第2話 水に映った月

 目黒K病院は、教えられたとおり、駅のそばにあった。駐車場に車を停め、時計を見た。一時四十五分。薫にもらった紙片を取り出して、医師の名前を確認する。土曜日なので外来は午前中で終了しているが、薫が二時からの約束を取りつけてくれていた。

 事情が事情なだけに、可奈子には本当のことを打ち明けるわけにもいかず、実家の急用ということで、今回はキャンセルにしてもらった。

 昨日、大学から帰ると、暁はテレビもつけずに、ベランダに面した窓のところにぼんやりと座っていた。何か食べたか、と訊くと、そっけなく首を横に振った。取りつく島もないという感じだ。今日も大学ということにしているが、それを告げた時も無機質な目で「ああ」と言っただけだった。

 傷にも良くないから食事はしっかり取るようにと言い含めて来たものの、またあの部屋でじっと座り込んでいる姿を想像すると、胃の辺りが痛くなる気がした。

 外来の受付で用件を告げると、愛想のいい女性スタッフが「少々お待ち下さい」と言って、どこかに電話をかけた。

「お待たせ致しました。杉田先生は第二病棟の三階にいらっしゃいます」

 丁寧に場所を教えてもらい、僕は礼を言って裏口へ向かった。外に出て駐車場の前を右に回ると、南側にひときわ白く新しい建物が見えた。玄関を入り、リノリウム張りの廊下を歩く。消毒薬の匂いと清潔な白い壁紙に、僕は目を細めた。

 暁ほどではないが、僕も病院は苦手だった。スニーカーの底がリノリウムの床を滑るあのひきつったような音を聞いていると、過去に戻って、まるで自分がこの病院に入院しているような錯覚に陥りそうになった。

 受付で聞いたとおり、三つ並んだ診察室の真ん中のドアをノックした。

「どうぞぉ」

 室内から届いた太くほがらかな声に促されてドアを開けると、四十過ぎぐらいのがっしりした体格をした医師が、机の前の椅子から立ち上がってこちらを向いていた。

「はじめまして。萩原君の紹介で伺った魚住です」

 戸口で頭を下げた僕に、医師はくしゃくしゃの笑顔で会釈を返した。

「あー、杉田です。薫くんからおおまかに事情は聞かせてもらってます」

 うんうんとうなずきながら、両手を広げた。

「掛けてください、どうぞどうぞ」

 わずかに関西なまりがある。にこにこという音が聞こえてきそうなほど、顔じゅう、というより体全体が笑顔、といった印象だ。杉田医師の前に置かれた丸椅子に腰を下ろし、遅れて座った彼に僕はもう一度頭を下げた。

「突然、不躾なお願いをして申し訳ありません」

「いやぁ、かまいませんよ。一応、医者のはしくれですからねぇ。わずかばかしの知識ですけど、何かお役に立てれば」

 頭を掻きながら、穏やかに言葉を紡ぐ。日に灼けた顔の目尻に小さな笑い皺がいくつも刻まれ、柔和な空気が伝染する。実際、白衣よりも、日向の匂いがする麦わら帽子と手拭いの方が似合いそうだった。僕は苦手な病院にいるという重苦しい緊張が少しやわらぐのを感じ、相談ごとの内容を、薫に語った時よりはいくらか整然と説明できるように努力した。杉田医師は邪魔にならない程度のあいづちを打ち、時々、机の上のメモに何かを書き留めていた。

「多重人格という言葉が頭に浮かんだ時、あんまり突飛な発想だと、すぐ自分の考えを否定しました。けど、反対にその疑問を打ち消すだけの材料も、無いような気がして……」

 僕の話が一段落すると、杉田医師はペンを置き、椅子を回してこちらを向いた。

「お話は、よくわかりましたよ」

 先刻の笑顔とはうって変わった、ひどく生真面目な表情だった。それから杉田医師は「ちょっと失礼します。すいませんね」と言って外へ出て行った。すぐに戻ってきた彼は、手にした紙コップのコーヒーを僕に渡してくれた。

「自動販売機ので申し訳ないんですけど」

 僕は礼を言ってコーヒーをすすり、杉田医師も自分の分に口をつけた。

「悲しいことやねぇ」

 ポツリと、杉田医師が言った。

「お父さんとお母さんだけを頼りにして、一生懸命生まれてきたのに、その二人からそんな仕打ちをされるやなんて、生きる甲斐もないて思うやろなぁ……」

 やんわりとした丸い関西弁が心の琴線にふれる。杉田医師の言葉は、医者という職種の枠を越えた慈しみと悲哀に満ちていた。児童精神科医という立場上、親に虐待されている子供や、他にも様々な事情で心を病んだ子供達を、何人も見てきているはずだ。それでも彼は、ここを訪れる患者一人ひとりの心の叫びに、決して慣れてしまうことはない気がした。どういう経緯で知り合ったのかはわからないが、杉田医師を名医だと称した薫に共感を覚え、彼を紹介してくれたことを改めて感謝した。

「関西のご出身なんですか?」

 僕は訊いた。

「えっ? ああ、和歌山です。勝浦のほう。ご存じですか?」

「えっと、確か有名な滝があるところですよね」

「そうです、そうです。那智の滝。ほんとに田舎ですけど、海はきれいですよ。白浜のあたりとは、また色が違いますから」

 含羞の笑みを浮かべて、杉田医師は自分の額を拳で軽くこづいた。

「中には関西弁が苦手っていう患者さんもいるんで、普段は標準語で通してるんですけど、薫くんのお友達っていうこともあって、つい、ポロッとねぇ」

 そう言うと、彼はひとつ咳ばらいをして真顔に戻った。

「魚住さんは、薫くんと同じ大学でしたね」

「そうです。学部は違いますが」

「どこの学部ですか」

「社会学部で社会福祉を専攻しています」

「社会福祉学科なら、心理学を?」

「ええ、受講しています」

 杉田医師はうなずいて、机に肘をつき指を組んだ。

「児童虐待と多重人格の因果関係説について、ある程度の認識はありますか?」

「かじった程度ですけど」

 少しの間を置いて、杉田医師は再び口を開いた。

「僕は、実際に多重人格の患者を診たことがないんです。ですから、今のところはまだ、専門外と言ったほうがいいかもしれませんね」

 杉田医師は、机の横に置かれた本棚から一冊の分厚い本を取り出して、ページをめくった。英文の医学書のようだった。

「多重人格の原因と症状については、改めて説明しなくてもおおまかなところはわかってらっしゃると思いますけど、発症の経緯というか、メカニズムの部分はどうですか?」

 僕は首を振った。

「よくは知りません」

「人間の子供は他の哺乳類の動物達と比べて、親にすべてを依存して保護してもらわないといけない時間が、すごく長いですよね。それは単純にいえば、人間が生態系の上位に属していて、生命の危険にさらされるような外敵との接触がないからなんですけど」

 杉田医師はそこで長い息をつき、再び口を開いた。

「その命綱であるべき親、あるいは身近な大人が、最大の外敵にとってかわってしまうのが、児童虐待です。そうして、自分で自分の身を守るだけの力を与えられてない子供が、生きのびるためにとる自己防衛の手段が、『解離』という現象なんですね。例えば性的虐待の場合は『今、父親からレイプされているのは自分じゃない』と思い込むために、まったくの別のもうひとりの人格を作りあげて、苦痛を切り離そうとするんです」

「耐えられない現実を、新しい人格に肩代わりしてもらうんですね」

「そうです。だから暁っていうその女の子も、小さい頃から父親の性的虐待を受けていたとしたら、人格交代を引き起こす受け皿ができあがっている可能性は、高いかもしれません。双子っていうのもまた……」

 そう言って、杉田医師は僕を見た。アパートにひとりでいる暁のことが気になった。ちゃんと食事をとっただろうか。今日も何も口にせず、非業の死を遂げた分身の魂にそっと寄り添っているのか。彼女は無意識の内に死んだ兄との同一化を図り、兄の人生をやり直し、無念を晴らさせそうとしているのかもしれない。

「けど、さっきも言ったように、僕は今のところ専門外ですし、その子ともまだ会ってないわけですから、多重人格障害かどうかはもちろん、その他の精神疾患についても何も言えません」

 それでも、医学的見地からの判断は別にして、今の彼女が『暁』という少年であることだけは間違いない。僕が沈黙すると、杉田医師は医学書のこげ茶の皮表紙を手のひらでさすり、つけ加えた。

「大事なことは、その子が心にとても深くて大きい傷を負っているってことでしょう」

 僕は彼を見た。

「医者を長く続けるほど、どうしようもなく医学の限界ってやつにぶち当たるんですよ。限界というより、ほとんど無力っていったほうがいい時もある。そういう場面での自分の心境は、もう言葉で言い表せるもんじゃないですねぇ」

 でもねぇ、と彼は続けた。

「医者が治すんじゃないんです」

 杉田医師は、七輪の火のようにほっこりとした微笑を浮かべた。

「フランス外科学の父といわれるアンブロワーズ・パレっていう人の言葉に『神が治し、医者が包帯を巻く』というのがあるんですけど、ここで言う『神』とは、何を指すと思いますか?」

