7.単なる人間観察だよ

 ドクター・ウィルソンの部屋から出てきたマシューは、楠見を一瞥すると、その肩を押して研究室を出るよう促した。

 そのまま押しやられるようにして、キャンパスの片隅の喫煙所にやってくる。

 そろそろ日も暮れかけ薄暗闇に包まれたキャンパスだったが、夕方になってまた降り出した雪がさらに積もり、電灯や建物の窓から漏れる明かりを反射してほのかに周囲の視界を保たせていた。


「休暇はどうやって過ごすんだい」

 顔を伏せ、ライターを風から庇うようにしてタバコに火をつけながら、唐突にマシューはそう訊く。


「大して予定はないよ」楠見はポケットに手を突っ込んで、マシューの吐き出した白いものが息なのか煙なのかとぼんやり目で追いながら、答えた。「人に会う約束が二、三あるけれど、あとは大人しくしているかな。年明けすぐに何本かレポートを出さなけりゃならないから、その準備もあるしね」


「家族に会いに行ったりしないのか?」

「家族は日本だし、もう何年も会ってない。でも来年の五月か六月には帰るんだから、いま慌しく帰るのも面倒だ」

「なんだい。その孤独な休暇の過ごし方は」

 マシューは呆れたように言った。


「孤独でもないよ。毎年この季節にさ、ボーディング・スクールの同窓生で集まるんだ。まあだけど、正直言ってこれが、気が重い。孤独な年末年始のほうが気楽だな」


 小さくため息をつくと、マシューはさらに訝しげに眉を寄せた。

「なんで気が重いんだ。懐かしの対面じゃないのかい? 嫌いなヤツでもいるのか?」


「そうじゃないよ」楠見は笑う。「みんないい友達だけどさ。ただぶっちゃけて言うと、話が合わないんだよな。年々ますますそう思う」


 マシューは少し考えるように楠見の顔を見つめていたが、やがて白い煙を吐きながら、「なるほどな」と一言つぶやいた。


 決められたゴールに間に合わせるために、高校時代から大学の単位を先取りし、来年には博士課程を修了して帰国しようという楠見。同級生たちはようやく大学卒業を目前にし、自由に進路を選び取り、可能性に満ちた将来に夢を膨らませている時期だ。

 普段身の回りにいて会話をする相手が年上ばかりということもあり、あまり同年代と会話する機会もない楠見としては、曲がりなりにもボーディングスクール出身のエリートたちである元クラスメイトを子供っぽいと感じることこそないものの、のんびりと自由に青春を謳歌している彼らはどことなく別世界の人種のように感ぜられ、ただ眩しく見えた。


 マシューは楠見のそんな屈託を察したのかもしれない。

「気が重いなら、行かなければいいものを。別に強制参加ってわけじゃないんだろ?」


「まあね」楠見は苦笑する。「だけど来年からはたぶんそうそう出られないからね。最後に一度、顔を見せておくよ。忘れられないようにさ」


「ふむ。まあそれがいいだろうな。将来のアメリカ政財界を負って立とうって、エリートの卵たちだろ。繋がりを保っておいて損はない」

「そう……それでなくても俺は交友関係が狭いしね」


 笑って白い息を吐き出した楠見。喫煙所のベンチは雪に埋もれかけており、代わりにいくらかマシな、テラスを囲むフェンスの上の雪を払い落として、そこに腕を載せ寄りかかる。

 早くに日本を出、可能な限りの速さで博士課程まで来たことの、弊害だった。年齢や学歴に見合った交友関係や、特定の集団の中での自分の地位、役割。そういったものを築くことが、できていない。そう楠見は自覚していた。


――本当の居場所。


 唐突に、キャシーの言葉を思い出す。


 これから日本に帰って。自分は日本でその場所を見つけ、そこに自分の使命や、生きがいや、ともに生きる同志や、あるいは安息といったものを得ることができるのだろうか。

 アメリカで生活してきた八年間、ぼんやりと心のどこかにあったそういう種類の不安は、帰国が近づくにつれ次第にその重さを増していた。


 学校という場所は、一時いっときの身の置き所に過ぎず、学生時代は通過点でしかない。輝ける青春の時間。それは人生の比較的早い段階で区切りを迎えるものであり、この場所に留まり、その特権と快楽を享受し続けることはできない。

