第2章 誰も知らない私の悩み

1.ずっと変わらないもの

「フン、フフンフン、フンフンフンフンッ」

 と機嫌良さそうに鼻歌を歌っているのは、兄のハル。三人掛けの広いソファの向かって右端に腰掛けて、手にした鋏でテンポ良く段ボールを切っていく。


 ソファの左側はというと、そこは空席。その足元、床に座りこんでローテーブルを前に、弟のキョウは難しい顔をしていた。


「ハル、これなんだ?」

 不可解そうに首をかしげたキョウに、ハルは「ん?」と鋏の動きをストップさせて顔を向ける。


「それ? ヒイラギの葉っぱだよ」

「ヒイラギ……」

「クリスマスには、ヒイラギの葉っぱを飾るんだ」

「の葉っぱ……」

「ちょっと待ってね」


 ハルはテーブルの上に置いてあったタブレット端末を引き寄せると、手慣れた動きで操作して、目的のページを表示させる。「ほら、これがヒイラギだよ」


 タブレットを見せられたキョウは、「ふうん」とつぶやいて、作業に戻った。


「ハル、松ぼっくりがある」

「うん。松ぼっくりだね」

「なんで松ぼっくり飾るんだ?」

「ん? ちょっと待ってね」


 歌でも口ずさむような調子で言って、ハルはまたタブレットを操作する。

「ああ、分かった。あのね。松の木っていうのは一年中緑だからね。ずっと変わらないものってことで、おめでたいんだよ」

 そう言って、ハルは満面の笑みを湛えて弟に目をやった。


「ずっと変わらないもの」

 キョウが目を丸っこくして、手にした松ぼっくりを見つめながら繰り返す。


「もみの木やヒイラギと同んなじ理由だね」

「そっか」しゃっちょこばった表情で神妙に頷くキョウ。


「フンフフンフン、フンフフンフン、フフフン、フフフン、フンフンフン」

 楽しげに続きを歌う、ハル。このメロディは、「ひいらぎ飾ろう」だろう。


 なんとはなしに二人の会話を耳に入れながら、楠見は執務机に向かって手にした書類に目を通していたが、一通り読み終えて「承認」の署名を済ませると書類から目を上げた。

 机越し、応接セットのソファの上に、ハル。床にキョウ。二人はどうやら、クリスマスの飾りを作っているらしい。ハルは、クリスマスツリーの飾りだろうか。星型の段ボールの切抜きを大量生産している。キョウは、クリスマスリースを組み立てているようだ。


 幸せで楽しそうな、クリスマス前のひと時――。


(……って。ちょっと待て)


 楠見はふと、手にしていた書類とペンを執務机の上に置くと、「おい」と二人に声を掛けた。

 ハルとキョウは、それぞれに手にした物はそのままに、動きだけを止めて楠見に視線を向ける。


「あのな。楽しくクリスマスの準備をするのは、いい。いいけどな。どうしてここでやっている?」


 楠見の認識に間違いがなければ、ここは楠見の執務室。小学生が気軽に出入りするような場所ではない。たしかにここ一年ほど、この部屋のソファの上に、この二人の小学生のどちらか、あるいは両方の姿があることは珍しくなかった。それは、まあいいだろう。しかし。

 応接セットのローテーブルの上と周りの床を、布や段ボールや紙や、その他もろもろの道具類が埋め尽くしているこの状況はなんだ?


「授業なら、終わったよ」とハル。

「もう放課後だよ」とキョウ。


「ああ、そうだな。分かった。けどな、それなら家に帰ればいいんじゃないのか?」


「帰る前に、お茶をしていくことにしたんだ」とハル。

「お茶だ」と頷くキョウ。


 いつの間にか、ローテーブルの上には二つのマグカップまで置かれていた。


「お茶か。うん。それも分かった。次に、どうしてここでお茶をする必要がある?」


「マキのところにいたんだけどね、お客さんが来たから、出てきたんだ」とハル。

「そんで、こっち来たんだ」とキョウ。

「まだマキに用事があるから」

「もうちっと待ってる」

「そろそろいいかな」時計を見上げて、ハル。

「んー。行ってみっか?」

「そうだね。だけどこれやりかけだから、キリのいいとこまで済ませちゃおうか」

「ん。だな」


 満面の笑みを浮かべるハルに、これまた屈託のない笑顔で答えて、キョウはプレゼントの箱の形をした小さなオブジェを取り上げた。オブジェに糸を通してクリスマスリースに括りつける。という作業をしようとしているのだが、キョウは右手が上手く使えない。