「……命の力、でしょうか。程度の差はあっても病気や怪我をしない人間はいないでしょうし、自然の摂理として、生命は生きようとするものだから」

 僕の言葉に杉田医師は微笑から大きな笑顔になった。

「僕もそう思います。もちろん、専門の知識と技術は必要ですけど、医者はあくまでも、患者さんを助ける役割なんですよね」

 杉田医師はもう一度咳ばらいをして、「それから、あとひとつ」と人差し指を立てた。

「治そうとする患者と手助けする医者の前に、もうひとつ重大な力が不可欠です」

 杉田医師は、神妙な表情で僕を見つめた。

「治そう、と患者に決心させる力」

 百六十キロのストレートを、ど真ん中に投げ入れられた気がした。

「三位一体」

 杉田医師はにっこりと笑った。

「誰からも見捨てられて気にかけてもらえない人、あるいは誰のことも完全に拒絶しきっているような人が、心から、快復したい、病気を治したいと願うことは、まず有り得ないでしょう。中には、瀕死の床についた人間が、誰かへの恨みを晴らしたいと執念を燃やして奇跡的に息を吹き返すなんて、マイナスの力が作用するケースもあるかもしれませんけどね。それだって、実際に復讐を実行するか、それとも別の人生を見つけるかは、とりあえず生きてみないとわからない。そこで死んでしまったらアウト、プラスもマイナスもないゼロですからね。そういう意味じゃ、どんなケースでも、他者の存在が大きく影響してると思いませんか? 家族や恋人、友達と言った関係はもちろん、仕事、スポーツ、芸術……これらを生きがいにする人達も、決して自分自身の達成感の中だけで完結してしまってるわけじゃない。その向こうに、必ず他者の存在を認めているはずです。それはたった一人かもしれないし、まだ出会ったことのない不特定多数の人達かもしれない。人間は、よくも悪くも他者との関わりなくしてはやっていけないんですよ。そりゃあできれば、幸せな方向につながる関係が多いほうがいいのは、言うまでもありませんけどね。本当の救いなんてものは結局、自分自身で見つけるしかないんでしょうが、癒したり癒されたりするためには、自分以外の誰かが必要です。」

 そこで言葉をきった杉田医師の穏やかな目が、僕にはっきりと問いかけていた。

(あなたは、その子にとって、もうひとつの重大な力になれますか?)

 その時、机の上の電話が鳴り、杉田医師が受話器を取った。

「わかりました。もう少ししたら下りていきます」

 僕は壁に掛けられている時計に目をやった。三時半を回ったところだった。慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「すみません、すっかりお時間を取らせてしまいました。そろそろ失礼します」

「そうですか。結局、あたりさわりのない話しかできなかったみたいで、申し訳なかったですねぇ」

「とんでもありません。とても参考になりました」

「できれば近いうちに一度、その子と会わせて頂けますか? 診察の結果、多重人格障害の可能性が認められれば、改めてその分野の専門家を探してご紹介することもできると思いますし」

 病院へ行くことを激しく拒んだ暁の様子を思い出した。僕は杉田医師にそのことを説明し、彼女が洗面台の前で鏡に映った自分の姿を見ようとしなかったことと、洗浄脅迫の件もつけ加えた。杉田医師は、納得したような表情を浮かべた。

「本来、自分のすべてを受け入れ、許容してくれるはずの親から虐待され続けた子供は、自分は他人より劣っているダメな人間なんだという意識を植えつけられて、強い自己嫌悪感にさいなまれるんですね。特に、性的な被害にあった者は、親とそのような関係を持った自分は汚らわしい人間だと思い込み、自分自身の顔や体を、おぞましいものとして否定してしまうことがあるんですよ」

 兄の暁として、親にうとまれた自分を拒否したのか、それとも、例え男だと思い込んでいても、深層心理に刻みつけられた性的虐待の記憶が、無意識に彼女の目を鏡から逸らさせたのか。胸の奥に堅く重苦しいものが引っかかっているような圧迫を感じて、僕は細く息を吸った。

「まぁ、焦ってもいい結果は出ませんから」

 気づかうようにそう言うと、杉田医師は机の電気を消し、携帯を白衣のポケットにしまって僕を見た。

「虐待されている子供の多くは、それでも必死に親を慕います」

 僕を通して、もっと大勢の誰かに語りかけるような表情だった。

「親の愛情を求めるあまりに、親が暴力を振るうのは、自分が悪い子供だからだと思うようになる。親は悪くない、自分さえいい子になれば、きっと好きになってもらえる……。命の危険にさらされるような暴力の中でさえ、子供は親への思慕を捨てません。その心の渇きの激しさは、ほんとうに凄まじいものです。だからこそ、その望みを完全に断ち切った時に湧きあがる憎悪が、ついに殺意を生んだとしても、何の不思議もないでしょう。けど、それは結局、思慕の裏返しなんですね。親に愛されなかった子供達は、そのあとで他の誰かにどれだけ愛情を与えられたとしても、最後のピースを残したジグソーパズルみたいに、いつまでも埋まらない心のひとかけらを、何らかの方法でしのぎながら生きていくのかもしれません」

 淡々とした口調が、かえって心に染み入るような気がした。

 完成しないジグソーパズル。そこには、どんなメッセージが組み込まれているんだろう。

「……僕は何をすればいいんでしょう」

 思わず洩れた僕の言葉に、彼は穏やかで凛とした医師の顔で答えてくれた。

「もしもできるなら、その子がそこに在ることを、いつでも受け入れてやって下さい。かなりしんどい時もあるでしょうけど、どんな時でも魚住さんの目に、自分の存在がきちんと映ってるって、彼女がわかるように」


 車の中から、携帯で薫に電話をかけた。杉田医師との話の内容を報告し、最後に彼が言った言葉を伝えると、薫は電話の向こうで呟いた。

「そこに在ることをいつでも、か。基本だろうけど難しいよな」

「どんなことでも基本が一番大変だよ」

 僕がそう言うと、薫は笑った。

「確かに」

 電波の調子が悪くなってきたので、改めて今日の礼を言い電話を切ろうとした時、薫が何か言ったがよく聞き取れなかった。

「なんて言った?」

 ノイズの合間をぬって声を大きくした僕に、薫はゆっくりと繰り返した。

「共倒れするなよ」

 応える前に電波が途切れ、言葉の重みだけが右手の小さな電話の上に落ちてきた。僕は携帯を助手席に置いた上着の上に放り出し、病院の駐車場を出た。

 アパートに戻る前に、僕はすぐ近所に住む大家を訪れた。玄関前で植木に水をまいていた初老の男は、僕に気づいて愛想よく笑いかけた。

 挨拶もそこそこに、適当な理由をこじつけて前の住人について尋ねる僕に、大家は怪訝な顔を隠さなかったけれど、知っている限りのことを教えてくれた。

「松島さんは、一応ひとり暮らしってことになってたけど、あんまり素行が良くないって言うのか……夜の外出が多くて、近所づきあいもさけてたし……」

 大家は、やや声を落として続けた。

「よく男が出入りしてたみたいだね。それがまた質の悪いやつだったらしくて、しょっちゅう痴話ゲンカが絶えないって、他の住人からの苦情が相次いでねぇ。注意に行こうと思ってた矢先に、ふいっといなくなっちまった。家賃一カ月分ふみたおしてね」

「荷物なんかは残ってたんですか?」

「くたびれた箪笥やらテーブルやら……しょうがないから全部粗大ゴミで処分したよ」

 当時を振り返り、迷惑顔で大家は言った。

「転居先はご存じなんですか」

 無駄だと思いつつ、一応訊いてみる。大家は大袈裟に首を振った。

「夜逃げ同然で出てったのに、知るわけないよ」

 何のためにそんなことを訊くのかという大家をかわして礼を言い、僕は近くに停めておいた車に乗り込んだ。

 暁の話から、母親の性格について大方の予想はついていたものの、お約束のような顛末に、僕はハンドルにもたれかかり息をついた。もとより今の暁を母親のもとに連れて行こうなんて考えてはいなかったが、手掛かりのひとつもないままじゃ、暁はとうてい納得しないだろう。どうしたものかと思案しながら、僕はエンジンをかけた。

 アパートの扉を開けると、暁が出てきた。

「お帰り」

暁が自分から声をかけてきたことにも驚いたが、まっすぐ向けられた笑顔に、僕は玄関先で固まった。

「どうしたの? 幽霊でも見るような顔して」

 後ろで手を組み、いたずらをする子供みたいに無邪気に笑う。その目の奥の鈍い光りは、あの日、風呂場で見たものと同じだった。

 僕は、暁の顔から視線を外さずに、ゆっくりと廊下に上がった。

「……あきら?」

「違うよ」

 さらりと声が返る。心臓の動悸を抑えながら、訊いた。

「じゃあ、きみは……誰?」

「みづき。水の月って書くの」

 僕は、その場に呆然と立ちつくした。多重人格の可能性を考え始めた時から、ある程度予測していた事態とはいえ、現実を目の当たりにすると、それを受けとめる冷静な判断力は、ちりぢりに飛んでいった。目の前の相手は、そんな僕をまるで楽しんでいるみたいに、わずかに首を傾けて微笑を浮かべていた。

