第9話

 冷えついた空気の中を、一歩一歩歩いていく。この街に流れ着いて2ヶ月経つ私には、すべてが見慣れた風景。

 それなのに、ひどく心が浮ついてしまう。怯えているのではない、ただ単に興奮しているのだ。

「ついたぞ、目的地に」

 前を歩く編集長が背中を向けたままそう言い放ち、歩みを止める。一拍遅れて、私とスラーさんも。

「目的地・・・って、ここ公園じゃないですか?」

 そこは新聞社から40分ほど歩いた位置にある、山のふもとの大公園だった。大きめのグラウンドと幾つかの遊具を備えた、コックテールの街にある一番大きな公園だ。ちょうど夕暮れ時とあって、数人の子供が別れの挨拶を告げて散り散りに帰路についていくのが見えた。

「敵のアジトが公園って、そんなこと・・・」

「あるんだよ。つーか実際そうなんだからしょうがねえだろ」


 そういうと、編集長はつかつかと公園の名所、展望棚へと歩き出した。そこは山から都市部へと突き出した崖の先端であり、柵はあるものの、誤って落ちれば真下に広がる林の中に真っ逆さまという危険性のある場所だった。それでも完全に封鎖されないのは、そこから見えるコックテールの夜景があまりに美しすぎるせいだろう。

 そんな行き止まりの場所に、なぜ向かっているのか。


 ちょっと、と言おうと口を開いたところで、後ろにいたスラーさんに肩を軽く叩かれた。

「ちょっと待ってね、私の準備が終わるまで」

 見ると、彼女は長袖の上着を脱ぎ捨て、袖なしの戦闘服のようなものに着替えていた。肩の後ろからは夕日の中でも艶々と輝く黒紫の翼が、同じ色の長い髪と混じって神々しく広がっていた。

 肩から斜めかけていた鞄から、一対の武具のようなものを取り出す。小手のような形で、側面からこれまた黒い羽が一列にびっしりと付いている。

 スラーさんは慣れた手つきで、右手の肩から肘の部分にそれをはめ、二本のベルトで固定した。

「それって・・・」

「飛行用補助具。それも高速飛行用。ほら、なんとなくわかるでしょ?」

 左手にも同様に装着していくスラーさんの言葉に、私は静かに頷いた。

 彼女は背中に翼を持っているが、それだけではなく、両腕のひじから先にも一回り小さな翼を持っていた。補助具をつけることで、彼女の腕全体に、外側に広がるひとつながりの翼が完成するのだ。

「まあこっちは方向の微調整ぐらいにしか使わないんだけどね。さ、じゃあ行こうか」

「行こうって、あれ?そういや編集長は・・・」


 そう言って、展望棚に目を向けた時、


 編集長の体は柵の外へと放り出されていた。



「ええええええぇぇぇぇぇ!!」

 スーツをはためかせた後ろ姿は赤い空に浮かび、そのまま崖の下に消える。

 あまりの衝撃に頭が真っ白になりながら、崖の下から聞こえる様々な物音が鼓膜を揺らすのを感じた。それが何の音なのかの理解ができないままに。

 惚ける私の目の前に、スラーさんのにこやかな顔が現れる。

「じゃあ、私たちも行こうか。しっかりつかまっててね? 命綱なんてないんだから」

「はい、それって・・・」

 返答を待たず、左手で私を抱き寄せるスラーさん・・・やばいやつだろこれ。


 黒い翼が羽ばたき始める。腰のあたりに添えられた手が、私の体を持ち上げようと上へ引っ張っていく。

「ほら、しっかり。首に手を回して!」

「は、はい!」

 こうなりゃやけくそだ!

