四章 心の庭に咲く花は ③
カロンの操る船に揺られてたどり着いたエリュシオンの野は、アスポデロスの咲く野とはまた趣の異なる風景が広がっていた。
なだらかな緑の丘陵があり、きらめく水面の小川が流れ、ゆるやかな風に色とりどりの野花が揺れる。
慣れ親しんだ地上の景色とよく似たエリュシオンの様子に、ペルセポネの胸は自然と弾み、はしゃぐ足取りで景色の一つ一つを巡っていく。
ペルセポネが気の向くままにエリュシオンを巡るのに任せながら、ハデスはそれを見守るようについて歩いた。
菫の咲く丘を登り、そこから見渡せるエリュシオンの広大な風景には思わず感嘆の声をもらした。
澄みきった小川にやって来ると、ペルセポネは長衣の裾を持ち上げ、ためらいもなくせせらぎに足をつけてその冷たさに歓声を上げた。
途中、雛芥子の花を摘み、器用な手つきでペルセポネは花冠を編み上げて、それを自分とハデスの頭にかぶせて喜んだ。
小鳥が空を飛ぶように軽やかに、ペルセポネはエリュシオンを夢中になって巡る。
咲く花よりも朗らかな笑顔を、その顔に浮かべて。
その胸をくすぐる笑顔に心揺さぶられながら、ハデスは弾む足取りの乙女を見失わないようにどこまでもついて行った。
そうして、ペルセポネとハデスは緑の茂る森にやって来た。
木漏れ日がちらちらと降り注ぐ森も、ペルセポネの好奇心を存分にかき立てた。
見知らぬ花や樹木がそこかしこに見られるので、興味が尽きない。
透ける葉の色に見とれ、すべらかな幹に触れては、これはなんという名前ですか、と瞳を輝かせながらペルセポネは尋ねる。
その度にハデスは一つ一つ丁寧に、乙女の好奇心を満たしてやるために答えた。
「ハデスさま、これは何の木ですか」
色の濃い葉が光沢を放っているのに惹かれて、ペルセポネはその木に歩み寄る。
無造作に枝葉を伸ばしているその木の、艶めく木の葉が美しかったので、ペルセポネは思わず触れようと手を伸ばしていた。
その白い手を、横合いから伸びてきた手が押し止めるようにつかむ。
驚いて振り返ったペルセポネの緑色の瞳と、ハデスの深紅の双眸が間近でかち合った。
「すまない――」
とっさのことだったので、考えるよりも先に手が動いていた。
ハデスは自分の行動にうろたえて、慌ててつかんでいた手を離す。
「――この木の枝には棘がある。触れない方がいい」
そっぽを向いて、早口にそう言ったハデスを、ペルセポネはきょとんと見上げる。
ハデスは軽くせき払いをすると、目の前の木を見上げて言った。
「これは
花の季節は過ぎてしまったが、間もなく実をつけるだろう」
「この木は実がなるのですね」
「ああ……分厚い皮に覆われた、朱色の丸い実だ。
実が熟すとその皮が裂けて、中から赤い種が現れる。
石榴はその種を食べる」
「食べられるのですね。
どんな味がするんでしょう……私も食べてみたいです」
何の気なしに、ペルセポネはそう言って笑った。
だが、ハデスはその一言に突かれたように振り返る。
一瞬、赤い眼差しが物問いたげにペルセポネを見つめる。
しかし、ふっと目をそらすと、ハデスはわずかに沈んだ調子でつぶやいた。
「……そなたは食べてはいけない」
「ハデスさま……?」
「こんな木よりも、花の咲いている方がそなたの気に入るのではないか」
そう言うと、ハデスは衣ずれの音を立てて身をひるがえす。黙然と歩き去ってしまう後ろ姿を、ペルセポネは慌てて追いかけた。
突然どうされたのかしら――ペルセポネはハデスの横顔をうかがう。
何かいけないことを言ってしまったのだろうかと、ペルセポネの胸に不安が差し込んだ。
思い返して、しかし何が悪かったのかすぐには思いつかない。