 何度も息を整えて、僕は落ち着きを取り戻そうとした。

「……女の子に見えるけど」

「そう。暁は男だけどね」

 虚をつかれた。

「暁のこと知ってるのか」

 水月みづきと名乗った少女は、頷いた。

「あたしは暁の存在を認識してるけど、向こうはあたしを知らない」

「何で」

 少女は肩をすくめた。

「憎しみで心が満タンになっちゃってるから、他の存在に気づく余裕がないの」

 黙り込んだ僕に、水月は言った。

「高久、カフェオレが飲みたい」

 くるりと背を向けて居間へ向かう。細い体を包む僕のシャツは大きすぎて、水月が歩くたびに裾がひらひらと揺れた。水中をただよう熱帯魚のような後ろ姿を見つめながら、僕はため息をついた。両手の指先が小さく震えているのに気づいて、強く握りしめる。冷たい汗が滲んでいた。

 テーブルに置かれたカップをぼんやりと見つめる横顔は柔らかく、華奢な少女にしか見えなかった。少年の暁と比べてどこが違うと言われても、言葉で説明することは難しい。

不思議としか言いようがなく、暁と水月が別人格だと認めざるを得ない気分にさせられる。

 飲みたいと言ったくせに、水月はカフェオレに口をつけようとはしなかった。

「飲まないの?」

「もう少し冷めてから。あたし、猫舌なの」

 猫舌。暁にコーヒーを出した時のことを考えたが、すぐに飲んでいたか思い出せない。

 自分のカフェオレが半分ほどになったところで、僕は口を開いた。

「頭が混乱してて、うまく整理がつかない」

「普通はそうね」

「みづき、って呼べばいいのかな」

「うん。水に映った月。本体じゃないから」

「本体?」

「この体の本来の持ち主のこと。主人格って言えばいいのかな」

「自分のことを多重人格だと思ってる?」

 水月は頷いた。

「知ってるよ。ずっと前からね」

「いつから?」

「質問ばっかり」

 水月はからかうように含み笑いをした。僕が唇を引き結ぶと、心配そうな顔で覗き込んできた。

「怒った?」

「怒ってないけど……質問攻めはいやか?」

 水月は首を横に振った。

「ごめんなさい」

 素直に謝る。

「高久は、暁のことを心配してくれてるんだよね。見ててよくわかった。あたしが知ってることは、全部教えてあげる。でも、その前に」

 口元から笑みを消して、水月は続けた。

「高久は、暁についてどこまで知ってるの?」

 僕は、インターネットで調べた新聞記事のことと、それに基づいた自分の憶測を話した。

「今、自分を死んだ兄だと思い込んでいる妹が、きみの言う『その体の本来の持ち主』ってわけだろ」

 どうにも矛盾を含んだ説明だと、我ながら頭が痛んだけれど、水月は笑わずにあいづちを打った。

「そうね。でも『死んだ兄だと思い込んでいる』っていうのは、ちょっと違う。あれは、まぎれもなく『暁』っていう少年なの。もちろん本来の人格から分離した別人格だけど、確かに存在してるのよ。今、あなたの前にいるあたしもね」

「……」

 水月の言うとおりだった。暁と水月という存在を目の前にしながらも、僕はまだ、うまく現実を認識しきれていないのかもしれない。

「信じられる?」

「信じるよ」

 水月は、とても大人びた顔でニッコリと微笑んだ。そして、僕の目を恐いほど真顔で見つめた。

「暁の妹は、十歳の時に父親に犯されたの」

 体に緊張が走った。

「小学校にあがったぐらいから、お風呂やベッドの中で、父親がおかしな触れかたをし始めて、おかしいな、変だなってずっと思ってたけど、なんだか訊いちゃいけないような気がして、恐くて動けなかったって言ってた」

「言ってた?」

「うん。あとで彼女から聞いたの。最初は胸を触るだけだったけど、だんだんエスカレートしてきて……嫌がると『お前がかわいいから、こうするんだよ』って言われたって。あたしが生まれたのは、暁の妹が父親にレイプされた時。『お前のお母さんは、他に男を作ってお父さんを捨てた。淫売だ。お前だけはお父さんを裏切ったりしないでくれ』。そう言いながら、父親はめちゃくちゃに泣き叫ぶ彼女を犯したのよ。それからあとは、あたしがずっと父親に抱かれる役をひき受けてあげたの。そうしないと、彼女はおかしくなってた、絶対」

 喉元までせり上がってくる吐き気を、懸命にやり過ごした。水月は目を細めて僕を見ると、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。

「一本ちょうだい」

 慣れた仕草で火をつける水月の細い指。まくり上げたシャツの裾から、僕が巻いた白い包帯が見えた。

「彼女とあたしは、結構仲良くやってたと思う。ちょっと姉妹みたいな感じで。あたしがお姉さん役で、泣いてる彼女をなぐさめたりして」

「会話ができるの?」

 二人の関係がうまく想像できなかった。

「もちろん、面と向かって話をするわけじゃないけど。なんていうのかな……頭の先端みたいな場所に扉があって、例えば、あたしが外、つまりこの体の表面に出てる時、頭の中でその扉が開いて、彼女の声が聞こえてくるの」

「不思議な感じがするな」

 正直な感想を洩らしながら、僕は以前に読んだ心理学の本の内容を思い出していた。多重人格障害は、時として統合失調症と診断されてしまうことがある。それは患者が往々にして幻聴を訴えるためだが、統合失調症と多重人格障害の幻聴には、明確な違いがある。統合失調症の幻聴は「外」から聞こえてくるが、多重人格障害の場合、それは自分の「内部」からの声なのだ。

「そんなふうに会話しながら、暁の妹をなぐさめてた?」

 水月は、煙草を消して頷いた。

「彼女は、よく『暁に会いたい』って泣いてた。あたしが『いつか絶対に会えるよ』って言うと、いつも『そうだね』って返事のあとで、また泣くの。『水月、ごめん』って」

 窓ガラスを細かく震わせる風の音に誰かの声を重ねるように、少しの間、水月はじっと目を閉じていた。

「あたしが代わりに父親に抱かれること、彼女は気にしてた。あたしはそのために生まれたのにね。あなたはまだ子供なんだから、もっとあたしによりかかっていいよって何度言っても、罪悪感に苦しんでた」

「まるで、自分は大人みたいな言い方するんだね」

 僕の言葉に、水月は意味ありげな微笑を見せた。

「父親が火事で死んだ時、彼女の中で、過去の性的虐待の記憶は封印されたの。それでもあたしのことは覚えてて、一番の友人として信頼してくれてた。けど、あたしが彼女の知らないところで、何をしてるかを知ったら、ものすごくショックを受けて、怒った」

「何をしたの?」

「男の人と寝たの」

 歯をみがくとか、本を読むといった行為をするのと同じような響きで、水月は言った。ぶかぶかのシャツが少し右下がりの肩先を滑り落ちて、タンクトップから白い肌が覗いた。くっきりと浮き出た鎖骨。細い肩から腕にかけての、幼さを残した堅い線。大人の女性とはとても言えない水月の体に視線を投げながら、僕は訊いた。

「寝た……?」

「うん」

「誰と」

「知らない人。街で声をかけてきたりとか、クラブでおごってくれた人と」

「どうして」

 水月は少し首を傾げた。

「寝たかったから。もともと、あたしは父親の相手として生まれた、って言ったでしょ。それが嫌いだったら務まらないじゃない」

 肩をすくめて、唇の端で笑う。僕は返事をしなかった。

「あきれてるんでしょ。それとも汚いって軽蔑してる?」

 僕の表情を窺うように、目線だけが動かない。

「よしてくれ」

 不快を隠さず、僕は言った。

「こんなふうに、反応をためされるのは好きじゃない。言いたいことははっきり言えよ」

 泣き笑いみたいな、曖昧な表情は一瞬だった。水月は挑むような目で僕を見据えると、きつく言い放った。

「中途半端に差し出される手は、暁の傷をかきまぜるだけなの。今の話に嫌悪を感じてるんなら、そっちこそはっきり言ってよ。そうして、今の内に暁を捨てて。あなたがやさしいってことはわかるけど、同情だったらもう充分」

