7.だがそれは、禁忌なのだ

 夜には雪になるという予報の、寒い日だった。

 自分の所属する研究室を出た後で、楠見は超心理学研究室を訪ねた。数日前の実験の結果を、ドクター・ウィルソンから聞くためだ。

 他所の研究室から熱心に見学にやってくる楠見を、ドクター・ウィルソンはいつも快く歓迎してくれていた。


「今回も、目の覚めるような新しい結果は出なかったなあ」

 レポートをめくる楠見に、ドクターはさほど残念そうな様子もなく言った。慣れているのだろう。


「目立って成績のいい者もいなかったんですか?」

「他の者よりは多少、というのがちらほらいた程度だな。過去のデータと比べて飛び抜けているわけではない」

「そうですか……。今回は十五歳から十七歳が対象と言ってましたね」

「うむ」

「細かい属性ごとのデータもあるんですか?」

「ああ。だがサンプルの数に限りがあるからね。細かくグループ分けしたところで、意味があるかどうか」

「はあ……」

「もっと膨大なデータを集められればいいんだが、大学外の少年少女ではここへ来てもらうのも限界がある」

「こちらから、どこかの高校なりへと出向くことができればいいんでしょうけどね。っと。それはムリか」


 超心理実験室の仰々しい実験機材を思い浮かべ、楠見は自分の言葉を否定した。

 実験結果に、絶対に不正はない。それを証明するために、研究者たちは、反対論者に付け入る隙を与えない実験方法を考え続けてきた。それらを使って正確な実験を行おうとすれば、被験者には実験室まで足を運んでもらわなければならない。

 あまり日の目を見ることのないこの分野では、実験に協力してくれた者に渡せる報酬なども限られているし、一回一回の実験に時間もかかる。短期間に膨大な量のデータを取るのは難しいようだった。


 楠見は言葉を考えたが、部外者の自分に思い浮かべられるサンプル収集方法など、研究室内で意見は出尽くしていることだろう。余計なことは言わないことにする。


「ともあれ――」ドクターは気分を変えるように、少々高いトーンで言った。「まだすべての属性別データはまとまってはいないがね。今できているところまで見た限りでは、目ぼしい情報はないが、データが揃ったら、また見てくれないかい。何か新しい切り口が思いつけば、聞かせて欲しい」


「いいんですか? そんなにいろいろ見せてもらって」


「本当はまだ外部の人間に教えられる段階でもないんだがな」

 それは彼のお決まりの枕詞。そう言いながらも、かなりのところを明け透けに話してくれる。


「信用できる外部の人間の意見は有用だよ。きみは何故だかPSIサイの実験に慧眼けいがんだしね。きみの指摘はなかなか的確で、鋭い」


「いいのかな。認知心理学研究室からのスパイかもしれませんよ?」

 楠見が悪戯っぽい微笑みを浮かべると、ドクターもにやりと笑った。


「それならばせいぜい有意義なデータを持ち帰って、あっちを戦々恐々とさせてもらいたいもんだがな」


 彼は常々、他の分野との連携の必要性を強調し、それが実現しない現状を嘆いていた。


『本当は、認知心理学者やその他の分野の研究者の協力が必要なんだよ。そうすれば、超心理学はもっと発展する』

 そう言って、しかしため息をつく。

『だが、同じ心理学の中でも、パラサイコロジーを蔑視する輩が少なくない。人間の本質に迫ろうってのに、嘆かわしいことだよ。懐疑派だなんて言ってるがね、私に言わせりゃ、やつらは否定派だ。こっちは何も、PSIは存在するから認めろ、なんて言ってるわけじゃあない。あるかもしれないから調べる、と言っているんだ。それを聞きもせずに、『PSIなんてない、トリックだ、データはでっち上げだ』の一点張りだよ。議論になりやしない。こっちから見りゃ、やつらのほうが、PSIがあっちゃ困るから目を逸らしているようにしか見えんね』


 表現を変え、表情を変えては、ドクターはそんなことを愚痴った。むしろ研究室のメンバーを前にして口にすることは憚られる、それは泣き言のようなものなのかもしれない。


 研究者が百年間かけて積み重ねてきた大量の記録は、重要なものではあるが、言い換えればどの時代にも目覚しい発展はなかったということだった。ひとりひとりの研究者の送った時代のみを切り取れば、ただ淡々とデータを蓄積していくことしかできなかった者もいたはずだ。

 誰もが自分の時代に重大な新発見をし、あるいはなんらかの新機軸を打ち出し、この研究を進展させることを夢見ながら。実際には、後の世の研究者が、自分たちの積み重ねてきた膨大な実験結果を踏まえて新たな道を切り開いてくれることを願いながら、一線を退くしかないのだと、この老ドクターもどこかで諦めてもいるようだった。