 私は右手をスラーさんの肩の上から背中へと回し、腰に回した左手にも力を込めて彼女に体重を預けた。


 同時に、地面から足が離れ浮遊感が意識を再び真っ白に染めた。

 ぐんぐんと高度が上がっていくにつれ、私の肉体と脳味噌の両方が恐怖を訴え始める。ジャングルジムを上から見下ろす形になり、私の両手足は、いつの間にか華奢なスラーさんの体に必死にしがみ付いていた。

「偉い偉い、こんだけ力が入っていれば、ちょっと急いでも大丈夫そうね」

「ふ・・・普通でお願いしますっ!」

「静かに。どんなに怖くても悲鳴はあげないこと。いい?」

「こ、怖くしないでくださいよおおおおぉぉ!?」


 会話の途中で、急激な感覚の揺れが全てを振り切った。


 紅い空と地面が交互に入り乱れ、気づくと林の中へ墜落するように崖の下へと向かっていった。

「・・・うっ、げぼっ・・・」

 向きの安定しない重力が三半規管を狂わせ、吐き気で言葉にならない息が漏れる。

 一気に旋回すると、今度は地面を見るような体勢で空中を滑空する。スラーさんの背中が地面の方を向く形だ。

「上!」

 彼女の言うがまま、視線を上に持ち上げる。


 え、なんだこれ?


 おそらく展望棚の真下の崖なのだろう。その一部にぽっかり大きな洞穴が開いている。しかもその入口を舗装するように空中に足場が組まれている。

 そこには涼しい顔で佇む編集長と、金網の足場に倒れこむ二人の武装した男。


 おそらく敵のアジトはあの中。編集長さんは入り口の見張りを倒した。それが倒れてる二人。錯乱しきった頭で、それだけの結論をなんとか導く。


 ということは、私たちはあの穴の中に突入することになる。が、どんどん入り口は近づいてきているのに、スラーさんには一向にスピードを落とす気配がない。

 強行突破の四文字が頭に浮かび、血の気が消え失せる。


 まばたきをする間もなくあっという間に編集長を追い抜き、そのまま狭い闇の中へと突っ込んだ。


「ひ・・・ぎぃ・・・!?」

(ああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!)


 ジャイロ回転をしながら、手を伸ばせば壁にぶつかりそうなほど狭い通路を滑空する。あまりの速度に、スラーさんの首元に顔を埋める格好をとってしまう。

 視線が天井に向いたり床に向いたり、蛍光灯の光が目に突き刺さったかと思うと目の前が真っ暗になったり。

 許容量を超えた感覚に両手足の感覚が消え、それでも脳みそはスラーさんの体にしがみつけと必死に命令する。


 通路の先の方で何かが破裂するような音が鳴り響き、続けて人影が目の前に現れた。

「・・・!」

 衝突する寸前で相手が身を翻し、間一髪のところで事故を回避する。憎らしげな顔でこちらを睨んでくる男、その右手に握られている黒い金属。


 撃ってきた。

 男は拳銃で、私たちを何の躊躇いもなく撃ってきたのだった。

 私が覚悟する、その間もなく無残に殺されるところだったことが、遅れて私の体を強張らせる。飛行の恐怖とは別の、脳が凍てつくような戦慄。


「ふふ・・・」

 このタイミングで笑います!?

 今わかったことがある。私がしがみついているこの黒い翼の持ち主は、悪魔だということ。



 実際には20秒くらいだろうか、気が遠くなるような死のフライトは通路の途中で突然に終わりを告げた。

 前触れのないままに重力が帰還し、動きがゆっくりなるにつれいつもの感覚が舞い戻ってくる。

 私をゆっくりと下ろすと、スラーさんは私の頭をわしわしと撫でた。

「そこの物陰に隠れて、プレスタを待ってて。私は奥でもう一暴れしてくるから」

「え、ちょと」

 激しいめまいに、うまく言葉を紡げない。そんな風にオドオドしているうちに、スラーさんは再び空中に舞い、そして通路の奥へと消えていった。


 ひとりぼっちにされた私は、興奮と恐怖と頭痛でよく分からない状態のまま物陰を探した。薄暗い通路の中だが、一部分がへこんだように広くなっているのがすぐにわかった。さっき男とぶつかることなくすれ違えたのもこのくぼみのおかげだったのだろう。