 たどたどしい手つきで真剣な顔をして作業をするキョウを、しばしの間、ハルも鋏を持つ手を止めて見守っていた。どうにかその危なっかしい手つきでひとつ飾りをリースにつけたキョウを見て、ハルは嬉しそうに目を細める。


 楠見も思わずホッとして、執務机の立派な革張りの椅子に、大きなため息混じりに背を落ち着けた。が――。


「いや、ふー、じゃなくて。……じゃなくてだな。マキに、なんの用事があるんだ?」


 聞いた楠見に、二人はまた視線を戻した。


「鈴音さんに、クリスマスプレゼントをあげる相談だよ」と微笑んで、ハル。

「クリームなんだ」と、大真面目な顔で言って、それから「な?」とハルに向けて笑顔を作るキョウ。


「クリーム?」


「そうだ」こくり、とキョウ。「皿を洗うから、手が痛いんだ」

「飲食店だから、水を使うでしょ? 洗剤も。だから、冬は手が荒れるんだって。それでね、ハンドクリームをプレゼントすることにしたんだよ」


「へえ」と楠見は、目を見開いた。二人の少年の思いがけない優しさに、本気で感心する。


「でな。マキがいいの、選んでくれんだ」

「マキはきっと、どういうのが肌に良いか知ってると思って、相談することにしたんだ」

「……そうだな。マキなら詳しいかもな」


 真剣に頷いていた。思わず頭の中から説教が消し飛んでいることに気づいたが、「まあ、いいか」という気分にもなっている。

 この執務室に足を踏み入れる可能性のある人物は、大抵、楠見が二人の少年の「保護者」となっていることを知っている人間だ。ここに誰かがやってきて、まるで託児所の様相を呈している執務室を目にしたところで、大して問題はあるまい。

 いずれこの兄弟にケジメを教えなければならないが、鈴音のことを思いやる二人の気持ちに水を差すような発言をするのも気が引ける。


 そんなことを考えながら次の書類を手に取って、子供たちのほうに若干の注意を向けつつ書類に目を落とす。

 ハルは、星の形に切り取った段ボールを数枚重ねて糊付けし、分厚い星に仕上げた。段ボールの断面にテープを貼ると、もとの素材は隠れ、なかなか立派なものに見える。

 視線は作業を続ける手元に落としながら、ハルは弟に、機嫌良さげな声を掛けた。


「そうだ、キョウ。その松ぼっくりも、金色にしようか」

「きんいろ……」ハルの提案に、キョウは少し考えて、嬉しそうな声を上げた。「いいな」


「よし。それじゃ、この星と一緒にスプレーしよう」

「ん」


 松ぼっくりをハルに手渡すキョウ。それを受け取りながらハルは、形作りを終えた星をテーブルに並べて。マスクを取り出し、キョウに一枚渡して自分も装着する。


(ん? マスク?)

 書類の向こうで行われている作業をぼんやりと視界の端に入れていた楠見は、次にハルがカバンから取り出したものを見て目を剥いた。


「おいっ! ちょっと待て待て待て!」書類を投げ出し、立ち上がる。


 ハルはカバンから取り出した大きなスプレー缶を手に持ち、金色のキャップを外して大きく振りながら楠見に向かって目を上げた。

「ん? どうしたの?」

「ちょっと待て! いまからここで、そのスプレーをぶちまけるつもりじゃないだろうな!」


「やだな。色を塗るだけだよ」と微笑むハル。

「金色にすんだ」と頷くキョウ。


「だからちょっと待て。ここでやるのは止めろ」

 応接セットがクリスマス飾りの巻き添えで金色のペンキまみれになる様を想像しながら、楠見は真剣な口調で止めた。テーブル上に申し訳程度に新聞紙を敷いてはいるが、それで防げるとは思えない。


