4-6.夜那博己

 いつの間にかわたしは真っ白なベッドに寝かされていたようで、慌てて身を起こす。夜那は背を向けたまま、窓の向こうの空を見上げている。

「昨夜はお楽しみでしたね」

「楽しんでないし。あの夢も夜那くんの仕業? ここはどこ? お兄ちゃんはどうなったの? 一体どこからどこまでが本当なの?」

 矢継ぎ早に質問をする。


 夜那は車椅子を百八十度回転させて、妖艶とした笑みを見せる。

「僕たちが認識するものは総じて虚構ですよ。呪術は人間の心の外側には顕在し得ないのですから」

 よく分からない。白いカーテンがぱたぱたとはためいて、初夏の風を届けていた。夜那の屋敷に来たとき、まるでドラキュラ城みたいな禍々しい洋館だと思った。でも、今わたしがいる部屋はドラキュラの面影もない。澄んだ空気で満ちた、聖域とも形容できる空間。

「この部屋が不思議ですか。単なる認識の変化によるものですよ。見方が変われば世界も変わる。呪術も突き詰めてしまえば、幽霊の正体見たり枯れ尾花ってところです。なのに人間は、自分の見る歪んだ景色を世界の真実だと思い込んでいる」

 夜那はよどみのない口調で話す。そして、指を壁の方へと向けた。


「お兄さんのところへ行ってあげてください。ここから先は、僕の領分ではないので」

 どうやら兄は隣の部屋にいるらしかった。わたしは頷いて、ベッドから抜け出す。

 制服を着たままだった。血で汚れていたはずなのに、制服には染みのひとつもついていない。バケモノとの死闘の記憶が、すべて夢だったのではないかと思われてくる。


「夜那くん」

 ドアノブに手をかける前に、振り返る。

「あの……、ありがとう」

 夜那はしかし、静かに首を横に振る。


「いえ、お礼を言うべきは僕の方です。夕緋さんが協力してくれたおかげで貴重なデータが得られました。今後の退魔活動に役立たせてもらいます」


「まさか最初から……」その目的でわたしに近づいたのだろうか、と口に出そうとする。

 彼は狂者を演じていただけで、そのじつ正義感溢れる退魔師なのではないか、と。自分のなかにあるヒーローへの憧れのようなものが、そう言わせようとした。

 夜那は手振りで、早く行くようにと合図する。

「本来、のような人間に関わってはいけない。呪術師にせよ除霊師にせよ、この界隈にろくな人間はいませんよ。夕緋さんは僕のことを忘れて、ふつうの世界に戻ってください」


 わたしは小さく笑って夜那に答える。

「忘れないよ。そうやって自虐するところ、お兄ちゃんにちょっと似てる。わたしは夜那くんのこと、何だかんだ言って好きだよ」


「ふふ、お兄さんに似ていると言われるのは複雑な心境ですが、僕も何だかんだ言って嬉しいです。真依さんとお会いできたことに感謝しましょう」

 夜那は照れ隠しをするみたいに、車椅子をくるりと回転させて背を向けてしまった。


 わたしはそんな彼に別れを告げて、ドアに手をかける。

 隣の部屋からは、ゾウがすすり泣くような不気味な声が聞こえている。


「おにい、ちゃん?」

 おそるおそる、扉を開ける。

 真っ白なカーテンが目に飛び込んでくる。


 床にしゃがみこみベッドに顔をうずめて、ひとりの男がおんおんと泣き声をあげていた。

 わたしはそばにいって、背中を優しくさする。


「もう泣かなくていいんだよ。呪術は解けたんだから」

 呪術が、解けた。

 なぜ蠱毒の呪いが解かれたのか。夜那の言葉を借りて説明するならば、呪いの対象が《変身》して別のモノへと変わったことで、対象から外れた――。即ち、わたしとお兄ちゃんが過去の自分の殻を壊し、新しい自分へと変化できたかららしい。

 呪術はもとより心理的怪異現象のひとつ。幽霊は、人の心の外にはいない。ならばバケモノだって、わたしと兄の心が生み出した虚像に過ぎない。


 しかし今だって、兄の姿は、ひどい有様だった。(夜那が着せてくれたのだろう)服は身にまとっているけれど、髪は伸び放題でボサボサで、髭も手入れされていない。お風呂にもシャワーにも入っていない、身体からは腐臭が溢れ出ている。

 呪術というフィルターを通さなくたって、やつれた兄の姿はバケモノに見えただろう。


 それでも、わたしの兄だから。

「お兄ちゃんは、夢から抜け出すことができたんだよね。それなら、見えているよね」


 それでも、わたしの兄ならば。

「未来が」


 兄は泣くのをやめて、わたしの方へと向き直った。

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