黙々と歩くハデスの表情の消えた横顔から、彼が何を思ったのかはうかがい知れなかった。
気詰まりな沈黙を和ませたくて、ペルセポネはことさら明るい声で、並んで歩きながらハデスに話しかけた。
「この森も本当に広いんですね。
これだけ広いと見て回るだけでも飽きないですよね」
「……ああ、そうだな」
「それに、いろんな遊びができそう」
「遊ぶ?」
「はい。立派な木がたくさんありますから、木登りとか」
「……ふっ」
小さく吹き出した声に、ペルセポネは驚いてかたわらのハデスの顔をまじまじと見つめた。
笑った――ペルセポネは忙しく瞬きをして、おずおずと問いかける。
「私、おかしなことを言いましたか?」
「いや……そなたは意外におてんばだな」
「えっ」
笑いの残滓を口元に浮かべ、ハデスは目を丸くしているペルセポネを見やって言う。
「先程も、川の中に入っていっただろう。あれには少し驚いた」
「あっ……」
笑われて、ペルセポネは頬を真っ赤に染め上げた。
ずっとはしゃぎっぱなしで、自分の行動がどう見られているかなど、まるで考えていなかった。
急に恥ずかしくなって、ペルセポネは顔を地面にうつむける。
「すみません……呆れられましたか?」
「いや、そんなことはない。そなたは……それでいいと思う」
穏やかな声音で言われて、ペルセポネは更に顔が赤くなってしまったのを感じた。
ほめられたのか慰められたのか、どちらにしても恥ずかしい。
だが同時に、ペルセポネは安堵し、うれしくも思っていた。
ハデスが笑ってくれた、そのことがただうれしかった。
つい今しがた胸の差し込んだ不安が、うそのように消え去るほどに。
ペルセポネの口元にも、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
「木登りはさせられぬが……森で遊ぶなら、他に何ができる?」
ハデスに尋ねられて、ペルセポネは少し考えてから、
「それじゃあ……かくれんぼはいかがですか?」
「かくれんぼ?」
「はい!
私が先に隠れますから、ハデスさま、見つけてみてくださいね」
言うと、ペルセポネは返事を聞く前に森の中に駆け出していった。
春風に乗って空を飛ぶ燕の身軽さで、ペルセポネは木立の間をすり抜けながら、隠れるのに丁度よさそうな木を探し始める。
黄色の花をいっぱいにつけたエニシダ、手のひらの形の葉をたっぷりと茂らせたすぐりの木、いい香りを漂わせる花を咲かせているリラ――どれもハデスが教えてくれた名前だ。
その中で、小さな赤い実をたわわに実らせた
枝振りも高さも、ペルセポネの姿を隠すのに申し分ない大きさだ。
ペルセポネはちらりと背後を振り返り、ハデスの姿がまだ見えないのを確認すると、その山査子の陰に身を隠した。
ハデスはすぐに来るだろうか――森の中、自分の姿を探しているハデスの様子を想像して、ペルセポネの表情には自然と笑みがこみ上げてくる。
うっかり声を立ててしまわないよう、ペルセポネは両手で口を覆って、木立に身体を押しつけるようにしてじっと耳を澄ませた。
かすかに、草を踏んでやって来る足音が聞こえた気がして、ペルセポネは忍び笑いをもらす。
枝葉の隙間から、やって来る姿を確かめようと、ペルセポネは首だけそっと動かそうとした。
しかし、動いた拍子に髪の毛が後ろに引っぱられて、
「痛っ……」
ペルセポネは思わず声を上げてしまった。
慌てて視線を巡らせると、栗色の髪が一房、実をつけた山査子の枝にからみついてしまっていた。
急いでそれをほどこうと、ペルセポネは枝に手を伸ばしてみたが、からんだところが視界から外れていてうまくいかない。