 その分別と諦観を、誰しも、多かれ少なかれ頭の片隅に置いて学生生活を送っているのだろうが、日本を追い立てられるようにして単身アメリカに渡り、最初から期限の切られた「学生時代」を全速力で駆け抜けてきた楠見には、その思いはおそらく他人よりも強い。


 常に、今いる場所に身を浸しきることなく。先へ先へと追われるように。生き急いできた自分。

「本当の居場所」とやらを探さなければならないのは、自分なのだと楠見は思った。


「年明けに、キャシーへの実験を開始するよ」

 マシューが唐突に、煙を吐き出すのと変わらないくらいのさり気なさで言った。「予備実験は休暇中に行う。それで問題なければ、学期セメスター開始と同時に公開実験だ」


 春学期の開始は一月の半ば。公開実験まで三週間足らずしかないが、そこから大学が閉まってしまうクリスマスからニューイヤーにかけての期間を除けば、さらにタイトなスケジュールになる。

 研究室のほかの者たちの予定を考慮していないスケジューリングだが、マシューとドクター・ウィルソンはそれで良しとするのだろう。あるいはブライアンやほかの研究室の連中に、異を唱える隙を与えないための策か。


「クスミ。休暇中に旅行の予定がないなら、ちょうどいい。きみにはできれば、予備実験から立ち会ってもらいたいんだ」


「俺は……」楠見は返答の言葉を探す。実験に立ち会うことに、否やはない。実験が、このまま行われてしまうのならば。だが、諾と返しては、実験の決行を積極的に認めることになってしまう。


 マシューは複雑な面持ちで返事を待っていたが、やがて一際深くタバコを吸い込むと、大きく煙を吐き出して宙を見上げた。

「まだ反対するか」煙の行方を追うように、中空へと視線をやって目を細める。「研究室のメンバーもな、最終的に、反対する者もいるだろうが――だが、彼らを論破することはできるよ。不満の残る者がいても、それは無視させてもらうさ」


 けどな、とマシューは、楠見のほうへと視線を向けぬまま続けた。


「けど、何故だかな、クスミ。お前さんには、ちゃんと賛成して欲しい」


 楠見は、マシューの感情のうかがい知れない瞳へと目を向ける。

「賛成とは言わないまでも、せめて『勝手にやったらどうだい』くらい言わせたい」

「……なんだ、それは」


「さあなあ」と、マシューは笑う。「どうも今ひとつ、理屈で説明がつかない。けれど、お前さんに反対されたままではいけないような気がするんだ」


 そう言って、マシューは真面目な顔で楠見を見た。

「ひとつに」白い煙を吐き出して。「お前さんは、最初に出会ってから一度も、キャシーの能力を疑っていない」


 ドキリと胸が鳴った。

「そんなこともないよ」動揺を隠して、楠見は否定を試みる。「バーで実験したとき。ほら。トリックだろうって……」


「違うな。あれは周囲に注目されすぎるのを恐れてのことだろう。咄嗟にそういう行動を取るのも、せん」

「いや、それは……」

「お前さんは、キャシーが本物だということを、わずか数回のテストで――何百回もの実験を経ずに見抜いたんだ」

「まさか。いまだに半信半疑だよ」


 肩を竦めるが、マシューは構わずに続けた。

「その前に、おれはESPカードをお前さんに渡した」


 楠見はそのときのことを思い返す。何か問題があっただろうか?

 その内心を覗き込むように、マシューは目を細めた。


「俺の知る限り、お前さんは超心理学の研究室にいても、いつも見ているだけだ。直接テストにタッチしたことはない。違うか?」

「――いや。ないな」

「だろう。俺たちにゃお馴染みのESPカードだが、お前さんが手を触れているところは見たことがない」

「ああ、そうだ」

「にも関わらず、お前さんは、カードを手渡されてごく自然に『裏側』を確かめた」

「……そうだったかな」

「カードの裏側に細工をして、被験者がマークを知ることができるようにする。これは古典的なトリックだ。だから慣れた研究者はほとんど無意識に、裏を確認する」


「たまたまだよ」楠見は笑顔を作った。「トランプをやるのと同じさ。カードがおかしなものじゃないか、ちょっと見てみただけだ」


 苦しい言い訳だとは感じたが、マシューは黙って数秒間、楠見の瞳を見つめただけで、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。しかし。

