1-2.アニ失格

 現実逃避の《作業》を終えた俺は、毎度のことながら自分はこんなことをしている場合ではないだろ!という自責の念と虚脱感とに見舞われる。この状態を《賢者モード》と形容する人もいるが、俺からすれば《愚者モード》の方が実態に近いように思えた。


 両脚をパソコンデスクの上に乗せて、両腕をぶらーんと椅子の外に放り出す。虚ろに液晶モニターを眺めていた。

 見ているのは、フリーの家計簿ソフトのトップ画面だ。我が家の家計とすべての資産がこのフリーソフトに集計されていて、毎月の支出額や全期間の資産推移などがグラフで一目瞭然に分かる。

 試しに資産の項目をクリックすると、画面上に綺麗な右肩下がりの直線グラフが描かれる。そして『注意! あと一年で貯金が底をつく恐れがあります。生活の見直しをオススメします』というお節介なコメントが表示される。


「はぁー、宝くじでも当たらねぇかなあ」


 回転椅子をクルクルさせる。


 六億円とまでは言わない。せめて真依と二人で慎ましく暮らしていけるくらいの、金が欲しかった。


 視界がグルグルとまわる。


 我が家には両親がいない。母は六年前に病気で死んだ。父は十年前に病気の母を見捨てて逃げた。俺が高校一年生で、真依が小学二年生の頃にはすでに、親と呼べる存在はいなかった。


 まわる視界のなかにふとした違和感が生じる。


 母方の祖母が俺と真依を引き取って、面倒を見てくれた。その命の恩人たるおばあちゃんも、三年前に永眠した。それきり、祖母の残した三十五坪木造二階建てのだだっ広い家で、兄と妹の二人暮らしだ。

 代襲相続だいしゅうそうぞくというレアケースで祖母の財産を貰い受けることができたものの、人間二人を養い続けるには足りない金額であった。家計簿ソフトの指摘するとおり、俺たちの生活費はもってあと一年。

 くっ、当初のプランでは、俺は今頃大企業のエリートビジネスマンとなっている予定だったのに。大学時代の就職活動で得られたのは百通を超えるお祈り手紙だけだった。

 お金は欲しいが、もう就活はしたくない。そんな甘ったれたわたあめのような思考が、自分のなかを支配していた。

――さておき。


「はれ、はれれれれ?」

 思わず椅子から立ち上がる。回転椅子でクルクルとまわっていたときから、何か違和感のようなものを察知していた。今、それが何であるかを確信した。


 畳の上に置いていた虫カゴ。それは、いい。一ミリ足りとも動いていない。

 問題は虫カゴのなかに、ゴキブリ……じゃなかったカブトムシがいないのだ。

 忽然と、消えている。

 消失。


 隙間から脱走したのかなと思い、虫カゴを手に持って観察してみる。

 しかし床と側面はすべて透明なプラスチックに囲まれて、逃げ出す隙間はない。プラスチックには傷一つ無い。

 フタ部分には空気穴のスリットが空いているものの、五ミリ程度だ。あの虫は見たところ五センチはあった。どうあがいても逃げ出せるはずがない。フタ自体にもきっちりとロックがかかったままで、かごが開いた痕跡さえなかった。


 おいおいシャーロックホームズもびっくりな密室事件だぞ。

 額に嫌な汗をかいていた。

 恐る恐る、部屋全体を見渡してみる。しかしどこにも虫の姿は見当たらない。

 蚊を探すのとはわけが違う。直径五センチのカブトムシが見つからないのだ。

 そもそもこの部屋全体が密室のはずだった。ガラス窓は閉じられている。障子も閉めてある。床は畳張りで、畳と畳の隙間に虫が入り込む可能性はあったが、カブトムシでは無理だ。

 開き戸が内側で開くスペースは段差で一段低くなっており、フローリングが敷いてある。ドアは上下左右の木枠がぴっちりドア枠に嵌め込まれるタイプで、ここにも逃げ場はない。


 グロテスクな虫とはいえ、真依からプレゼントに貰ったものを初日で無くしてしまったとあれば兄失格だ。

『お兄ちゃんなんて大っ嫌い! せっかくわたしが一生懸命つかまえてきた虫なのに!』

 そんな妹の声が聞こえるようで、居てもたってもいられなくなった。


「おーい、カブトムシやーい。出ておいでー」

 小声で囁くように呼びかけながら、ゴミ箱のなかや本棚のなかを探して回る。自室のすぐ隣が真依の部屋なので、下手に騒ぎを聞かれて事態を悟られるのは不味かった。

 全身に神経を張り巡らせて、そろーっと虫探しをする。虫捕りに身を興じるなんて、小学生のとき以来だ。


 押入れの引き戸を開けて、エッチな雑誌の入ったダンボール箱のなかも覗いてみたが、虫はどこにもいなかった。

 半ばあきらめかけたそのとき――。


 ギチ、ギチ、ギチチチチチチ。

 ギチ、ギチチチチチチ。

 チッチッチッチ。


 妙な軋む音が、背後に聞こえた。

 思わず振り返った、


 瞬間。


 扁平なボディ、テカテカと脂ぎった上翅、二股に分かれたツノ。

 例のアノ虫が、俺の顔を目掛けて飛びかかってきた。

 あまりにも一瞬のことで、それが飛行したのか跳躍したのか分からない。とにかく避ける間もなく、虫が顔へと張り付いた。


「ぎゃああああああああああああああああああ」

 のたうち回る。痛み。それが痛みだと理解するまでに数秒かかった。

 虫は六本の脚で、頬や鼻やまぶたをひっかきまわった。虫が一歩二歩とステップするたびに焼けるような激痛が走る。

 喩えるならば、返しのある釣り針を皮膚に抜き差しするような感覚。


 剥ぎとってやろうと顔を手で弄っていると、ねっとりとした液体がこびりついた。虫は捕まらず、シャツのなかへと身を隠す。首筋から胸にかけて灼ける痛みに見舞われる。

 手を顔から離して、ゾッと目を見開いた。

 虫の粘液だと思い込んでいた、手についた液体が、まるで人間の血のような鮮やかな赤い色をしていたからだ。

 舌で口周りを舐めるとドロっとした血の味が、口の中へと広がった。


 虫は左胸の、乳首よりやや内側の場所を刺激する。

 瞬間、心臓の鼓動がトクントクントクンと三テンポ以上早くなり、かつて経験したこともない動悸に襲われる。

 痛い、焼ける。苦しい。

 意識が遠のいてゆく。ようやく、自分が命の危機にあることを悟った。


 俺はいつだって、最悪の事態に気づくのが遅れるのだ。就活のときもそうだった。

 まさか自分が、カブトムシモドキに殺される日が来るとは思わなかったが。


 虫は胸の中へと突き進んでゆく。皮膚が破れ、血が沸騰し、筋肉が張り裂け、脳が爆ぜ、眼球が飛び出てしまうかと思われた。視界が血で滲んで、虫がどうなっているのか、体がどうなっているのかを確認できない。


 仰向けに倒れこんで、暗くなってゆく天井を眺めていた。

 自分はこれから死ぬのだという予感があった。

 死んだら異世界に転生して美少女とハーレムしたいなぁ。それなら死ぬのも悪くないか。


 あきらめかけた。そのとき。

 胸裏に真依の顔がよぎった。

『お兄ちゃん大好き!』

 妄想の妹が俺に笑顔を見せた。それだけで十分だった。


「妹のこして兄が死ねるかあああああああああああ!!!」

 俺は僅かに残っていた渾身の力を振り絞り、右の手で心臓を強く掴んだ。

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