「うう、気持ち悪い・・・」

 乗り物酔いによる熱を帯びた吐き気に苛まれ、背中を壁に預けて息を整える。


 そういや、カメラをつけてない。慌ててスラーさんと同じ型の肩掛けカバンを弄る。

 何気にこのポシェットは新聞記者っぽくて気にいっている、とかそんなことはどうでもよい。ベルトとカメラを引っ張り出し、事前に練習した通りに手に固定してみる。


 ・・・よし、途中で一度引っかかったが、うまくいった。自分で感じているよりは冷静でいるみたいだ。昔から度胸だけは一人前って言われてきたもんね、へっへーん。


 と、固定し終えたところで、編集長が目の前を駆け抜けていった。

「ちょっと、へんしゅーちょーさーん!」

 慌てて追いかけると、編集長は声に気付いたのかこちらを振り返った。

「はあはあ・・・頭がグラグラする」

「悪いが休憩時間は取れねーぞ、この先に・・・」


 声をかき消すように、通路の奥の方で怒号と銃声が止め処なく爆ぜる。鼓膜を震わせるだけで背筋を強張らせる轟音。


「スラーが引きつけてる間に急ぐぞ!話は走りながらだ!」

 そう言うが早いか編集長は私の手を取り、遠慮のかけらもなく全力疾走を始めた。


 ち、ちぎれる!

 女の子にすることじゃない!


 とか文句を言える状況ではなく、私にできることは必死にスピードを合わせて走ることと

「それで・・・ここはどこなんですか!?」

 不明瞭すぎる現状を理解し直すことだ。


「建前は山の上のダムの制御に使われるはずだった公共施設。現状は違法薬物の生産プラント」

「なんで、公共施設が、ドラッグ工場、なんかに?」

「国が黙認してるんだよ、このケミカルプラントを。もちろん政府は存在をひた隠しにしているがな」

「・・・」

 私は口を閉ざした。

 返す言葉がなかったのもあるが、純粋に全力で走ってる最中に喋る余裕がなかったから。

 それなのにこの男はさほど息を荒げずに淡々と語る。さっきの飛び降りからの見回りの撃破といい、化け物じみた体力だ。

 冷静に考えると、一番恐ろしいのは、目の前を走る編集長じゃないのか?


 そんな思考を知るはずもない編集長さんは、言葉を続けた。

「そして、ここに来た理由は一つ。ここに被疑者がいるからだ」

「プリム・・・が?」

「そうだ。お前の幼馴染だ」

「この先に、いるんですか?」

「そうだ、詳しい位置は知らねえけど」

「へ?」

 曲がり角に差し掛かる。右と左に向かって道が伸びていた。轟音が左側から漏れているので、スラーさんが向かったのはおそらく左側なのだろう。

 編集長は迷うことなく右の道を選んだ。腕を握られている私も同様に右へ。

 ちらっと見えた左側の通路の奥に、何やら大きな球体が見えた。化学物質の精製槽なのだろうか?


「ここから先はお前が頼りだ」

「な、何を・・・?」

「彼女の臭いを追いかける。それができればずいぶん捜索が楽になる。残念ながらこの建物の詳しい部屋割りなんかわかっちゃいない。が、被疑者の通ってきた道さえわかればあとはこっちのもんだろ?」


 臭いを・・・追いかける。

 確かに犬族は他の種族に比べ鼻が効くと、通俗的に言われている。が、そんな離れ業が自分にできるのか・・・?