「『普段の能力を、公開実験の場で発現させるのが難しい』――あれは、どういう意味だ?」


「……なに?」

「本物の能力者に対する実験を、知っているような口ぶりだったじゃないか」


 確かにそれは、思わず口から出てしまった言葉だった。言った楠見本人も今まで忘れていたような発言に、マシューはずっと引っ掛かっていたのだろうか。


「……だって、そうだろう? リラックスした場面で高得点を出す被験者でも、緊張すれば不調はあるし。それは、これまでの研究でも分かっている」

「そう。そうやって、いま俺の言うことを片っ端から躍起になって否定するのは、どういうわけだろうな」


 ますます目を細めて覗き込むマシューに、楠見は大きくため息をついた。「一体なにが言いたいんだ」


「つまり、クスミ。お前さんは実際、PSIサイについて研究室の誰よりも本当はよく知っている。どういう事情でそうなのか、分からないし、考えられる合理的な理由があるとすれば――」

 マシューは、犯人を追い詰める探偵のような鋭い視線で、わずかに首を捻るようにしながら楠見を見つめる。

「以前、冗談で話していた――そう、『PSI組織の家業』とかいう……」


「ハ、まさか……信じたのかい? というか、まだ覚えていたんだ。そっちにびっくりだよ」


 内心の焦りを必死に隠しながら言う。と、マシューもニヤリと薄い笑いを浮かべた。

「まあ、そうだな。いくらPSIがどこかに存在すると思っていたって、一足飛びにそこまでは――だから、さっきも言ったがそう思う理由は理屈じゃ説明できないんだ。けど」


「なんだい?」

「お前さんがキャシーへの実験に反対していることを俺は、研究室の誰から文句を言われるよりも重く感じるんだ」


(どうやら――)楠見は内心、観念する気持ちでため息をつく。(あのときバーで。試されていたのは俺のほうだったらしい)


「驚いたな」変わらず強い瞳で見つめるマシューに、楠見は渋面で応えた。「きみもテレパスだったのか? それとも予知能力プレコグニションかな」


「単なる人間観察だよ」

「俺には足りないらしいよ。ジェシカに言われた」

「まだ若いんだろう」

「来学期はもう少し、臨床の講義を取ろうかな」


 そうさ。俺はサイを知っている。あの話は、本当だよ。だから、この実験が上手くいかないだろうということも。万一上手く行ったとして、そこに待っているのがハッピーエンドでないことも。知っている。


 そう打ち明けて、この友人にどんな目で見られたって、構わないじゃないか。彼とキャシーを思い留まらせることができるなら。その思いは一層強くなり、一方で、彼は楠見の告白を受けたところで、楠見への態度を変えないだろうという確信も持てていた。

 サイの存在を、他人に明かすことになる。それにしたって、ほかの誰でもなくマシューという人間に伝えるだけならば、大した問題はないはずだ。彼は信用できる。

 だが、それでも。俺は――。


 マシューは楠見の逡巡を黙って見守り、その間に次のタバコに火をつけた。

 それでも楠見の続く言葉がないと見ると、やがて、大きく煙を吐き出して。


「けどな。お前さんにどれだけ反対されても、この実験を取り下げようというつもりもない」マシューはそう言って、いつものシニカルな笑いを浮かべた。「だから、内心じゃどれだけ反対してたとしても、『OK』と言って欲しいんだな。上っ面だけでもうべなわせようと言うのさ」


「むちゃくちゃだ」

「ああ。自分勝手な本音だよ。だからと言って、譲れない」

「研究の存続のため、だものな」


 仕方なしにつぶやいた楠見に、マシューは笑いだした。

「ハッ、クスミ、お前さんは本当に真面目だな」


「……なんだい、急に」

「研究室の存続のため。サムの栄誉を守るため。それだって本当さ。だけど、俺にはもっと切実な問題があってな」


 笑うマシューに、楠見は怪訝に眉を顰める。


「キャシーだよ。彼女を愛しているんだ」笑いながら、冗談みたいに軽い口調で、マシューは重い言葉を吐いた。「真剣だよ。一緒になりたい」


「分かっているよ。そうすればいいじゃないか」

 呆れたように言う楠見。マシューは声を上げてひとしきり笑った後で、くたびれたように息をついた。そして、友人の奇行が少々心配になってきた楠見に、苦笑混じりの視線を向けて。