「外でやるんだ」

「外は寒いよ」

「だったら家に帰って、部屋中にいっぱい新聞紙を敷いてやれ」


 ハルとキョウは、一度顔を見合わせた。そして、ハルがまた楠見に視線を向ける。

「大丈夫だよ。あんまり汚れないように気をつけるから。テーブルも養生したし」

「その程度で何が養生だ! あのな、ここは学外からのお客さんだって来る場所なんだぞ」


 言った瞬間、執務机の上の電話の内線呼び出し音が鳴りだした。「待ってろよ、絶対にぶっ放すなよ?」と牽制しておいて、受話器を取る。受付から、来客を告げる内容だった。


「ありがとうございます。お通ししてください」そう答えて受話器を置き、二人の作業を止めさせる口実ができたことにホッとながら、「ほらみろ、言ったそばから来客だ。悪いが二人とも、そこを片付けて、しばらくほかへ行っていてくれ」


「らいきゃく」と繰り返すキョウ。

「誰?」目を細めるハル。


 まずいな、と思いつつ、楠見は表情を変えずに執務机の上を整理しだした。

「誰でもいいだろう? 見ての通り、俺には『本業』があるんだよ」


「つまり、『本業』のほうのお客さん?」ますます疑り深い表情で、楠見を見ているハル。

「本業の客」と、こちらは無表情に繰り返すキョウ。


「いいから、ほら。早く片付けろ」

 二人と目を合わせられずに、楠見は書類をまとめながら内心で慌てた。二人が出て行く前に「客」が姿を見せてしまうと、この子供たちを追い払うことができなくなる。


 釈然としない視線を楠見に投げつけながら、ハルはのろのろとした動きでテーブルの上のものを片付け始める。この子供は無駄に勘が鋭いのだ。


「おい、急げ」

 急かすが、一面に広げられた道具類は、容易には片付かない。

 そうしているうちに、ドアをノックする音が鳴り、楠見は額に手を当てて大きくため息をついた。

「どうぞ……」


 姿を現したのは、警視庁の船津刑事。ドアを開けるなり、応接セット周辺の異様な光景に目を奪われる。

「……やあ、ハルくんとキョウくんもいたのか」


「船津さん、こんにちは」と、ソファの上で目を上げて微笑むハル。

「こんにちは」と繰り返すキョウ。


「なあんだ。お客さんって、船津さんのことだったのか」

 ハルはそう言って、楠見に目を戻し不敵に微笑んだ。


 ハルの視線に苦い顔で応え、立ち上がって船津を出迎える。

「わざわざ足を運んでもらってすみません」


「とんでもない」船津は慌てたように言って、室内へと足を踏み入れる。「協力していただく立場なんですから、当然です。こちらこそ、お忙しいときに押しかけてしまって申し訳ない」


 そう言って、二人の少年を少々気にする素振りを見せ、手にした紙袋を差し出しながら楠見に近付いてきて顔を寄せる。


「これ、先日言っていた防犯カメラのコピーなんですが。その……」


 悪戯レベルのものとはいえ、強盗の現場を小学生に見せていいものか。楠見の立場への配慮もあってためらっているのだろう。

 楠見としても、検閲もなしにその種の映像を子供たちに見せるのはどうかと思うのだが、居合わせてしまった以上この仕事する気満々の子供たちを追い払うことは難しい。

 いずれこの事件解決のために動くのは二人なのだから、「お前たちには関係ないから向こうへ行っていろ」などという大人のその場しのぎが通用するはずもない。


「ありがとうございます。そこの二人が見ても構いませんか?」

 仕方なく、楠見は気を利かせて先に小声で聞いた。

 船津は安心半分、迷い半分という調子で遠慮がちに声を潜める。

「できたらお願いしたいんですが。音声もありませんし、それほど刺激的な映像ではないと」


 執務机を挟んでこそこそ話す大人たちの様子に、ハルとキョウはサッと顔を見合わせ、さっきまでとは別の駆動装置に切り替わったみたいな手際の良さでテーブル上を片付けるとソファに並んで腰掛けた。

 一人前に、仕事の顔になっている二人。諦め顔の楠見に、船津は曖昧な笑顔を向けた。




 一時的にローテーブルの上に据えたモニターに、銀行の内部が映し出される。荒い映像だが、人の顔や服装は辛うじて判別できた。

 カウンターの内部からロビーの方向を移しているらしいそれには最初、カウンターにつく銀行員の後姿と、それに向き合っている客の数組が映っていたが、彼らの顔がすぐに一斉に同じ方向を振り返る。