 それでも、将来のある研究者たちに同じ諦観を強いることはできない。また、そう悠長にしてもいられない現実がある。成果の出ない研究は、いつ打ち切りを余儀なくされても仕方ないのだ。

 それでなくとも、超心理学研究に前向きだった前心理学部長が数年前に退任し、後任の学部長にはあまりよく思われていないのだという話を、ドクターだったかマシューだったかから聞いたことがある。

 もうこれ以上の進展はない。そう言った瞬間に、これまで地道に築いてきた研究は、無に帰すことになるのだった。


 自分は。と楠見は考える。

 彼らの研究を、飛躍的に発展させることができる。

 楠見はたくさんの、「本物のサイ」を知っている。彼らのうちの何人かを実験室に連れてきて、この老教授に紹介すればいい。あるかもしれない程度の微力な超感覚ESPを検出しようと、楠見から見ればほとんど不毛な研究し続けるよりも、手早く、そして手堅い。


 だがそれは、禁忌なのだ。


――あっちゃ困るから目を逸らしている。


 それは、そうかもしれないと、楠見は思う。

 人間の理解を超える特異な能力。ごくわずかな人間にしか現れない、不思議な力。それを、人間は大昔から全力で否定し、拒絶してきた。


 だから、ないと信じられていたほうが、都合がいいのだ。楠見たち、それが本当にあることを知る者、それに実際に関わる者にとっては。そう思う一方で、彼らの特別な能力を、ごく限られた世界に押し込め隠しておかなければならないことに、どうしようもないもどかしさを感じることもあった。

 学術。芸術。スポーツ。そう言った分野に「天才」と呼ばれる才能が生まれるのと変わらない、類稀たぐいまれな才能だと楠見自身は思っているのに、彼らのそれを守るためには外部に向かってはそれらを否定しなければならない。そのジレンマを、楠見は物心ついて以来ずっと抱えていた。


 もしも、サイが科学的に解明されたら。その危険をはっきりと認識しながらも、心のどこかでそれを望んでいる気持ちを、楠見は無視することもできなかった。




 研究室からの帰り道、名を呼ばれた。振り返ると、分厚いコートを着込んだマシューが、皮の手袋をはめた手を上げる。


「クスミ。いま帰りなら、ちょっと付き合わないか?」

「いいけど、どこへ?」

「まあ、来いよ」


 マシューは不敵な笑みを作り、コートの襟をかき合せると白い息を吐きながら先に立って歩き出した。



 大学からいくらも行かない場所に、そのごみごみとした小さな飲み屋街はあった。楠見も何度か、誰かに誘われてやってきたことがある。郊外にある大学は、身近に大きな歓楽街があるわけでもなく、自然とこの一帯は学生たちの唯一の娯楽と社交の場となっていた。


 マシューが楠見を伴って入ったのは、その中の一軒。半地下の、入り口に「Music&Bar」の看板の掲げられた、小ぢんまりとした店。

 大学の創設のころからあるのでは、と思わせる、古びてやや角の丸まった石段を下る。シンプルなクリスマスリースの掛けられた、アメリカ人には少々低めに思える木製のドアを開けると、寂れた感じの外観とは打って変わって熱気のある空間が広がっていた。


 マシューがドアを開けた瞬間、最初に飛び込んできたのは、深く温かみのある女性の歌声。「Amazing Graceアメージング・グレイス」。

 声に惹かれて目をやると。店の奥の、わずかな段差だけで客席と空間を分けたステージのような場所で、ピアノに寄りかかるようにしながら歌っている黒髪の女性。白人と黒人の血の混じった、魅力的な顔立ち。憂いを含んだような深い瞳をスポットライトの明かりにキラキラさせ、挑発的な唇に載せて感情豊かに音楽を紡ぎだす。


 カウンターの奥でグラスを磨いている、マスターらしい年配の男に一声掛けて、マシューは楠見を店の奥のほうにあるテーブルへと導いた。

 ほとんどのテーブルもカウンターも、大学関係者らしき姿で埋められている。それぞれに、歌声に耳を傾けたり、自分たちの議論に熱中していたりと、白熱灯の柔らかい光に包まれた店内は、心地よく落ち着いたざわめきに満ちていた。


 コートを脱いで席に着くと、マスターが酒の入ったグラスを二つとナッツの小皿を持ってやってくる。


「マスター、クスミだよ」マシューは片手を上げて示す。「同じ心理学のね、別の研究室にいるんだ」


 マスターは無愛想に小さく目顔で了解を告げる。マシューはさらに楠見を説明する言葉を準備していたようだったが、マスターがさほど興味を持っている様子がないのを見て、途中で打ち切るようにして楠見に目を戻しグラスを取った。

