2-5.グレーゴル・ザムザのイモウト

 うん。部屋だ。兄の部屋だ。わたしの知っている、わたしの見慣れた、わたしのお兄ちゃんの部屋。何の変哲もない部屋だ。ソウニチガイナイ。どこもおかしくはない。誰も異常ではない。だって此処はただの家であり、此処はただの部屋なのだから。


「ああ、なんてひどい……」

 夜那が言った。天を仰いで、大きな溜め息をついた。


 何をそんなに絶望しているのだろう。わたしなんて、お兄ちゃんの部屋に毎日入っている。パソコンがあって、箪笥があって、本棚があって、アニメ絵のポスターも貼ってあるけれど、ごくふつうの部屋ではないか。たしかに、ちょっと散らかっているかもしれないけれど。


「中に……足を踏み入れても良いですか?」

 謎の言い回しで夜那が聞く。拒否する理由もないので、頷いた。

 夜那はまるでオバケ屋敷にでも入るような足取りで、恐る恐ると部屋に入る。

 彼は本棚に興味を示したようだった。


 本棚は六段で、壁の一面を埋めている。兄は文学部だったので、本棚には日本文学や海外文学の分厚い書籍が並んでいる。わたしは兄の本棚にある小説を読んだことはなかった。


 夜那は、本の一冊を取り出し、ページをめくる。本棚のなかでもとりわけ薄い文庫本だ。本には、黄色や青の付箋が貼られてあった。本棚を見る限り、付箋の貼られた書籍はこの一冊だけ。だから夜那は目をつけたのだろう。


「これは、フランツ・カフカの短編集ですね」

 夜那が本をわたしに見せる。表紙には《変身》と書かれてあった。


「カフカの変身は聞いたことあるけど……。それは多分、お兄ちゃんが大学でレポートを書くときに使ったんだと思う。お兄ちゃん、文学部だったから」


「えぇーと、お兄さんは今も大学生なのですか? それとも就職されたんですか?」

 夜那が訊く。


 ああそっか、そういえば全然、肝心のことを話していなかった。バケモノとかオバケとか、呪いとか超常的なことに気を取られて、肝心の兄のプロフィールを伝え忘れていた。


「お兄ちゃんは、二十二歳なんだけど、今年の四月に大学を卒業したの。就職活動を必死にしてたのに、内定が取れなくて、無職になった」


「たしかお兄さんが変になったのは、四月からなんですよね?」

「うん。バケモノになったお兄ちゃんを初めて見たのは四月一日だったよ。最初はエイプリルフールネタだと思っていたけど、そうじゃなかった。でも、変という意味では、お兄ちゃんは去年の八月頃から様子が変だった」


「例えば?」

「オンシャデハタラカセテクダサーイ!! って奇声をあげて、夜な夜な泣いてたよ」

「……、……」


 夜那はまた、本棚を漁り始める。わたしはただ、彼の後ろ姿を眺めていた。

 兄はどこで、可怪おかしくなったのだろう。就職活動が、わたしの兄を変えてしまったのだろうか。


「これは、ご存知ですか?」

 夜那が本棚から引っ張り出してきた、紙の束を手渡す。

 数十枚のA4用紙を束ねたもので、表紙には次のように書かれてある。


『卒業論文――フランツ・カフカの変身に見られる兄妹愛、及びUngezieferウンゲツィーファーの示す実存的不条理の在り方について 葛西ゼミ 学籍番号210072 夕緋 悠人』


「卒業、論文?」

 兄は大学のことを話してくれなかった。だから、兄が大学で何をやっていたのか、わたしはほとんど知らない。兄妹愛について研究していたのなら、それはそれでドン引きするけれど。


「僕はようやく、この家で何が起こったのか、正体を突き止めました」

 夜那が静かに、ぽつりと言った。

 一瞬、呆気にとられる。

 正体を、突き止めた。彼はたしかにそう言った。


「ほんと! ほんとなの!!」

「ええ……、おそらく、間違いないです」


 わたしは思わず夜那の両手を握る。まさかここまで早く、兄の呪いを看破するとは。夜那を頼ってよかった。見立て通り、彼はホンモノの呪術師だ。


「で、なんなの。一体何がお兄ちゃんをバケモノに変えたの?」

「まあ、落ち着いて下さい。簡単に説明ができるものではありません。そうですね……」

 夜那は一呼吸置いてから、話を進める。彼の表情はしかし、苦悶しているようで、わたしが彼の両手を握っているにもかかわらず、あまり嬉しそうではなかった。


「カフカの書いた短編小説、変身。主人公のグレーゴル・ザムザが虫へと姿を変える冒頭は有名です。ザムザの他に、彼の家族である父と母、それから妹が登場人物として出てきます。他に、萌え萌えなメイドさんもいたような気もしますが、まぁいいでしょう。


 さて、カフカの変身で、もっとも異常な心理を持った登場人物は誰でしょうか? 虫としての生活に慣れ切ってしまった、兄のグレーゴルでしょうか。実の息子であるグレーゴルを邪険に扱った父親でしょうか。それとも虫となった息子を見て失神してしまう母親でしょうか。


 いいえ、作中人物でもっとも異常なのは、グレーゴル・ザムザの妹、グレーテです。虫となった兄を受け入れ、世話をする、妹……。ネタバレになるので控えますが、物語中で心身ともに最も《変身》したと言えるのは、妹のグレーテなのです。


 表題の《変身》は、兄が虫に変わったことを指す言葉とは限りません。もしかすると変わったのはグレーゴルではなく、彼を取り巻く家族の方なのかもしれません」


「何が、いいたいわけ?」


「どのような呪術であれ、それを呪いと認めるためには、名前が必要です。夕緋さんを取り巻くこの異常な状況。僕はその呪いに、命名します。

 変身へんしんセシ穢汚かいお異形いぎょう――Ungezieferウンゲツィーファー――と」


「うんげ、つぃーふぁー?」


「あるいは、もっと一般的な呼称を使っても良いでしょう。呪術のなかで非常に危険度が高い、禁忌のなかの禁忌とされる古代中国発祥の呪い……。ええ、腑に落ちましたよ。まさしくこの状況は――」


 夜那は言う。確信を持って、宣告する。

 今、わたしと兄が置かれている状況。

 侵されている日常。

 冒している異常。


 その正体は――。



蠱毒こどく、ですよ」

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