 それまでは、訝しいほど淡々としていた水月の、はじめての感情の波だった。

「ごめん、と言って手を引っ込めたら、楽になれるんだろうな」

 僕は手元のカップを引き寄せた。すっかり温度を失ったカフェオレの表面には、よれた膜が浮いていた。

「ちょっと冷めすぎね」

 水月は自分のカップに口をつけた。

「同情じゃないよ」

 僕は言った。

「じゃあ、何?」

「わからない」

 水月が眉根を寄せた。

「時間をくれないか」

「なんの?」

「きみたちのことを、もっと知りたい」

 水月は、小さく息をついた。

「ものずきね」

「かもな」

 口元に指をあて、しばらく沈黙したあとで彼女が言った。

「あなたも、なかなかに複雑なのかな?」

「まぁ……そうだね」

「ほんとに、あたし達のことをもっと知りたい?」

「ああ」

「なんでも訊いて」

 水月は芝居がかった調子で両手を広げた。

「寝たかった。さっき、そう言ったね」

「言ったわ」

「きみにとってそれは、何の意味があるのかな」

 言葉を選ぶように慎重に訊いた僕に、彼女は『愚問ね』とでも言いたげに、片方の眉を上げた。

「喉が渇いて死にそうな時に、差し出された一杯の水の意味を考える人がいると思う?」

「通りすがりの誰かと抱き合うことが、一杯の水?」

「そう。からからなの。ねぇ、わかる? 自分の全部が、どうしようもなく乾いてくるの」

「いいことだとは思ってないんだろ」

 水月は蔑むように僕を見た。

「何度も自分の父親と寝た人間に、道徳を問うつもり?」

「たった一杯の水で、何が満たされるっていうんだよ」

「そんなこと、あたしが気づいていないとでも思ってるの」

 どうでもいい。そんな表情で、水月は横を向いた。僕は、返す言葉を見つけられずに押し黙った。十五歳の少女と話しているとは思えなかった。内容も内容だったが、それにも増して、水月の全身から流れ出す空気が、何かしら僕を圧迫した。それは、触れると切れそうに張りつめた暁との対峙以上に、僕を息苦しくさせた。

「何か飲んでいい?」

 頷くと、水月は冷蔵庫からミネラルウォーターのミニボトルを持ってきて、一気に飲んだ。砂漠を歩き疲れた人のようだった。ボトルをテーブルに置き、水月は別段気分を害しているという感じもなく、言った。

「他に訊きたいことは?」

「一昨日の夜、風呂場で俺が見たのはきみなんだろ」

「そうよ。裸をさらけ出してボンヤリしてる時なんかは、交代しやすいの」

「暁は、自分の体が女だっていうことに驚かないのか?」

 水月は首を振った。

「不思議なことにね。だからこそ、心の病気なんだろうけど」

「俺は、その体の本来の持ち主には、まだ会ってない」

 返事がなかった。その時、今まで気づかなかったのが不思議なぐらい、素朴な疑問に思い至った。

「さっきからきみはずっと、主人格のことを『暁の妹』とか『彼女』って呼んでるけど、その子の名前は何ていうんだ?」

 水月は何も言わずに、膝をかかえてうつむいた。彼女が履いている僕のジーンズはダメージ加工がしてあり、水月はその破れ目の部分を手のひらでさすった。

「何で黙ってる?」

 ゆっくりと顔を上げた動作とは対照的な、強い目の光りが僕を見た。

「教えない」

「え?」

「高久が直接、彼女に訊いて」

 意味を問いかける間もなく、水月は続けた。

「暁が生まれたのは、ほんの数日前。高久の予想通り、彼女の心は兄の死の事実に耐えられなくて、暁という別人格を作り出した。でも……暁が生まれた時点で、彼女は眠っちゃったわ」

「眠った?」

「死んだほうがましだって思うくらい絶望して、意識の底に落ちてった……」

「声は聞こえないのか?」

「全然。暁が生まれる少し前、彼女とあたしは大ゲンカして……あたしがやってることも、彼女を追いつめたんだと思う。それから会話は途絶えてたんだけど、彼女の存在ははっきりと感じることができた。でも、今はダメ」

 そんなことがあるんだろうか。僕は、主人格の少女の絶望と孤独に思いを馳せた。別の人格を作りだしてしまうほどの衝撃。それまで、水月の存在によってどうにか自分を保っていた彼女は、最愛の人間の死を突き付けられて、とうとう自分自身を手放した。それじゃあ、その少女はもしかすると、この先ずっと。

 ふいに水月が立ち上がり、途方に暮れていた僕の横に座った。右手で、僕の手首をつかむ。熱があるのかと思うほど、熱い手だった。

「彼女を見つけて、高久」

 僕の顔を覗き込むようにして水月は言った。こぼれた言葉はそのまま凍りついて、結晶のように僕の中に落ちてゆく。

「あたしと暁は、彼女のために生まれたの。彼女が救われたら、きっとあたし達は楽になれる」

 僕を見据えた水月の瞳は、微かな風を受ける水面のように揺らめいていた。

「彼女の名前を探して、その声で呼んで」

 呪いを解くキー・ワードのように、水月は繰り返す。強くなる手の力。どうしてその手を拒むことができるだろう。進む方向が、まったく見えなくても。

「水月」

 身を乗り出した時、右手がテーブルの端にあったカップをはじき、カフェオレが水月の膝に飛び散った。水月が小さく悲鳴をもらす。

「ごめん! 大丈夫か?」

 熱くはなかったはずだ。それなのに、水月は両手で頭をかかえたまま、その場にうずくまった。

「水月?」

「頭が痛い」

 丸くなって細かく震える体の中から、うめくように苦しげな声が洩れる。

 もしも頭部に異常があるのなら、下手に動かすこともできない。尋常じゃない水月の様子に、救急車を呼んだ方がいいのかと立ち上がった。その時、ピタリと彼女の震えが止まった。

「おい……」

 水月は何も言わず、置物のようにそのままの姿勢でいた。それから、もどかしいぐらいゆったりとした動作で、固まった体をほどいていった。僕は、昆虫がさなぎを破って外に出ていく様をスローモーションフィルムで見ているような気持ちで、声をかけることも忘れて彼女を見下ろしていた。長い間か、数秒か、時間の感覚が消えていた。

 顔を上げた彼女と目が合った時、すでに状況に順応し始めているらしい僕は、そこに水月がもういないことを理解した。

「なんだよ……これ」

 茶色いシミでぐっしょりと濡れたシャツの裾をつかんで、「彼」は狐につままれたような表情をした。不機嫌な声は、水月とは明らかにトーンが違う。

 僕は、クロゼットによりかかって腕を組んだ。

「暁……」

 返事の代わりに、反抗的な瞳がはね返る。

 疲れるぜ、まったく。胸の内で呟き、僕はクロゼットの扉を開けると、着替えのシャツを乱暴に引っぱりだした。


 人格交代という現象が、よほど体力と精神力を消耗するのか、暁はそのあと、まったくといっていいほど口を開かず、夕食もそこそこに、八時にはベッドに入って眠ってしまった。

 僕は駅前の書店に行き、多重人格について書かれた本を二冊買うと、部屋に戻って食いつくように読んだ。

 僕の微々たる予備知識と、本から得た情報を合わせたものを簡潔にまとめると、「多重人格障害者の治療目的、つまり最終的治療は、分離した各人格をひとつにすること(人格統合)である」「十歳未満で発症した多重人格の場合、自然治癒はあり得ず、また専門医による治療も極めて困難となる」「二重人格に比べて、三つ以上の人格障害はその数が増えるほど、治療に要する年月も長くなる」「多重人格障害の研究が進んだ米国では、発症の原因となった過去のトラウマをひき出し、それと向き合うことが根幹的な治療につながると考えられているが、症例の少ない日本において、その概念がどこまで日本人患者にあてはめられるかということは未知数で、現在の日本では多重人格の明確な治療法はまだ確立されていない」といったところだった。

 僕は本を閉じると、椅子の背に深くもたれかかり、疲れた瞼を揉みほぐした。

 水月は、自分が生まれたのが十歳の時で、暁は数日前だと言っていた。本の内容に照らし合わせると、最初の発症年齢は治療の難易度を分かつボーダーラインということになるんだろうか。また、水月と比較して暁は発症が遅いため、人格統合がなされやすいのか。そこまで考えた時、見落としていたものが眼前に飛び込んできたように、僕は顔を上げて空を見据えた。人格が統合されるということは、暁と水月が消滅するということなのだ。

 消滅。死でも決別でもない不可解な響きは、自分が呼吸するこの三次元の世界では、対人関係にあてはめられない。けれど、暁と水月は、その時々で生身の人間として、確かにこの部屋にいる。この現実を、精神医学では一体どう分析するんだろう。消滅ではなく、本来の形に吸収されるだけだと、理屈では分かっていても、感情はそう簡単に割りきれるもんじゃない。患者もその部分で葛藤し、そこに治療上の問題も生じてくる、とは書かれていたが。

 もしも片方が消えてしまうと、残されたもうひとりの交代人格と主人格はどうなるのか。それはその後の治療にどう影響していくのか。

 僕は立ち上がり、狭いベランダに出た。乳白色に輝く丸い月が中空に浮かび、周囲には小さな星々が、メインの宝石を引き立たせるダイヤのかけらのように、頼りなくまたたいていた。こちら側からはかけらにしか見えなくても、本当はとてつもなく大きな光を放つ星かもしれない。それこそ、目で見えるものなんて、ほんの一部だ。僕は両腕を広げて大きく伸びをした。

 結局、素人見地でいくら考えを巡らせてみたところで、医学的判断は下せない。最後にはどうしたって専門家の治療が必要だとしても、今、暁と水月の目の前にいるのは僕だ。だからこそ、杉田医師もあえて、多重人格についての専門的な説明を省いたのかもしれない。そうやってひらきなおってしまうと、目の前を覆っていた深い霧が、初めてほんの少しだけ晴れたような気がした。