「俺の家は、南部の旧家なんだよ」まだどこか可笑しげに。それは自嘲にも見える表情で。「爺さんの爺さんは、黒人を奴隷に使って綿やとうもろこしを育てていた家だ」


 ああ――。言わんとするところを察して、楠見は押し黙った。


「彼女を妻に迎えるんだ。そう言って紹介したところでな。家の人間たちの反応は目に見えているよ。ブライアンを非難することはできないな。知識人ぶって表には出さないが、心のどこかで差別意識を持っている。そこへ――」腕を組み、壁にもたれかかって。「キャシーを連れて帰っても、彼女を幸せにすることはできないよ。その上、彼女は高校にすらまともに行っていない。みんな上辺じゃ微笑みながら、俺や彼女の目につかないところで囁きあうんだ。あの無教養の黒人ニグロが、ってな」


 だけど、とマシューは続けた。

「この実験が成功すれば、キャシーは俺の研究パートナーだ。心のどこで彼女のことを見下していようと、無碍むげにすることはできないさ。ああ。彼女は世間に認められる。自分を見下す相手のことを、見返してやれるんだ」


 友人の、ほとんどそれは蛮勇と言ってもいいような決意に、しかし楠見は意を差し挟むことはできず、ただ黙って見つめ返していた。


「なあ? 正直、研究室だってドクターの名誉だって、二の次さ。俺は自分勝手な男だよ。この実験をやり遂げる目的は、ただ自分と彼女の将来のためさ」

 そう言って彼はまた笑い、それからやはり、笑い疲れたような力のない微笑みを楠見へと向ける。


「な。日本じゃ、こんな人種差別はないんだろう? 単一民族。単一文化で。みんな仲良くやっているのかい?」

「そんなことはないよ」


 楠見は何度目かのため息をついた。

アメリカここほど大きな問題として扱われないだけさ。差別発言をする人間が、政治家になれるような国だよ」


 そうさ。どこにだって、差別はある。人種だけじゃない。。それに対する恐れと嫌悪感。

 マシューは笑いを引っ込めて、タバコをもみ消すと、楠見と並んでテラスのフェンスにもたれかかった。


「クスミ。差別は人間の本能だよ。そうだろ」街灯が雪を照らす、その白く浮かび上がった部分へと目をやってマシューは言葉を落とした。「なあ、認知心理学者の立場から、そういう論文を書けよ。差別なんかに捕らわれる人間は、人間の高度な思考を持たない、低俗な存在だってな」


「社会心理学のチームが、差別問題を扱っていたよ」

「ハッ。温いね。みんな良い子で、お互いを認めあいましょうって? おしとやかにそんなキレイなことを言ってるから、いつまで経ったってなくならない。社会心理学者じゃない。認知心理学者や脳科学者が、もっと厳しく声を上げろよ。差別は本能だ。クソをするのと変わらない。だがな、『文化的な人間』が、他人の前で、クソを垂れるか?」


「むちゃくちゃだよ」楠見はほかの言葉も見つからずに、先ほどの言葉を繰り返していた。「だいいち、『本能』の定義があいまいだ。動物の生存と種の保存に必要な行動だと仮定して、次に、差別がそれだって、証明できない。恐れや不安や不快感は、そりゃいわゆる『本能』だろうさ。だけどそれを、社会的に他人を見下して排斥するって行動に出す必要性はないだろう?」


 マシューはしかめ面にかすかな笑みを浮かべて、フン、と鼻を鳴らした。


「第三に、品がない」楠見も顔をしかめて、言う。「差別とクソを一緒にするのは、どうかと思う。気持ちとしては賛同するけれど、論文には書けない」


 その言葉に、マシューは小さくまた笑った。


 自分の居場所を求めるキャシー。彼女に、マシューはそれを作ってやろうとしているのだ。そう考えると、楠見はそれ以上、彼のプロジェクトに異議を唱えるための言葉を失っていた。

 止めなければならないという理性は、友人の心情を察してその想いを叶えさせたいという素直な願いに、駆逐される。もはや反駁の言葉を、楠見は見出すことができなかった。

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