 楠見はそれで、マスターの自分に対する感情を理解する。


「愛想がないんだよ。ありゃあもっと繁盛するだろうにな」

 マシューは柄にもなく取り繕うような言葉を吐いたが、店内は既にこれ以上なく繁盛しているように見えた。


 女性歌手の「Amazing Grace」は、後半に向かってさらに盛り上がりを見せる。




 歌い終わった女性歌手は、拍手と歓声に笑顔で応えながらステージを下りる。カウンターに座っていた男が立ち上がり、女性に投げキッスを送りながら入れ違いでステージに向かうと、客席から野次と囃し声の混じったような先ほどとは別の雰囲気の歓声が起きた。次はこの男性歌手のステージらしい。


「ハイ、マシュー」

 ステージを下りてきた女性は、片手を上げて、気軽な調子で言いながらテーブルに近づいてきた。

 どうやら、楠見たちのテーブルに着くようだ。と思っていると、楠見に軽い目配せを送りながらその目の前を通り過ぎ、彼女はマシューの首筋に抱きついた。マシューは彼女の細い腰に腕を回し、突如、恋人同士のような濃厚な抱擁が始まった。


 ……なんだ、こいつら。とりあえず咳払いをしてみる楠見。

 すると女性はマシューの首筋から離れ、マシューは彼女の腰を手放した。


「おっと、悪いな。クスミ。俺の子猫ちゃんMy Kittyだよ」


 なんだ、その紹介は。楠見の呆れた視線に構わず、マシューは隣の椅子を引き、腰掛けた女性に向かって楠見を示した。


「キティ、こいつはクスミ。同じ大学にいるんだ。専門は別だがね」

「ハイ、クスミ。珍しいのね、マシューが友達連れなんて。この男に友達がいるの、初めて知った」


 楠見に軽くウィンクを送り、マシューに目をやる女性。その視線に不満げな顔で、マシューは応える。

「おいおい、俺は学内じゃ人気者なんだぜ?」


「どうだかね」

 もう一度、楠見に向かってキティと呼ばれた女性はウィンクをした。楠見は肩をすくめる。

 確かにマシューは、その尊大な態度にも関わらず、顔が広く社交的な一面があった。「人気者」という表現が適しているのかどうかは分からないが、交流範囲が広くそこそこの人望があるらしいのは間違いない。


 もの言いたげなマシューの横で、女性はテーブルに両手で頬杖をついて楠見をじっと見つめた。


「あなた、中国人? ううん、日本人かな」

「日本人だよ」

「マシューと一緒に研究してるの? 日本人は若く見えるけど、あなたはえっと――」


 頬杖のまま眉を上げて訊く女性に、マシューが横から口を挟んだ。

「実際に若いんだよ。まだ二十歳やそこらだろ」


「二十二だよ」楠見は苦笑する。「そこまで若くないし、それじゃこんなに堂々と酒が飲めない」


「ああ、そうだな。こいつはね、キティ」

 軽く応えて、マシューは「キティ」に顔を寄せる。

「ボーディングスクール出身で、飛び級に飛び級を重ねてこの若さで博士号Ph.D.を取ろうっていうスーパーエリートだよ。学位を取って日本に帰ったら、小学校エレメンタリーから総合大学ユニバーシティまであるでっかい学校の理事長の椅子が待っている。雲の上の人なんだぜ? まあ仲良くしておくことだな」


 抜け目なく片頬を歪めて笑うマシューに、「へえ!」と口笛でも吹きそうな具合に大げさに驚きの表情を作ったキティ。楠見としては、その紹介では若干の差しさわりがあるため、顔をしかめて抗議する。


「そんなに物凄いことじゃない。飛び級なんて珍しいもんでもないだろ? それに、家が学校をやってるってだけで、理事長になるかどうかはまだ分からないよ。なるとしてもずっと先だ。それから、俺の研究は――」


 片っ端から否定するのを聞いているのかいないのか、キティは「ふんふん」といった風に頷きながらも驚いたような感心するような表情を変えない。


「で、マシューと同じ研究室にいるわけね」

「いや、だから、専門は別で……」

「でも心理学なんでしょ」

「そうだけど、マシューは超心理学パラサイコロジー。俺は認知心理学コグニティブ・サイコロジー

「認知心理学って、なあに?」

「人間の感覚――視覚や聴覚といった知覚やね、記憶だとか思考、学習、そういったことを研究する分野だよ」

「心理学ってことは、人の心が分かるんだ」

「いや、それは――」


 やはり聞いているのかいないのか、理解しているのかいないのか。どう説明しよう。適当に話をあわせて切り上げるべきか。

 そんなことを真面目に考えている楠見の向かいで、キティは両手に載せた顎をわずかに前に出すようにしてにっこりと笑った。


「あたしもね、他人の心が分かるんだ」

「……え?」


 思いがけない言葉に、楠見は思考を止めて目を見張る。と、キティは頬杖を解いて両腕をテーブルに載せ、さらに身を乗り出す。


「他人の心が読めるの。マシューには、読心能力テレパスだって言われたわ」

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