか。そうだよ。小野寺君、君の指導が足りなかったんじゃないか」

 佐藤教授の顔が小野寺真由助教に向く。

「え、ええ、まあ」

 小野寺真由助教は操作していた携帯端末のパッドから左手を離し、その左手で眼鏡をかけ直した。天井の面発光照明の光が眼鏡の表面で反射する。

「私の指導の至らなかった点はご指摘の通りです。しかし、実験の失敗でこのような事になるとは想定外の事態でした。通常の失敗例ですと単にエネルギーの焦点が合わずにフェイルセーフで停止するはずでした」

「ふむ」

 佐藤教授が腕を組んだ。

「PB(ピコブラックホール)において質量保存則と情報量保存則が成り立つことや、それを利用した情報転写技術は確立されている。しかし生体において情報の転写に成功した例は今まで報告されていないな。ましてや意識を転送するなど聞いたこともない。これを系統立てて研究すれば一つの論文になりそうだ。それまでは小林君はこのままだな。何しろ元に戻す理論が無い」

 理論が無い。

 衝撃の事実が明らかになった。

『じゃ、じゃあ、元の体に戻らないペン?』

 小野寺真由は頷いた。

「そうね。しばらく、一人暮らしは無理だから誰かが世話をする必要がありそうね」

 小野寺真由は増川美保を見た。

「あ、あの、あたし……」

 増川美保が戸惑っていると、隣にいた修士一年の多田健一が手を挙げた。

「おし、じゃあ、俺の家に来いよ。男二人、なんの気兼ねもなく夜の会話をしようではないか。はっはっは」

 そういういうわけで小林大樹は多田健一の家にお世話になることになった。





 —二—


 海の近くにある大学から多田健一の家までは車で十五分くらいかかる。彼の車には運転する彼自身のほかに、助手席へフンボルトペンギンこと小林大樹の入った段ボール箱が置かれてシートベルトで固定された。

「おーし、発進するぞ」

 健一がアクセルを踏み込んだ瞬間に加速度が生じ、慣性力が大樹の身体を後方に押しやった。

 ごん、と段ボールに大樹の身体がぶつかる。

「ギャース」

 大樹がフリップをばたばたとして悲鳴を上げた。

『痛いペン』

 悲痛そうな声だ。

「すぐに着くから我慢しろ。まあ、大船に乗ったつもりで構えてろ。こう見えても自動車ラリーで運転したことがあるからな。はっはっは」

 車は速度を上げ、右に左に曲がりながら街を抜けてゆく。そのたびに小さなフンボルトペンギンの身体は段ボール箱に衝突する。

 窓の外の景色が流れる。街と十字山の境界にある陸橋が近づいてくる。長さ百メートルほどの広瀬橋は市街を流れる一級河川を渡るためのもので、この橋を境に街と郊外に分かれている。

 道は登りに変わり、車の速度もやや落ち着いてきたために段ボールの中で大樹が壁にぶつかる頻度も低下してきた。フリッパーを突っ張って、必死に衝突しないように防御していた大樹の身体もやっと安定感が回復してきた。ふと大樹が顔を上げると段ボール箱の縁の先にある窓から十字山バニーランドの観覧車が見えた。もうすぐ到着することがわかって、大樹はほっと一息ついた。

 十字山の奥にある住宅地、やや市街からはずれたところにあるために賃貸の家賃が低く、近くにバニーランドがあってデートに利用できることから学生たちに人気がある。その一角に多田健一の男子専用下宿はあった。

 車がバックして駐車場に入る。

 多田健一は大樹を、ひょい、と左手で抱いて右手で車をロックすると一階にある自分の部屋の扉を開けた。

 1LDKの部屋には暖色系をしたパッチワークの敷布が敷いてあり、一つの背が低い木製テーブルの回りに柔らかそうなクッションが二つおいてある。男の部屋にしてはやや整った感じ、というのが大樹の第一印象だった。