苦心しているうちに、足音はもうすぐそばまでやって来てしまった。
「……どうした?」
山査子の梢越しにハデスが怪訝そうに顔をのぞかせる。
あっけなく見つけられてしまって、ペルセポネは残念そうに溜息をついた。
「見つかってしまいました……」
「すまない、声がしたものだから……どうかしたのか?」
「いえ、あの……髪が……」
ペルセポネの髪が枝にからみついてしまっているのを見て、ハデスは納得したような表情をした。
「すみません、すぐほどいてしまうので……」
「そのままで」
思うように手を動かせず四苦八苦しているペルセポネを見かねて、ハデスは側に歩み寄ると山査子の枝に手を伸ばす。
そして丁寧に、慎重に、からんだ髪をほどきはじめた。
「あ……ありがとうございます」
ペルセポネはそのまま素直に、ハデスが髪をほどいてくれるのに任せてじっとしていることにした。
少しずつ髪をほどいていく手つきが優しいので、くすぐったいような心地がする。
ペルセポネは、頭ひとつ分は高いところにあるハデスの顔を、何とはなしに見つめた。
こうして間近に落ち着いて、ハデスの顔を見るのは初めてかもしれない。
無造作に伸ばした黒髪が、その顔を隠してしまっていることが多いのだ。
もったいない――ペルセポネは改めて見つめながらそう思っていた。
せっかく整った顔立ちなのだから、隠してしまうことはないのに。
鼻筋の通った端正な面差し、絵筆ではいたような眉と引き締まった口元が気品のある風情で、何よりその瞳が印象深い。
深紅の双眸――磨いたルビーのようだと、ペルセポネはその目をじっと見つめて思う。
混じりけのない、澄んだ美しい赤。
今は髪をほどく手元を真剣に見つめているのが凜々しい。
これが、ケルベロスたち配下に命を下すときには王の威厳を放ち、かすかにでも笑みを浮かべると、穏やかな色をたたえる。
普段は冷厳な印象で、あまり感情が表れないように思えるけど――そんなことを考えていると、ふっとハデスは面をそらして、ペルセポネの視線からまた顔を隠してしまった。
「……すまないが……」
心なしか震えている声でハデスは、
「あまり……そのように見つめないでもらえると、ありがたい……」
ようようそれだけ言葉を絞り出して、後は沈黙してしまう。
ペルセポネははっと我に返って、
「ごっ、ごめんなさい……」
慌てて視線をうつむけた。
ついつい見とれてしまっていた。
ちらりと、上目遣いにハデスの様子をうかがうと、髪に隠れてはいるが、その顔が赤くなっているように見える。
不意に気恥ずかしさがこみ上げてきて、ペルセポネの顔も熱くなる。
互いの息づかいもわかるほどに、間近に寄り添い合うようにたたずんで、まるで――ペルセポネは速くなる鼓動から気をそらそうと、沈黙を破るための話題を探した。
「あっ、あの、ハデスさま」
「なっ、何だ?」
「そういえば、ヘカテさまから伺ったのですけど、ハデスさま方ご兄弟は、くじ引きでそれぞれの支配領を決められたというのは本当ですか」
唐突な話題に、ハデスは困惑しながらもうなずいた。
「ああ、本当だ」
ティタノマキアの決着がついた後、新たな世界の支配権を決めるのには、確かにくじ引きが行われた。
ハデス、ポセイドン、ゼウスの主神三兄弟は、このくじ引きによって公平に支配領を決定したとされている。
「ハデスさまは、では本当は、天空か海の王になりたいと思われていたのではないですか?」
「なぜ、そんなことを?」
「ハデスさまは貧乏くじを引かされたなんて、言われる方もいらっしゃるみたいなので……」
「……ヘカテだろう、そんなことを言うのは」
ハデスは手を動かしながら、嘆息混じりにつぶやいた。
