3-4.ムシムシバトル

『おやおや、ヒト語も話せるんじゃないですか。安心しましたよ。ではこれから結婚式場の場所をお伝えしますから、恥ずかしくない格好で来てくださいね』


 男はそう言って、結婚会場の場所とその目印を告げた。そして程なくして「ふふん」と嫌らしく笑ったあと、電話を切った。


 電話が切られる直前、真依が小さな声で『助けて、お兄ちゃん』と言ったように聞こえた。


 俺は受話器を置いて、台所へと向かう。

 腸煮えくり返る、激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム(神)である。


 棚からステンレス包丁を取り出し、ブンブンと空を斬った。


「よーし、行くっぞ-」

 結婚式だか何だか知らんが、絶対に止めさせてやる。

 あんなわけの分からん男に真依をやるもんか。


 もういてもたってもいられない。

 玄関のドアノブに手をかけ、外に飛び出ようとする。が、ドアノブは微かに音を軋ませるばかりで、回ろうとしない。


 外側から鍵でもかけられているみたいに、ドアは押しても引いても開かない。


 おかしいなとは思ったが、べつに玄関のドアからしか外へ出られないわけではない。応接間を抜けて、板の間に回り込んで、窓を開けようとする。


 ところがこの窓もどうしてか開かない。

 開かぬなら、割ってみせよう、窓ガラス。と思い立ち、応接間に飾ってあった花瓶を投げつける。


 強化ガラスでもない我が家の窓は簡単に割れ、外側に放り出された花瓶もアスファルトにぶつかり音を立てて割れた。


「なんだ、割れるのか……」


 俺はてっきり、結界か何かに阻まれて花瓶が跳ね返ってくるものと予測していた。アニメの見過ぎかもしれない。


 さておきこれで、外に出られる。

 花瓶が開けた窓ガラスの穴は、人の頭が入るかくらいかの大きさであったが、穴は簡単に広げられる。


 俺は開いた穴に腕を突っ込み、外へ――、

 外へ――、

 出られない。


 理解できない。

 見えない壁や結界があるわけではない。

 なのに、穴のなかに腕を差し入れることができないのだ。


 指先が家から外へと抜けるその境界で、身体が氷漬けになったかのように静止してしまう。


《外へ出る》という意思が根こそぎ消失し、動けなくなってしまう。


 ええい、妹が大変な目に遭っているというのに、何をやっているんだ自分は。


 ドアが駄目で、窓も無理なら、庭から外へ抜ければいいじゃないか。昨日は虫壺を処分する際に庭へと出れたのだから、まさか今日になって出られなくなることはないだろう。


 案の定、家から庭へはすんなりと出られた。

 昔、祖母は犬を飼っていたから、庭もそれに合わせて作られていて、人間が走り回れるくらいのスペースがある。


 庭全体はブロック塀で囲われているものの、踏み台を使えば楽に外の道へ抜けることができる。さっそく踏み台を塀の手前に置いて、脚をかけようとする。


 ところがここでもまた、身体がフリーズしてしまう。踏み台に足を乗せた、その次の行動に移ることができない。


 まるで精神が、家の外へ出るのを拒絶しているかのように。


「いったい何がどうなっているんだ!!」

 

 悲鳴する心。事態を打開する道筋が見えない。出口のない迷路を延々と彷徨っている絶望感。就職活動のときと同じだ。


 未来が怖い。明日になっても変われない自分が怖い。明日になっても変わらない自分が怖い。だけど動けない、だから動かない。


 ギチ、ギチ、ギチチチチチチ。

 ギチ、ギチチチチチチ。

 チッチッチッチ。


 虫の声が聞こえる。

 振り返ればヤツがいる。


 扁平なボディ、テカテカと脂ぎった上翅、二股に分かれたツノ。

 真依が父の日にプレゼントしてくれた、例のカブトムシ。


「ふふ、おまえが俺の、ともだちか」

「ギチチ」


 虫が嗤う。

 何を食べたらそんなに成長できるのか、虫の体長は一メートルほどに巨大化していた。


 六本の脚で地面に立ち、長くてギザギザしたツノをこちらに向けている。よく見れば虫の口元には、スチール缶でもやすやすと切れそうな鋭い顎があった。


「ギチッチ」

「いいぜ、遊んでやるよ。なんせ俺とおまえはだもんな」


 庭の物置棚から、三つ叉に刃が分かれたくわを取り出す。


 えーいと鍬を振り下ろすのはワンテンポ遅く、虫はすぐ脇をガサガサと衣擦れする音を立てて抜けていく。ほんのわずかに、虫のツノが足首を掠めていった。


「ぐあ」

 瞬時に激痛が走り、しゃがみこむ。

 鋭利な刃物で切りつけたように、足首の肉が抉れている。


「チッチッチ」

 まだまだ甘いな、とでも嘲るように虫が軽快なリズムを刻む。


「マジかよ……」

 こんなん俺が勝てる見込みねぇじゃん。たった一撃喰らっただけで、こちとら立っているだけでも激痛に蝕まれるのである。


 あーあ、この絶望感。

 就活のときもそうだった。

 俺は心のどこかで、はじめからあきらめていて。


「チチーチ」

 虫が飛び込んでくる。

 なんとあの巨体で飛べるのだ。


 迫る巨体に鍬を振り下ろすのが先か、回避するのが先か。迷った瞬間にはもう、虫のツノが深々と突き刺さっている。


 胸の中心に。


「なっ」

 そのまま押し倒されるようにして、俺は地面に仰向けに落ちた。

 虫はツノを抜き、六本の脚を絡めて抱きついてくる。大きく突き出たギロチンのごとく顎が、今にも首を切り落とそうと迫っていた。


 痛い。苦しい。辛い。

 もう何もかも投げ出して、逃げ出してしまいたい。


 ここで死んで異世界転生ライフを満喫した方が、自分はきっと楽になれるに違いなかった。


『お兄ちゃんはそれでいいの?』

 真依、許してくれ。俺はもう疲れたんだ。

 自分は結局、理想の兄にはなれなかった。理想どころか、妹には迷惑ばかりかけて、生きているだけでも恥ずかしいくらいだ。

 死なせてくれ。殺させてくれ。


『わたしはお兄ちゃんのことが好きなのに』

 ああ、俺もだ。俺も真依のことが好きだ。

 だからこそ、俺みたいなろくでなしが、この世界に生きていてはいけないんだ。もう俺には真依を幸せにしてやれる力がない。たったひとりの妹を不幸にしていくばかりなんだ。

 こんなことならはじめから、生きていなければ良かったのに。


 虫が、すぐ目と鼻の先で。

 獲物を斬り殺すタイミングをうかがっている。


『お兄ちゃん、わたしは……』

 脳内の妄想妹との別れも、終わりを迎えようとしていた。


 俺は、死ぬ。

 デッドエンドだ。


 そのとき、頭のなかで別の声が鳴り響いた。

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