 夜も更けた。

 男二人が屋根の下、やることは決まっている。

 テーブルの上には芋焼酎のボトルとガラスのコップが二つ、真ん中には白磁の大きな皿があり柿ピーナッツとポテトチップと、小ぶりのカタクチイワシが生のまま盛られてある。ガラスのコップには芋焼酎が既に注がれてあり、一つにはフンボルトペンギンこと小林大樹のためにストローが挿してある。

 大樹は嘴をストローにつけて中身を飲んだ。

「お、いけるか」

『ペン』

 フンボルトペンギンの体重は成人男性の十五分の一ほどであり、その分アルコールの回りはかなり早い。一口の芋焼酎はあっという間に大樹の身体に拡散した。身体の奥がぽかぽかとして、頭がふらつき始める。

『なんだか変な感じペン』

 多田健一のほうは、調子の良いペースで芋焼酎を消費している。健一は一旦コップを机に置くと、柿ピーナッツを口に入れた。

「お前、語尾にペンペンつけんとだめなのか」

『ペンリンガルの仕様なのだと思うペン』

「ぺんぺん草と言ってみろ」

『ぺんぺん草ペン』

「ペン」

『ペンペン』

「ペンペン」

『ペンペンペン』

「三味線みたいだな。そういえばこんな都々逸(どどいつ)があった」

 多田健一は節を付けて唄う。 


 〜〜

「人の恋路の

 邪魔する奴は

 猫に殴られ

 猫パンチ

 〜〜

 

 多田健一はどうだ、と視線を大樹に送る。

『違和感があるペン』

 根本的に何かが間違っていた。

「時にお前、好きな娘(こ)いるか?」

『唐突ペン』

 好きな娘と言われて大樹は戸惑った。

 好きという感情がどういうものかよくわからなかった。

『好きかどうかわからないペン』

「ああ、お前の同期の美保ちゃんも可愛いなあ」

 健一は人差し指で大樹のお腹をつつく。

「美保ちゃんはペンギンが好きらしいぞ」

『ペン?』

「お前に限った話じゃないけどな」

『ペン』

 大樹はうなだれた。




 ——小林大樹の記憶——

 増川美保を意識し始めたのは、研究室見学会の時だった。

 配属希望調書を提出する前に、数人のグループを作って応用物理学科の全ての研究室を回って説明を受ける。それが研究室見学会だ。

 同じグループに増川美保がいた。

「あ、小林君だ」

「知っているの?」

「だって、小林君、いつも最前列に座っているから」

 美保に見つめられる。

 その瞳はつぶらで澄んだ瞳だった。

 その瞳に心が吸い込まれるような錯覚を覚えた。

「ねえ、小林君はいつも一番前に座ってるよね? やっぱり講義に集中するためなの?」

「それは誤解だ」

 両手をふるふると振って否定した。 

「実は眼があんまり良くなくてね。前の方がよく見えるんだ」

「眼鏡かけてないね」

「眼鏡がかっこわるいと思って」

「そうなんだ。てっきりいわゆる意志高い系かと思っていたよ」

 美保の頬がゆるんだ。

 その笑顔が忘れられなかった。



——




 翌日も平日なので、多田健一の家における夜の宴会は早めにお開きになった。

「ま、四畳半の狭い寝室だが床のクッションに毛布に丸まれば、フンボルトペンギンには十分な広さだろ」

 身長が人間の半分以下の大樹には、体感で十六畳以上の広さがある。まるで、大広間にいるかのような感覚である。反射的に狭いところを探したくなるのは当然だった。

『ベッドの下でいいペン』

 ひょこひょこと歩いて移動する。

「あー、ベッドの下は無理」

 ベッドの下には雑誌が積み重ねられていた。

『ペン?』

 くちばしでその雑誌を一冊取り出した。

 ばさっとページが広がる。

 部屋の照明の元で明らかにされたそれは、麗しい乙女が水着を身につけた写真がたくさんある雑誌だった。どことなくその乙女の雰囲気は増川美保に似ていた。そう思うと気恥ずかしいような妙な心持ちが大樹の心に生じ、ひどく照れくさくて眼を何回もぱちぱちとさせた。