 ベッドで寝返りをうった暁がくしゃみをしたので、僕は部屋に戻り、窓を静かに閉めた。

 治そうと患者に決心させる力。

 杉田医師の言葉が、いつまでも耳の中に残っていた。

 日曜日、朝食兼昼食を終えたあとで、僕は暁に昨日の家主の話を伝えた。暁は険しい顔つきでじっと聞き入っていたが「今のところわかったのはそれだけ」という僕の言葉に、うつむいたまま反応を示さなかった。

「片づけくらいするよ」

 そう言って暁が食器を下げようとした時、僕はふと思いついて、「皿は俺が洗うよ。洗濯物をベランダに干してくれないか。俺の下着なんかは自分でやるから」

 と声をかけた。

 ここでシャワーを使った時、暁は女物の下着を身につけていた。その夜、暁が寝てから僕は顔から火が出る思いで、閉店間際のスーパーに女性用の下着を買いに走ったのだ。いくら発達途上とはいえ、このうえ女の子の下着を干すなんて真似は、とてもいたたまれなかった。

 そんな僕の胸中をよそに、暁はぶっきらぼうに言い放つ。

「べつに男同士なんだから、あんたの分もついでに干すよ」

「……お前がそれでいいなら」

 それ以上、拒むのも不自然に思われそうで、僕は羞恥を押し殺して、暁に洗濯物の入ったカゴを渡した。複雑な事情が絡んでいるとはいえ、二十歳の男が十五歳の女の子を家に引っぱり込んでパンツを干してもらうなんて、やっぱり普通じゃない。その点では、暁が少年に見えるということは、僕にとっても暁にとっても幸いだった。

 食器を洗って居間に戻ると、暁も洗濯物を済ませて、ベランダに面したガラス戸にもたれた格好で座っていた。固く閉じられた唇には排他的な色が滲んで、話しかけるのもためらわれた。僕は本棚からレポート作成のために必要な社会福祉の本を取り出すと、ソファの端にもたれて読み始めた。

 そのうちに睡魔がやって来て、いつのまにか眠ってしまった。目が覚めて時計に目をやると、四時半だった。思ったより深く寝入ってしまったらしい。慌てて暁の姿を探すと、ガラス戸に背をつけたままじっとしている。

 あれから、ずっとそうしていたんだろうか。僕は半分あきれて暁を見つめた。傾きかけた日の光が窓から差し込み、暁の青白い横顔に柔らかな光彩を放っていた。一日中、部屋に閉じこもりっきりっていうのは、やっぱり良くない。

「散歩に行かないか」

 暁は、うさんくさそうな顔で僕を見上げた。

「外に出るなって言ったじゃん」

「お前が無茶な真似しなきゃ大丈夫だよ。ずっと家ん中でうずくまってたら、カビが生えるぞ」

 言いながら僕はクロゼットを開き、スウェットパーカーを取って暁の前に差し出した。促されて、暁は渋々パーカーを受け取った。ブルゾンを着込むと、僕は暁をせかすようにして外へ出た。

 十月半ばの街は、頬を掠める風が心地よく、秋晴れの青空が、西から広がるオレンジの光りにゆっくりと溶け出していた。暁は猫背ぎみに下を向いたまま、僕の半歩後を黙々とついて来る。情緒的な景色を眺める余裕なんて、まるでないようだった。

 網膜に焼きついた憎しみが消えた時、この切れ長の瞳には、どんなものが映るんだろう。その日がいつ来るのかは、終わりのない日めくりを、一枚一枚数えていくようなものだった。

 パーカーとジーンズを大きくまくり上げて着ている暁に、僕は声をかけた。

「やっぱり俺の服じゃデカすぎるな。何か買いに行こうか」

「いらない」

 目の前でシャッターを閉めるように返事が返る。感情がよく読み取れない表情だった。 人間の感情には、大雑把に分けて喜怒哀楽というものがあるけれど、こいつには今のところ「憎」「怒」の他には、無反応と無関心といったパターンしかないのだろうか。僕は、暁と出会ってからやたらと増えたため息をついた。

 郵便局の角を右に曲がり、東急線の線路に沿ってぶらぶらと歩いた。土地勘のない暁は、ただ僕にならって歩を進めていた。ふと、暁の妹は旭川の養護施設にいたという新聞記事を思い出し、僕は知らぬ北海道の秋を想像した。

 足が向くまま高架づたいに行くうちに、アパートからかなり遠ざかってきた。散歩というには長すぎる距離にも暁は無言のままだったが、ペースが落ちて来た歩調に、疲れが見えた。

「疲れたか?」

「別に」

 顔を上げもしない。

「あ、そ」

 僕はまた前を向いて、それでも心持ちゆっくりと足を動かした。いくつかの交差点を越え、やがて線路から外れて街道沿いの道に出た。さらに進むと、車の往来の激しい道路の向こうに、大きな土手が広がっている。僕は暁を促して斜面に作られた石段を登り、河川敷の草むらに立った。日没が本格的に仕事に取りかかり始めたらしく、周辺の景色を鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。暁は僕から少し離れた位置に立ち、夕焼けを反射しながらゆったりと流れる川面を、目を細めて見つめていた。

「降りようか」

 僕はそう言って、緩やかな斜面を降り出した。暁はしばらくそこにいたけれど、僕が振り向いて、ほら、と手招くと、うつむきながらついて来た。

 短い草が生い茂る地面に腰を降ろす。暁も一メートルほどの空間を空けて僕に倣った。決してこちらの手が届く範囲に身を寄せようとはしない頑なさが、そのまま暁の心の距離を表しているようだった。だけど、それが実際にはどれくらい遠いものなのか、僕には推し測る術はなかった。

 川岸に近い場所でキャッチボールをしている親子らしい二人を、遠目で見るともなしに眺めながら、煙草を持ってくれば良かったな、と思った。小学校の低学年ぐらいの男の子が、頭上を大きく越えていったボールを追いかけて走って行く。戻ってきた男の子が何か言い、父親(だろう)は顔の前で片手を上げて謝る仕草をした。それから父親は対岸の街並みに沈んでゆく夕日を指差して、男の子に近づいて行った。首を振る息子の頭を、なだめるようにポンポンと叩く。

 聞こえなくても、彼らの会話の内容が、手に取るようにわかる気がした。繰り返される日常の中の、ありふれた一コマ。他愛ない平凡な幸福の縮図だ。けれど、そんなありふれた光景を、渇望する人間がいる。自分の親に愛される、やさしく笑いかけてもらう。誰もが与えられているはずのその権利を、生まれながらに剥奪された人間達。祝福される存在と疎まれる存在。満たされる者と飢える者。それらが共に同じ地平に立ちながら、それでいて交わることなく回転するこの世界が、とてつもなく歪んだものに感じられて、僕は暁をそっと盗み見た。表情が読み取れない横顔で、暁はさっきの親子を見つめていた。

「暁……」

 思わず声をかけた。だけど、ゆっくりとこちらに向けられた眼差しに、僕は言葉を繋げることができなかった。ただ自分自身に問いかける声だけが、頭の中に響いていた。

(だからって、僕に何ができる?)

 僕を見ているはずの暁の瞳は空洞みたいに底がなく、同時に感情をどこかに置き忘れたかのように平面的だった。こんな目をした人々を、どこかで見たことがあると思った。

 そうだ。ナチスの強制収容所を映した記録フィルムだ。

 鉄条網の向こうから、じっと外を見つめるユダヤ人収容者たち。極限の飢えと目の前で繰り返される虐殺。生きのびるためのルールが何ひとつ見つけられない日々の中で、ゆっくりと始まる精神の死滅。何も見ない。何も感じない。それが、彼らにできる唯一のこと━━。

「……それで、ようやく役所の人間が来たみたい」

 上から降ってきた話し声が、僕の思考をひき剥がした。反対側を見上げると、すぐ近くで買い物カゴをさげた中年の主婦らしい女性が二人、立ち話をしていた。彼女達はそれぞれ小型犬を連れていたけれど、散歩よりももっぱらおしゃべりの方に熱心なようで、紐に繋がれた犬達は窮屈そうに円を描きながらお互いをつつき合っていた。

「担任の先生が児童相談所に掛け合ったみたいよ。痣や怪我があんまりひどいから、虐待に間違いないと思うって」

 無言の僕達の耳に、会話の内容は否応なく入ってきた。虐待、というひと言に、暁が大きく反応した。

「最近、そういうの多いわねぇ。かわいそうに」

「けど、実際、そういう子が身近にいたとしても、なかなか助けてあげられるもんじゃないし……」

「そうよねぇ、子供を虐待するような親でしょ? 下手に口出しなんかしたら、何されるかわからないって恐さがあるわね」

 暁は、能面のような顔で、身動きひとつせずに前を向いていた。色を失くした唇が微かに震えているのに気づき、僕は腰を上げた。こんな話は聞きたくないし、暁に聞かせていたくもない。行こう、と声をかけようとした時、そのままの姿勢で暁が言った。

「あんた達だって共犯だ」

 声がひび割れていた。主婦達は、反射的に暁の方を見たけれど、今の言葉が自分達に向けられたものとは思っていないようで、きょとんという表情をしていた。

「暁」

 僕の声を無視して、暁はふらふらと立ち上がり、彼女達を正面から見据えた。宵闇がすぐそこまで近づいていたけれど、月の気配はまったく無かった。それなのに暁の顔は、凍えそうに冴え渡った月光を吸い込んでいるかのように蒼白だった。