 ふと前方に人影が浮かんだ。しかも三つ。騒ぎがあった部屋に駆けつけに来たのだろう。相手は腕に長い銃を抱えていた。

「目ぇつぶれ!」


 とっさに目蓋を下ろす、

 その暗闇が一瞬白く反転した。


 再び目を開けると、さっきまで走っていたはずの男たちは脱力しきって地面に倒れ込んでいた。

「閃光弾を使う。こっから先は目をつぶって嗅覚に集中しろ!」

「そんな、危ないですよ! 目を閉じたまま知らない場所を走るなんて」

「俺を信じろ!」


 その言葉に、心をぐっと掴まれる。

 不思議なもので、真面目な声に絶対的な信頼感を感じた。


 視界を放棄し、臭いに意識を集中させる。


 まず、飛び込んできたのは、暴力的な甘い匂いだった。


「ぐほっ、ゲホ、ごほっ!?」

「っ、大丈夫か?」

「へーきです・・・」


 薬物プラントの空気が澄んでいるはずもない。危険物質の甘い匂いは嗅覚を通して脳まで溶かしてしまいそうなほどに強烈だった。

 それでも、その後ろに隠れた匂いを嗅ごうとさらに意識を研ぎ澄ませる。


 目蓋の裏がチカチカと瞬く。知らない間に私の命が銃口に晒されているらしい。それでも、私は編集長を頼るほかなかった。


「そろそろ曲がり角に近づくぞ、どっちだ!?」

「・・・見つかりません」


 必死に匂いを辿ってはいる。が、長年慣れ親しんだプリムの匂いが見つからない。

 試しにスラーさんの匂いを辿ってみると、その位置がある程度把握できた。それなのに、この道を通ったはずの彼女の匂いが感じられない。


「あと20メートルだ!」


 見つからない

 見つからない

 見つからない

 見つからない

 見つからない!


「くそっ、右に曲がるぞ!」

 編集長がそう叫び、私の腰に手を回した時、私の鼻腔を何かの香りが掠めた。その何か、を把握し私は瞬間的に叫んだ「左です!」


 一度右に引っ張られたかと思うと、腰に回された手によってダンスのターンのようにぐるりと体を反転させられる。そのまま減速することなく駆け抜けた。

「次は!」

「まっすぐ・・・そこで左です!」


 何か、とは。果実と花弁を煮詰めたような芳香、香水のものだった。

 化学工場において芳香自体は珍しいものではないが、この独特の匂いは王都で何度か嗅いだことがあった。女性用の流行り物だ。

 しかも、この通路に染み付いた匂いは、まるで何かを塗りつぶすかのようなしつこい香りだ。そこにピンときた。プリム自身の匂いをかき消すためのものだと。


 急に腕を握る手に力がこもった。

「止まるぞ!」

 急停止をかけると、シートベルトのように、編集長の腕が体を支えてきた。

 目を開けると、そこには鉄の扉がそびえ立っていた。香水の匂いも一層強く感じられる。


「おそらくここに、います。プリムが」

「独房、みたいだな」


 編集長が扉に手をかけ力を込めると、扉は重い音を立てて開いた。


 檻の向こうの暗がりの中、彼女は右足を鎖に繋がれて座り込んでいた。

 茶色の長い髪に大人びた瞳。柔らかな曲線の身体とゆったりとした所作が、儚げな雰囲気を醸している。どこか眠たげな、紛れもない私の幼馴染だった。

「プリム!」

「リタ・・・?」

 驚いたように瞳が広がる。その仕草がまた彼女らしくて、思わず涙が浮かぶ。


「焦るなよ、今から鍵を外す」

 編集長は檻の扉にしゃがみ込むと、胸ポケットから万能ナイフを取り出しすぐに南京錠を外した。


「プリム、助けに来たよ!」

 感情のままに、思わず彼女に飛びついた。両手で抱きしめると彼女は怯えるように体を硬くした。

「ごめんね、時間かかって!もう大丈夫!プリムは人殺しなんかしてないって、私が証明する!」

「リタ・・・」

「だからね、一緒に帰ろ!」


 安堵のせいか、私のほおを涙が伝っていくのがわかった。香水の匂いで覆われてはいるが、さすがに抱きついていると彼女の匂いを感じられた。

 その温もりの、愛しいこと。言葉で言い表せないような感情で、視界が滲んでいく。


 プリムの手が、私の頭に乗せられた。そのまま髪を撫で始める。

「こっちこそ、ごめんね」

「プリムは悪くないよ・・・」

「そうじゃなくて」


 不意に、頭を撫でていた手が髪から離れ、私の顎をゆっくりと持ち上げた。

 意図がわからずに呆然とする私に、彼女はそっと顔を近づけ、唇を寄せてきた。


 キスされた、

 と感じた瞬間に、


 全身が甘い衝動に崩れた。


 心臟がのたうちまわるように不規則に暴れ、意識がぐらぐらと揺さぶられる。全身の筋肉が制御を失い、よだれを垂らしながら仰向けに倒れた。


「本当にごめんね、リタ」

 痺れと痙攣の中で何もわからずに目を見開いたままの私に、彼女は冷たく微笑んで告げる。


「貴女が救いたかった私なんて、もうどこにもいないの」

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