 大樹は写真から眼を離すことができなかった。

「お、見つけたな。やっぱり、女の子に興味があるんだな。お前、勉強で頭がカチカチ山かと思っていたから。安心したよ」

 健一がベッドの上から見下ろすようにして大樹に声をかけた。

 あわてて大樹は写真集をベッドの下に押しやる。

『べ、別に興味ないペン』

「そうか、お前にはそれよりこっちがいいんじゃないか」

 健一が広げて見せた写真集は『Love ペンギン 大海泰造』と表紙に書いてある写真集で南極大陸のペンギンを多数撮影したものだった。

「時にこの写真に興奮しないか? この説明によると絶世の美女ペンギンらしいぞ」

『誰が悲しくてペンギンに興奮するペン? 百歩譲ってもそれはエンペラーペンギンであって、フンボルトペンギンではないペン。チンパンジーとゴリラくらい違うペン』

「ふむ、じゃあ、やっぱり人間の女の子が好きなんだな」

『当たり前ペン』

 大樹はこくこくと頷いた。

「よろしい。お前も俺も男で同士だな」

 健一が、にやりと笑う。

『ひょっとして、はめられたペン?』

 健一に「女の子が好き」と告白してしまったことに大樹は気づいた。

「お前に女の子にもてる方法を色々と教えてやるよ。まずは、清潔感が重要だぞ。はっきり言って、今のお前は獣くさいな。もう少し体を洗った方がいい。例えば石鹸つけてたわしでゴシゴシするとかな」

『たわしはひどいペン』

「それから、男は決断力の良さがポイントだ。例えば、このアパートのお風呂は共同浴場だが、すぐに冷めてしまう欠点があった。そこで俺は共同浴場を二十四時間風呂の改造したのだ。というわけで風呂に行こうぜ」



 十畳ほどの浴室に三畳ほどの風呂桶があった。アパートの共同浴室である。もともと、とある会社の独身寮だったところを改造して下宿にしているので共同浴室という形態をとっている。

 大樹にとって湯船は大浴場のように広くプールのように深かった。健一の膝の上に立って湯船の上に顔を出しており、健一の腕が大樹の腹をおさえている。

『いい湯だペン。どうやって改造したペン?』

「反物質を用いたマイクロリアクタをとある所から入手して取り付けたのだ」

 大樹は目をしぱしぱとさせた。

 反物質リアクタは小型で高出力という特徴を持つが、その不安定性故に実用化は困難と言われていた。実用化レベルまで至っておらず未だに大学の研究レベルの代物である。最悪の場合には付近一帯を巻き込んで爆発する恐れがある。

『決断力の良さを超えて無謀だペン。今すぐ風呂を出るペン』

 風呂桶から飛び出して、逃げようとする大樹を後ろから健一が両手でがしっと押さえた。ばたばたと動かしたフリッパーでお湯のしぶきが飛ぶ。

「いや、まて、これでもこの風呂は結構感謝されているぞ。男子専用の下宿で帰ってくる時間もまちまちで共同浴室だから風呂の温度が冷めて冷めて」

『爆発しないか心配だペン』

「大丈夫大丈夫。フェイルセーフで止まるはずだ」

『フェイルセーフには一度だまされているペン』

「よし、そんなに出たいのなら風呂から出してやろう」

 健一は大樹を持ち上げた。

「たわしゴシゴシでお前の磨いて清潔感を出してやろう」

 大樹の体の表面を冷や汗が伝う。

 その日、大樹はたわしという拷問道具を知った。





 —三—


 ——翌日、研究室の前

 多田健一はフンボルトペンギンこと小林大樹を左手に抱いて、右手で頭をしきりに掻いている。

「いやー、悪い悪い。友達とスキーのジャンプ旅行に出かける事になってたなんて忘れてたよ。大学も受験シーズンで講義無いし教授も試験監督で忙しいし、ゼミも再来週まで無いし、研究も暗礁に乗り上げているし、絶好のチャンスと思って予約入れてたのがすっかり忘却の彼方だったよ」