「かわいそう、だって?」

 ゆっくりと暁は口を開いた。

「関わりない場所から同情ふりまいて、気持ちいいだろ? 優越感刺激されて大満足かよ」

 主婦達の顔が強張り、屈辱と怯えがない混ぜになった警戒の色が浮かんだ。飼い主の敵と判断したのか、足元にいた二匹の犬が暁に向かって激しく吠え出した。

「暁、やめろ」

 僕は暁の肩をつかんだ。その腕を邪険に払いのけると、暁は斜面の石段を駆け上がって行った。

「何よ、あの子」

 緊張の糸が切れたように、主婦が憤懣の声を上げた。追いかけようと走り出した僕の背後で、「ちょっと危ないんじゃない」と、あてつけるみたいにもうひとりが叫んだ。犬達はまだけたたましく鳴き続けていた。

 さっき初めて通ったはずの道を、暁は迷うことなくひき返して行く。

 共犯。主婦達に投げつけられたはずのその言葉は、まっすぐに僕を刺した。夢の中で走る時のように、アスファルトの地面がぐにゃりとふやけていく感覚に、何度もつまずきそうになる。それでも僕は必死に自分を支えた。一切を拒絶して、自らの闇の中に駆けていくような背中が、今はなによりも心配だった。過去の亡霊のような暁の存在が、過去に捉われ崩れそうになる僕に歯止めをかける。皮肉な話だ。

 赤信号の交差点で、追いついた。暁は、隣に並んだ僕に一瞥もくれようとはしなかったけれど、青に変わっても走ろうとはせず、唇を固く閉じたまま足早に歩いた。

 アパートに戻り、乱暴に靴を脱ぎ捨てると、暁は洗面所に飛び込んだ。蛇口から水しぶきが勢いよく跳ねる。

「大丈夫か」

夢中で手を洗う暁に声をかけると、電気が走るように鋭く全身を尖らせた。

「近寄るな」

 どうすればいいかわからず、暁の後ろ姿を見ていたけれど、しかたなく居間に入った。ブルゾンを脱ぎかけた時、台所で音がした。暁が、流し台の下の扉を開けていた。駆け寄ろうとした僕を、低く呻くような声が押しとどめた。

「来るなよ」

 暁は包丁を持った右手をだらりと下げたまま、流し台にもたれてうつむいていた。

「落ちつけよ、落ちつけ」

 自分の声が、他人のもののように響く。顔を伏せた暁の体が、小刻みに震えていた。

「何のために生まれたんだ」

 ロボットのように平面的な口調が、空気を凍りつかせる。

「くだらない奴のうさ晴らしのためだけに、殴られて蹴られて。生きるも死ぬも、そいつら次第か」

 落ちつけ。今度は、僕自身に言いきかせた。

「誰も、助けてなんかくれやしない」

 暁が顔を上げて僕に言った。

「あんたも」

 違う。僕は首を振ろうとしたけれど、どこかで別の自分が囁いた。何が違う?

 暁はそんな僕の心中を読むように、ゆっくりと頷いた。

「殺されたって、少しも世の中に影響しない。せいぜい誰かの噂話のタネになるだけ。飽きたら、そこで終わり。無関心にフタされてバイバイ。そんな人生、意味あんの」

 包丁を持った暁の手が上がる。僕が飛びかかろうとした時、笑い声が空気を裂いた。暁は自分の首筋に包丁をあてながら、薄笑いを浮かべて僕を見た。唇の片側がひきつれたようにつり上がり、瞳だけが作りものみたいに動かない。

「違う」

 僕は怒鳴った。

「違うんだ、暁」

 僕は無力だけど、無関心じゃない。その二つは、断じて同じじゃない。僕は、きみたちから目を逸らしたりしない。昨日、別れ際に杉田医師が言った言葉を思い出して、僕は自分を奮い立たせようとした。けれど、それがどれほど危ういものの上に成り立っているのか、僕自身が一番よく知っていた。

「死なないよ」

 暁は言った。

「あの女を、この手で殺してやるまではね」

 包丁を放り出し、暁は電池が切れた人形のように、床に膝をついた。慌てて飛び出した僕の腕の中に倒れ込んだ暁は、意識を失っていた。

 暁を腕に抱えたまま、その場に座り込んでいた僕は、少ししてようやくひと心地がついた。抱き上げてソファに運んでも、暁は目を覚まさなかった。悪夢に苛まれるように顔を歪め、苦しげな声を洩らす暁の肩に、僕は布団を掛け直した。なんとかしてやりたいと思う気持ちの隙間から、自分の手にはとうてい負えないんじゃないかという思いがこぼれ出てくるのを、僕は懸命にやり過ごした。

 翌朝、目を覚ました暁に、努めて何気ないふうを装って声をかけた。

「ようやく起きたな」

 暁は墓場の中から這い出るようにして体を起こすと、しばらく頭を抱えていた。

「頭痛がするのか?」

 暁は浅く頷いた。僕は救急箱から薬を取り出して、冷たい水と一緒に暁の前に差し出した。暁はそれを受け取ると、目を閉じたまま喉に流し込んだ。

 昨日のことについて、僕は一切触れずにいたが、暁もまた、何も口にしなかった。

「朝メシは?」

 だるそうに首を振る暁に、僕は言った。

「じゃあ、悪いけど急いで出かける用意してくれ。今日は二限から授業があるから、九時半には家を出るんだ。あと三十分しかない」

 僕の言葉の意味を測りかねるように、暁は眉間に皺を寄せた。

「早くしろよ」

言いながら、ジーンズとチェックのシャツを暁の横に置いた。

「出かける用意って……」

「一緒に大学に行くんだよ」

「どういうこと?」

「何が」

「なんで、俺があんたと一緒に大学に行かなきゃいけないのさ」

「お前はとにかく危なっかしいから、野放しにしておけない」

 何か言い返そうとした暁の眼前に人差し指をつきつけて、僕は言葉を重ねた。

「俺は昨日、バイト先をクビになったんだ。しばらく休ませてほしいって電話したら、もう来なくていいってさ。大事な収入源を失くした俺に少しでも同情する気があるんなら、ちょっとは言うこときけよ」

「休んでくれなんて頼んだ覚えない」

 その言い方に、さすがにムッとした。

「そうかよ。じゃあ勝手にしろ。ひとりで母親を探しに行って、さっさと警察に捕まっちまえ」

 言葉に詰まった暁を尻目に、僕はテキストを鞄につめ込んだ。暁は黙って僕をにらみつけていたけれど、いまいましそうに舌打ちをすると、着ていたトレーナーを脱ぎ捨てた。

 九時半ジャストに僕達はアパートを出た。暁を電車に乗せるのは心配だったので、車を使った。今日は、大学近くのコインパーキングを利用するしかない。車中で、暁は不機嫌な顔を崩さず、ずっと窓の外を向いていた。さっきは少し言い過ぎたかとも思ったが、謝るには僕も意地になっていた。

 大学の門をくぐると、暁はキャンパスの広さに驚いたようで、周囲の建物や行き交う学生達へせわしげに目を走らせていた。

 まっすぐ学食に向かい、入口から薫の姿を探した。今朝早く、薫に電話をかけて土曜と日曜のことを話し、二限の講義の間、食堂でこっそり暁を見張っていてくれるように頼んであった。今日は三限まで授業があるが、二限さえ受けられればあとは欠席しても差しつかえなかった。薫は一限と三限なので、僕のずうずうしい頼みを快く了承してくれた。

 窓際の席に座っていた薫が、読んでいた本から顔を上げ、さりげなく僕を見た。そっと目線を返すと、僕は薫から二つテーブルを隔てた窓際に暁を座らせ、ホットミルクを買ってきた。

「悪いけど、一時間半だけここで待っててくれ。授業が終わったらすぐに迎えに来るから」

 暁は仏頂面のまま頷いた。反応を見せてくれたことにホッとする。暁はミルクを一口飲むと、睨むように僕を見上げた。

「何見てんのさ」

「猫舌じゃないんだな」

 眉をひそめる暁に「何でもないよ」と言ってから、あとは薫に任せ僕は教室へ急いだ。

 暁のことが気になって講義には少しも集中できなかったけれど、とにかくノートだけはとった。何度も腕時計を見ながら、じりじりと時間が経つのを待つ。授業が終わると、教授とほぼ同時に教室を飛び出した。昼食時なので、学生が食堂になだれ込む前に暁を迎えに行った方がいい。僕は人の波をよけて長い廊下を走った。

 息を切らせて食堂に戻ると、暁と薫の他にまだほとんど学生はいなかった。暁は所在なげに頬杖をついて、窓の外に目をやっていた。こっちを見ている薫に素早く目配せして、僕は暁のところへ行った。