 続いて、カウンターの前に座っていた客のひとりが弾かれたように立ち上がり、しかしそのまま固まる。直後、黒い棒のようなものを両手に持って、カメラの前を横切る二人の男。


 男たちは、カメラに映るギリギリの場所で、ロビーに向き直って長い棒のようなものを掲げた。これがモデルガンらしい。行員や客も最終的にはそれが本物の銃でないことに気づいたという話だが、この時点ではまだ、突然向けられた銃口に脅えたように、動きを止めている。が――。


 なるほど、これは稚拙な犯行だ。楠見は腕を組んで執務机に寄りかかる体勢で画面を見つめながら、納得した。隙だらけなのだ。これがもしも本物の銃だったとしても、多少腕に覚えのある者がこの場に居合わせれば、あっという間に取り押さえていただろう。

 それでは、本当にただの悪戯のつもりだったのか?


 二人組みのうちのひとりが、カメラのほう――カウンターの側へと体を向けた。マスクと帽子でお義理程度に顔を隠してはいるようだが、とその人物の顔をじっくり見て、楠見は「ん?」と目を細めた。


(これは――)腕組みのまま思わず身を乗り出して、ソファの上で見ているキョウに視線をやると、彼も目を丸くして画面に食いついていた。楠見の視線に気づき、見開いたままの瞳を向けるキョウ。


「くすみ。こいつ」

「ああ……」

 頷く楠見。そのやりとりに、ハルと船津が目を向けた。


「船津さん、犯人は捕まっているんですよね」

「ええ」

「彼のプロフィールも分かっていますね」

「ええ……え? もしかして、知っている人ですか?」


 驚いたように言い、船津は手にしていた紙袋から新たな封筒を取り出す。そこに入っていた写真付きの書類を差し出しながら。

「いま正面を向いているほうは、津本雅史。十九歳の、大学生です。もうひとりは渡辺悟。同じく十九歳で、アルバイト。未成年ということで、報道は詳しくはされていませんが。どちらも世田谷区内、この銀行からもそれほど離れてはいない場所に住んでいます」


 楠見は改めて、大きくため息をつく。

 あのアポーツのストリートミュージシャン。杉本美和。モニターの中で棒切れのようなモデルガンを振り回して何かを喚いているらしい男は、彼女の家にいた人物だった。

 雅史。そう、彼女もたしかそう呼んでいた――。


 そのまま画面は、ほとんど動きを止める。映っている二人の男が何か喋っている様子はあるが、音声はないので一見何も起こっていないように見える。

 船津が手にしたリモコンで、映像を倍速で進めた。


 画面に変化が起きたのは、犯人の一人、津本雅史が手にしていた黒いボストンバッグをカウンター越しに銀行員に渡したときだった。直後の動きに、楠見は身を乗り出す。

「ちょっと止めてもらえますか? 巻き戻して……バッグを渡したところまで」


 船津がリモコンを操作する。カウンターの手前にいる銀行員がバッグを受け取る。そこからまた、数秒間の静止状態。


「ここだ」楠見の声に、不思議そうにリモコンを構えたまま画面に見入っていた船津は振り向いた。


「どうかしましたか?」

「津本です。今、右手をポケットに入れているように見えませんか?」


 手前に立っている行員の陰になり、はっきりとは見えないが、津本は顔と体をカウンターに向けたまま手に持った銃から右手を離し、その手でポケットをまさぐるような動きをしていた。

 その動作は、何かを探しているようでもあり、また――


「ポケットに何か入っていて、それを操作してるみたいに見えるね。携帯とか……誰かに連絡を取っているのかな……」

 ハルがモニターに顔を向けて、ぽつりと言葉を落とした。


 銀行から札束を盗み出したのはアポーツという能力を持ったサイであり、強盗事件の発生時に現場にいた誰かがそのサイに連絡を取って犯行を実行させた可能性がある。――そういう連想から来る、それは単なる推測だ。


 だが楠見も、銀行の外、どこかで津本雅史からのサインを待っている人物の像を頭に思い描いていた。楠見の脳裏に浮かぶ想像では、それは杉本美和というあのアポーツの少女にほかならず。彼女であって欲しくないと思うのは、戸惑いに揺れる彼女の瞳を思い出して、まだ彼女の良心に賭けたことへの負けをどこかで認められずにいる自分の、感傷に過ぎないのだと。楠見はそう思わざるを得なかった。

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