 多田健一は小林大樹を両手で抱き直し、くるりと回転させて増川美保の方に顔を向けさせた。

「というわけで」

 ぽん、健一は大樹を美保に手渡した。

『え?』

「こいつの面倒よろしくね。一日だけ」

 そう言って健一は脱兎のごとく駆け出して研究室から去っていき、その場に大樹を手に抱いた美保が残された。

『ペン』

 大樹は美保の目を見た。

 目が合う。

「まあ、一日だけなら仕方ないよね」

 美保は笑った。

 大樹の覚えている笑顔だった。



 増川美保の家は大学の近くにある。

 自転車の荷台に小林大樹と荷物の入った段ボールをくくりつけて美保は帰宅した。

 駐輪場に自転車を停め、ダンボールからフンボルトペンギンの大樹を抱きあげ部屋に向かう。

「ただいまー」

 右手でマンションの扉を開けながらも、左腕でしっかりフンボルトペンギンを大切に抱えている。

「じゃあ、ここで待っててね。外から小林君の荷物の段ボール箱を持ってくるから」

 ぽん、と小林大樹が置かれたのは美保のベッドの上だった。桃色のパステルカラーを基調としたベッドの上には薄水色のマカロン型のクッションがおかれており、そしてちょうど今の小林大樹と同じ大きさのキングペンギンのクッションも鎮座していた。

 増川美保が外に置いてあった段ボール箱を部屋の中に持ってきた。 

『増川さんは、ぼくがいていいペン?』

 心配そうに大樹が質問する。

「だって、多田健一先輩の頼みだし、しかたがないし、一日だけだし。それに、今の小林君はフンボルトペンギンだし、ぜんぜん問題ないよ」

 増川美保は小さな声で「ペンギン好きだし」と付け加えた。

『ありがとうペン。増川さんはいい人だペン』

「ねえ、ねえ、多田健一先輩の部屋ってどんな感じだった?」

『思ったより散らかってなかったペン』

「へえ、そうなんだ。なんか、面白いものあった?」

『そういえば、写真集を見せてもらったペン。「Love ペンギン」という写真集ペン。そこの段ボールの中にあるペン』





 ——増川美保の記憶——

 ペンギンにはまるきっかけは父だった。父は写真家で世界中に出かけてはいろいろな動物の写真を撮ることを仕事にしていた。

 いつのことだろうか、父がエンペラーペンギンを追いかけるようになったのは。覚えている限り昔の記憶は、小学生の時の母と父の会話だ。

「南極大陸に行くの、心配だわ」

「俺は今の南極大陸のペンギンの事実を世界に伝えたいんだ。人間が起こした環境破壊が南極のペンギンの生態を脅かしているという事実をこの眼で確かめ、写真という証拠で伝えるんだ」

 それから父は毎年のように南極大陸に出かけた。出かけた先から送られてくる父の電子メールには、南極のペンギンたちの写真が貼付されていた。それは、エンペラーペンギンの群を広角レンズでとらえた写真であったり、ペンギンが卵を暖めている写真だったり、生まれたばかりの雛を超望遠で狙った写真であったりした。

 しかし、ときには正視するに耐えない累々たるペンギンたちの死体の山の写真があった。そこにはこんな言葉がつけれていた。

「ペンギンたちは絶滅のおそれに瀕しています。その原因のひとつが人間の活動です。人間の経済活動による温暖化で氷河が崩壊してペンギンたちの活動する場所が失われています。また、人間の活動範囲が広がるにつれて営巣地が失われたり、人間が導入した捕食動物が卵やひなを食べてしまうことがあります。また、人間が持ち込んだ動物の伝染病で大量に死亡することがあります」

 父の写真の中のペンギンは、時に笑っているようで、時に泣いているようで、時に沈黙するペンギンだった。父の写真のペンギンはそこで生まれ、そこで暮らして、そこで死ぬペンギンの姿だった。