「待たせて悪かったな」

 顔を上げて僕を見た暁の顔に、安堵の色が浮かんだ。けれど、次の瞬間にはすっと目を伏せる。

「別に」

 暁のそんな反応は、ほんの少し僕をせつなくさせた。

「行こうか。昼メシは外で食おう」

 暁が立ち上がろうとした時、背後から「高久」と呼ばれた。あ、と思った。確かめるまでもない。

 可奈子が訝しげな顔で、僕と暁を見つめていた。

「よぉ」

 なんてタイミングだと歯がみしながら、僕は内心の動揺を押し隠して、なんとか笑顔を作った。

「土曜日はごめん」

「それはいいけど……」

 答えながら、可奈子はもう一度暁に視線を投げた。

「父方の従兄弟だよ。暁っていうんだけど、事情があって今ちょっと俺んトコにいるんだ」

 とっさに、早口で説明し、暁に向かって、「瀬戸可奈子さん」と紹介した。

 可奈子は少しとまどいながらも、目の前の少年に向かって、年上らしく笑顔で「はじめまして」と挨拶をした。けれど暁は、見知らぬ人間への警戒心を剥き出しにしたまま、わずかに上半身を引いて上目づかいに可奈子を見上げた。

「ごめん、こいつ、ひどい人見知りなんだ」

 僕はその場を取り繕うように言った。可奈子は暁の反応に困惑した表情を浮かべていたが、確かに事情がありそうね、とでもいいたげな顔つきで、僕の方へ向き直った。

「また電話するわ」

 食堂を出て行く可奈子の背中を見送りながら、僕は大きく息をつき、うしろめたい思いを吐き出した。暁は黙ったままで、僕も何も言う気にはなれなかった。

 とにかく早々に大学を出ようと、暁を連れて出入り口に向かった時、医学部の学生二人が食堂に入って来た。白衣の彼らを見て暁は大きく肩を揺らし、僕のうしろに身を隠すように立ち止まった。家でひとりにさせるよりはいいと思ったけれど、やっぱり連れて来ない方が良かったかもしれない。

「暁、大丈夫だから」

過敏になっている暁に手を触れないように、ゆっくりと外へ出た。ガラス越しに窓際を見ると、いつのまにか薫の姿は消えていた。

 その晩、暁がシャワーを浴びている間に、僕は杉田医師に教えてもらった病院の内線へ電話をかけた。ちょうど当直だったらしく、杉田医師が直接電話を取った。先日の礼を言ってから、僕は土曜日からの出来事を彼に説明した。

 杉田医師は、本人に会ってみない限り、断定的なことは言えないと前置きしたうえで、話の内容から推し測ると、水月という少女が交代人格であることは充分考えられ、多重人格障害の可能性が高くなったと言った。

「病院に連れて行くのは、今のところ難しいと思うんです」

 僕は医学生とすれ違った時の暁の反応を話した。彼は、無理強いは禁物だと僕の意見に同意し、『何かあったら、いつでも連絡を下さい』と言ってくれた。

 電話を切ると、浴室から微かに水音が届いた。僕は救急箱を開け、ガーゼと消毒薬がまだ残っているかを確認してから煙草を吸った。


「昨日は悪かったな。助かったよ」

 大学の正門前にあるカフェで、奥の窓際に友人と座っている薫に声をかけた。昼食時、この店を利用する学生は多く、今もあちらこちらにテキストをかかえた連中がひしめきあっていた。

「おつかれ」

 食事はもう済んだらしく、薫はコーヒーを飲んでいた。

「帰るのか?」

「ああ。今日は二限までなんだ」

 声だけかけて帰るつもりだったが、薫の連れが先に帰ったので、とりあえず腰を下ろした。薫はカップを置き、僕を見た。

「俺も話があったんだ。時間、大丈夫か」

「少しなら」

 時計を見て、ウェイターにアイスコーヒーを頼んだ。

「彼女の様子はどう?」

「だいぶ落ち着いてるよ」

「そうか」

「昨日、俺がいない間、どんな様子だった?」

「居心地が悪そうだったな。手の平の汗を、膝の上で何回も拭ってた。それ以外は、ずっと窓の外を眺めてたよ」

 考えるように首をわずかに傾け、薫はつけ足した。

「お前が言ってたとおり、中性的な印象なのに、不思議と男にしか見えないね」

「ああ」

 そこに暁の病理が表れているのだろうと僕は思った。薫は何も言わなかったけれど、たぶん同じことを考えている。

「話って?」

 薫は、シャツの胸ポケットから、プリントされた例の新聞記事を出して、テーブルに広げた。

「彼女の母親は、病院から失踪したあと、警察に発見されてるよ」

 僕は目を見開いた。薫は小さく頷き、低い声で先を続けた。

「任意同行で事情を聞かれてる。事件の当日母親が外出してたことは裏が取れてるし、話の内容も疑わしいところは無かったみたいで、一応は保護責任者遺棄で書類送検されてるけど、まぁ、事実上は無罪放免ってやつ。これも、よくある話さ。パチンコ中に車内で子供を死なせても、遺棄致死罪の適用がやっとだからね。ホント、たいした親権天国だよ、この国は」

 最後は吐き捨てるように薫は言った。

「どうやって調べたんだ? 容疑者は逮捕されてるし、新聞にはその後の母親のことまでは書かれてなかった。ネット検索でもヒットしなかった」

 薫は腕を組んで椅子にもたれかかると、上目づかいに僕を見た。

「奥の手」

 にっこりと笑う薫を、僕はまじまじと見つめた。新聞社や警察関係者に対して、コネか権力を持っている者じゃなければ、こんな奥の手は使えない。高校時代、薫をとりまいていたいくつかの噂を思い返す。今までほとんど考えたことのなかった彼の背景が、少し見えたような気がした。薫は笑みを消して、記事を指先で弾いた。

「母親は、アルコール依存症になり始めてたらしい。街中で酔っぱらって、一緒にいた男とつかみ合いのけんかをしだしたのがきっかけで、警察に見つかったんだ。息子が死んだことを刑事から聞かされた時、言葉もなく泣いてたそうだよ。だけど、そのあとすぐに、また姿を消した。多重人格なら治る可能性もあるんだろうけど、こういうのは不治の病だね。いつまでたっても同じことをくり返すんだ。どうせ最後は誰かに刺されるか、どっかの露地でのたれ死ぬさ」

 マーケティングリサーチの結果を報告するように、抑揚のない声で薫は告げた。

「彼女に知らせる?」

 訊かれて、僕は口ごもった。暁の母親がしたことは、保護責任者遺棄なんて言葉で片づけられるような罪じゃない。司法の手で厳然たる裁きが下されるのならまだしも、現実には無罪放免だ。それなら、彼女の兄の死はどうなるのか。わずか六年しか生きられず、恐怖と苦痛だけを与えられた人生。そこに一体どんな意味を見出せというんだろう。どんな人間なら、納得のいく答えを導き出すことができる?

「今は、まだ話さないほうがいいと思う。少し落ちついたところに、またひどい動揺を与えるだけだろ」

「俺もそう思う。だけど、彼女……彼か。ややこしいな。暁の中で母親への憎悪が消えない限りは、いつまでもごまかしきれるもんじゃないよ」

「俺は……暁に親への憎しみを取り去ってもらいたいんだよ。たとえ母親を殺したって、兄貴が生き返るわけじゃないし、彼女を襲った過去だって消えやしない。今の暁は憎しみだけを心の糧にしてるけど、そんなのは結局、あいつの苦しみを増幅させるだけだろ。なんとか過去の亡霊から自由になって、先を見てほしい。母親を探してみるなんて口実で、家に引きとめたのだって、そのためだ。だけど」

 僕は言葉を切って息をついた。

「彼女と、本物の暁をあんなふうにした両親を、二人に代わって裁いてくれる誰かなんて、どこにもいやしないんだな」

 今のままじゃ、彼らはどうしたって救われない、僕はアイスコーヒーのグラスの中で溶けて小さくなった氷を、ストローでかき回した。

「誰のための法律、何のための福祉なんだよ」

 僕の呟きに、薫は肩をすくめた。

「そんなことをまともに考える人間が政治家や官僚に少しでもいたら、この国はもっとましになってるよ」

「法は家庭に入らず……意味わかんねーし」

 薫はコーヒーカップの縁を人差し指でなぞりながら、片頬を歪めて笑った。

「現行法なんて、絵に描いた餅。児童虐待の問題が深刻化して何年になる? 少年法もおんなじ。基本的人権なんてレトリック連ねちゃって、この国で実際に人権与えられてんのは、親と未成年と犯罪者。親にすがるしか生きる道がない幼児を、内臓破裂や頭蓋骨が陥没するまでメッタ打ちするような人間に、なんで殺人罪が適用されないのか、不思議でしょうがないね。そんなことすれば死んじまうなんて、フツーわかるって。未必の故意なんてなま易しいもんじゃない。明らかに殺意ありだろ。それでも傷害致死なんて、お慈悲に満ちた判決、あとを絶たず。政府も最近になって、ようやく重い腰を上げ始めたけど、対策法案が施行されるまでが長すぎ。お偉方が、議会の椅子にふんぞり返って、欠伸まじりにうだうだやってる間にも、生きるか死ぬかの目にあわされてる人間が何人もいるのに、すぐ立ち上がるには、まだまだ死体の数が足りないみたい。まぁ、ピカピカの高級車に乗って、安全を保障されてる連中にとって、そんなこと、どーでもいいって」