 そんなペンギンに興味を持ち、調べて写真を見るうちに、興味は好きという感情に変わった。

 ある程度写真がたまると父は『Love ペンギン 大海泰造』という題の写真集を出版した。父は婿養子として結婚した時に母の姓に名字を変えていたが写真家としての名前では旧姓を使っていたのだ。写真集を出版してからも、父は南極に出かけるのを止めなかった。ペンギンの写真を撮ることが父のライフワークになっていた。

 大学入学の年に、唐突に父からのメールが来なくなった。

 そして、父が行方不明になったことを知った。

 どうして、もっと、話をしなかったんだろう。父の写真を楽しみにしていたと、どうしてメールに返信しなかったんだろう。近くにいる時にはその大切さに気づかなかった。遠く離れてもまたすぐ帰ってくると思っていた。けれど、今、取り返しがつかないかもしれない時になって、初めて、その大切さに気づいた。

 会いたかった。

 甘えたかった。

 言いたかった。

 命を与えてくれてありがとうと言いたかった。

 でも、それは、もう叶わない願いかもしれないと、気づいた。

 ——




 増川美保は段ボール箱の中から写真集を取り出した。

 エンペラーペンギンは美保の記憶にあるとおり凛々しく美しく立っていた。

 そのエンペラーペンギンの向こうにいたであろう自分の父を美保は知っていた。

 美保の眼に涙が貯まる。

 大樹にはどうして美保が泣いているのかわからなかった。けれど、その写真集が美保にとって意味のあるものだということだけはわかった。

 美保は目尻を指で拭った。

「小林くん、一緒に、見よう」

 美保が『Love ペンギン 大海泰造』と書いてある表紙をめくった。

 くちばしを上げて求愛のポーズをとるエンペラーペンギンの姿があった。大切そうに卵を温めている親ペンギンの姿があった。極寒の海へ氷の隙間から飛び込む姿があった。寒風吹きすさぶ南極の大地で身を寄せ合う雛たちがいた。そして、死んで無残にも打ち捨てられたペンギンの身体があった。

 それはペンギンの一生だった。

「ねえ、小林くん」

 美保が言う。

「ちょっとだけ、抱かせて」

 大樹は頷いた。

 美保が大樹を抱き上げる。

 しばらくそのままでじっとしていた。美保の体は暖かく、ふわふわしていて、そして、少し震えていた。

「小林くんの身体、暖かい」

 美保が言う。

「生きているって、すごいね」

 美保が言う。

「心臓はずっと生きている間、休みなく鼓動している。実はそれはすごいことなんだ。どうして、忘れちゃうんだろうね。どうして、特別に生きなきゃいけないって思っちゃうんだろう」

 抱かれている大樹は美保の身体に密着しているので心臓のどきどきが止まらなかった。

「一日だけだから、ちょっとだけ、こうしていたい」

 そう、それは一日だけのはずだった。





 —四—


 ——翌日、研究室の前

 多田健一はフンボルトペンギンこと小林大樹を左手に抱いて、右手で頭をしきりに掻いている。

「いやー、悪い悪い。友達とスキーのジャンプ旅行に出かけているときに、アパートで俺が作った反物質マイクロリアクター利用の二十四時間風呂が爆発したなんて。大学も受験シーズンで講義無いけど教授が爆発しちゃってしばらく研究室にも来れないし、研究も暗礁に乗り上げているし、警察とか保険会社とか不動産仲介所とか大家さんとかにも説明しなきゃいけないし、絶望的な状態なんだよ」

 多田健一は小林大樹を両手で抱き直し、くるりと回転させて増川美保の方に顔を向けさせた。

「というわけで」

 ぽん、健一は大樹を美保に手渡した。

『え?』

「こいつの面倒よろしくね」

 そう言って健一は脱兎のごとく駆け出して研究室から去っていき、その場に大樹を手に抱いた美保が残された。

『ペン』

 大樹は美保の目を見た。

 目が合う。

 美保は恥ずかしそうに視線をずらした。

「べ、べつに昨日のことなんて気にしてないよ」

『よろしくお願いしますペン』

 そして大樹は美保の家にお世話になることになった。





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