 皮肉めいた声の調子は一貫して冷静なのに、薫の目には抜き身の刃のような凄みがあった。

「どうしようもなしか」

「どうしようもないし、俺達には何にもできないね。今のところは」

 自嘲まじりに薫は言った。

 誰も助けてなんかくれやしない。暁の声が、耳をよぎった。

 昂ぶる感情をもてあまして、僕はガラス窓の外を見た。十センチ以上ありそうなヒールを履いた若い女が二人、歩道橋の脇にベビーカーを寄せて、煙草を吸っていた。

 赤ん坊を連れてる時ぐらい、普通の靴を履けばいいのに。階段で足踏み外したら終わりだろ。胸の内で呟きながら、苛立ちが足元を這い上がってくるのを感じた。

 人間の子供っていうのは、自然の法則からはずれたところで、なんて不公平で危ない綱渡りをさせられているんだろう。どんな親のもとに生まれるかで、スタートラインから歴然とした差が生じる。母親が履いた靴ひとつで、いともたやすく生命の危険にさらされる無力さと心もとなさ。

 昨日、河川敷で親子連れを眺めながら湧き上がった思いが蘇り、この世のあらゆる不平等に対するやるせなさが、何の力もない自分のちっぽけさへの嫌悪に変わった。暁と水月に感情移入すればするほど、のしかかる現実に、僕は押しつぶされそうな気がした。

「うんざりだな」

 自暴自棄な思いが声になった。

「高久」

 窓ガラスから顔を離すと、薫が射るような目で僕を見ていた。

「共倒れするな、って言っただろ。過去に縛られてるのは、暁だけか?」

 薫は正面から僕を見据えたまま、きっぱりと言った。

「深入りするなよ。手を引くなら今だ」

 思わず、笑みがこぼれた。

「もう遅いよ」

「そうか」

 それ以上、薫は何も言おうとはしなかった。

 薫と別れて店を出てから、僕は携帯でアパートに電話をかけた。二回コールで一度切って、再び番号を押す。それが僕からの合図だった。それ以外の電話はとらないように言ってある。

 暁はなかなか出なかった。呼び出し音にじりじりと不安が募る。ようやく繋がっても、電話の向こうは無言だった。

「『もしもし』ぐらい言えよ」

「……なに?」

「昼メシ一緒に食おうって言ってたのに、遅くなってごめん。今から電車に乗るから」

「わかった」

 あいかわらず声を出すのが苦痛でたまらないかのように、必要最低限の単語しか返してこない。いつかは、笑顔を見せることがあるんだろうか?

 電話を切ると、僕は駅へ向かった。

 電車から降りて改札をすり抜け、急ぎ足で歩く。アパートまであと二分という辺りで、電柱横に置かれた段ボールに入れられた、一匹の仔猫を見つけた。白黒ぶちの、ありふれた雑種だった。生後一ケ月というところだろうか。ひどく痩せてて毛並みも悪かったけれど、体中ぶちの中で四肢の先だけが地下足袋を履いているように白く、妙に愛嬌があった。立ち止まった僕の顔を見上げて、赤ん坊みたいな声でしきりに泣き続けている。

 僕はしばらく迷っていたが、タオルが敷かれた段ボールの中から、そっと仔猫を抱き上げた。僕のシャツの布地に必死に爪をひっかけて、上へよじ登ろうとするのをなだめながら、歩調をゆるめて歩き出した。アパートは動物禁止だったが、隣は空き部屋だし、注意すれば大丈夫だろう。

 自分が手を差しのべなければ、生きていけない存在が目の前にあることが、少しでも暁に変化をもたらしてくれたなら。暁の精神にとって、何らかのきっかけを与える可能性があるのなら、どんなにささいなものでも試してみたかった。

 アパートに帰ると、暁は文庫本をパラパラと捲っていた。前に、本棚の本は好きに読んでいいと言ったけれど、その時は見向きもしなかった。例え見ていただけにしても、他に目を向けたというのはいい傾向だと思った。同時に、この部屋で暁がどれだけ自分をもてあましているか、わかる気がした。

 暁は僕の腕の中にいる仔猫を見て、少し驚いた顔をした。

「どうしたんだよ、それ」

 胸元でおとなしくなった仔猫の喉を指でなでながら、僕は言った。

「アパートの近くに捨てられてたんだ。目が合っちまったんで、連れてきた。家主にバレたらまずいから、なんとか見つからないように飼おう。俺が大学に行ってる間、世話を頼むよ」

「世話って……」

 僕は仔猫を暁の顔に近づけた。

「まだ生後一ケ月ぐらいだろ。離乳食の時期に入ったばっかりだろうから、メシはパンを牛乳でひたしてやったり、トイレだってこれから躾けていかないと」

 暁は、あからさまに迷惑そうな顔をした。僕はめげずに、仔猫の透き通ったビー玉みたいに淡いブルーの目を見ながら言った。

「名前は『ラムネ』ってのどうだ? こいつの目の色、そんな感じだろ」

「知るかよ」

 背中を向け、ふてくされたようにソファに寝そべる暁に、僕はむかっ腹が立った。お前のためにやってるんだろうが……。そんな恩着せがましい台詞が口をついて出そうになり、僕は自分を静めながら、ラムネを抱いて台所に行った。

 牛乳を皿に入れてやると、ラムネはがっつくように飲み始めた。首の後ろをなでてやりながら、僕は小声で「あいつと遊んでやってくれよ」と、言った。

 夜中、ラムネを布団に入れて一緒に熟睡していた僕は、肩を揺さぶる手に眠りを破られた。

「高久、ねぇ起きてよ」

 眠りを半分引きずったまま、僕は仰向けになって目を開けた。暁が至近距離で僕の顔を覗き込んでいる。僕は布団を跳ねのけて上半身を起こした。

「びっくりした?」

 机に置かれたライトスタンドのオレンジの光の中で楽しそうに笑う顔を見て、僕は頭を掻きながら呟いた。

「水月……?」

「当たり」

 景品でもくれそうな軽い口調で返事をする。

「……どうしたんだよ、こんな夜中に」

 僕の問いかけを無視して、水月は布団で丸くなって眠るラムネの体をさすった。

「一昨日は大変だったね、高久。暁が自殺しちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかったでしょ」

 僕は布団の上に座り直して、欠伸をした。

「参るね、包丁を首筋にあてるなんて真似されりゃ」

「暁は大丈夫よ。あたしが見張ってるから。勝手に死んだりされちゃ、あたしも彼女も困るもん」

「暁の行動を抑えることができるのか?」

「全部じゃないけどね。前にも言ったけど、暁はあたしの存在に気づく心の余裕がないから、当然こっちの声も聞こえないの。だからあたしの力が届くのは、暁が本当に危ない時だけ。それも、暁の存在があたし以上に大きくなっちゃうと、ダメかもしれないけど。人格同士の間にも、力関係があるのよ」

 窓の外から犬の遠吠えが聞こえ、それに反応するように、ラムネは眠ったまま耳だけを動かした。

「かわいい」

 目を細めて何度もラムネをなでてから、水月は僕の顔を下から見上げた。

「やさしいね、高久。暁のため?」

 どこか寂しさを含んだような口調以上に、じっと見つめてくる瞳の中に、僕をとまどわせるものがあった。

「猫一匹でも、いないよりはましだろ」

「そうね」

 水月は小さく笑った。

「それって、あたしの秘策よ」

「秘策?」

「あたし達の、かな。お父さんは、自分を捨てた妻への憎悪を、いろんな形で娘にぶつけてきたから、あたしと暁の妹は、生きるためのコツが必要だったの」

 立てた膝の上に顎を乗せて、水月は両手を組んだ。

「毎日、少しでもましなものを見つけること。今日は怒鳴られたけど、殴られるよりはまし。押しつけられた動物の世話をするみたいに食事を与えられたけど、食べられないよりはまし……そんなふうにね。まぁ、その場しのぎのごまかしだけど、それこそ、しないよりはましだったのよ」

 僕は何も言わずに水月を見た。目をそらせなかった。

「男の人に抱かれるようになってからは、あたしはこう考えるようにしたの」

 水月は言った。

「これは、安物の毛布だって」

 水月が渇いた声で笑った。

「その場しのぎの安物でも、ないよりはまし。そのうち、もっといいものを探すんだって、心の中で繰り返してた。あたしを、ホントに暖めてくれる毛布を」

 水月は立ち上がると、ソファに腰掛けた。

「こっちに来て」

 少しの躊躇のあと、僕は隣に座った。水月は僕の胸にもたれかかってじっとしていたけれど、ふいに体を伸ばし、キスをした。

「抱いてもいいよ。泊めてもらってるお礼」

 十五歳の女の子相手に、心臓が情けないくらいに波打った。それでも、僕はなんとか冷静な声を出した。

「そんな必要ないよ」

「どうして?」

「きみがそんなこと言う必要も、理由もない」

 肩におかれた水月の手をそっと離して、僕は言った。

「もう寝なよ」

 自分の布団に戻った僕に、水月は何か言いたげに唇を微かに動かしたけれど、ほんのりとした微笑を浮かべて横になると、「またね」と言って背を向けた。

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