ヘカテがペルセポネになんと言ったかは容易に予想できた。
三兄弟の長兄であるハデスが、地下の暗闇に押し込められて弟から厄介な役目を押しつけられている、とでも言ったのだろう。
あくまで、冗談話として。
「他人がなんと思っているかは知らぬが……」
ハデスは生真面目な口調で、ペルセポネの問いかけに答えた。
「ゼウスは奔放に過ぎるし、ポセイドンは短気だ。
どちらも冥府を治める気質ではない。
結果はくじで決まったものだが、結局は私が一番、兄弟の中でふさわしかったということだ」
「…………」
「逆に、私ではゼウスのような統治はできぬ。
荒くれ者の海の眷属を御することも、ポセイドンのようにはいかぬだろう。
私は、選べたとしても冥府を選んでいたと思う」
卑屈でも諦念でもない、それはハデスの本音だった。
ペルセポネはその言葉に、明るい微笑みを浮かべた。
「よかった」
ペルセポネの唇からこぼれたその一言に、ハデスは思わず手を止めて、微笑みを浮かべた乙女の顔を見返した。
「もしもハデスさまが嫌々冥府を治められていたら、私、悲しくなってしまうところでした。
私、ハデスさまの治めるこの世界がとても気に入ってますし、皆さんのことも大好きですから」
屈託のないペルセポネの言葉に、ハデスは視線を揺らした。
「……そなたがそう思ってくれるなら……」
言って、ハデスはペルセポネの朗らかな、まっすぐに見つめてくる瞳を見つめ返した。
そのいつになく真摯な眼差しに、ペルセポネは驚きを覚えながらも見入っていた。
「……もし――」
見つめ合った、ほんの数瞬――出かかった言葉を、ハデスはしかし呑み込んだ。
そしてペルセポネからまた視線をそらすと、からみつく山査子の枝をほどきはじめる。
「……取れた」
ややあって、ペルセポネの髪は一本も損なわれることなく、山査子の枝から解きほどかれた。
ペルセポネは手ぐしで髪を整えると、そそくさと距離をとってしまったハデスの方を見て、
「ありがとうございます。
ハデスさま、何か言いかけていらっしゃいませんでした?」
「何でもない……ただ……」
「ただ?」
「……いや……ただ、そなたがそう思ってくれるなら、よかった、と……それだけだ」
歯切れの悪いハデスの答えに、ペルセポネは不思議そうな顔をして小首をかしげる。
二人の間を、そよ風が葉ずれの音と共に軽やかに吹き過ぎていった。
その風音の中に、かすかに何かを聞いたような気がして、ペルセポネははっと耳をそばだてた。
「ハデスさま、何か聞こえませんでしたか」
「? ……いや、私には何も」
「でも今、誰かがささやくような声が……」
耳を澄ませるペルセポネの髪を揺らして、また風が過ぎる。
ペルセポネは、その風がやって来た方に視線を向けた。
「やっぱり……たぶん、こっちの方から――」
風に誘われるように、風の届けるその声に引きつけられるように、ペルセポネは耳を澄ましながら森の中に足を踏み入れていった。
ハデスもペルセポネの好奇心を妨げないように、静かな足取りで後に続いた。
森の中を、風の音に気を払いながら、どれほど歩いただろう。
さらさらと風に鳴る音が近くに聞こえて、ペルセポネは音のした方を振り返る。
視線を向けた先には、背の高い真っ白な木が一本、風に枝葉を揺らして立っていた。
「ハデスさま、白い木があります」
言うと、ペルセポネはその不思議なたたずまいに引き寄せられて、白い木のそばに駆け寄っていった。
枝をまっすぐに空に向けて伸ばしているその木は、幹も枝も葉も、雪のように真っ白だった。
かすかな風にも枝葉を揺らし、澄んだ葉ずれの音は何かをささやきかけてくるように、ペルセポネの耳には聞こえた。
「……きれい……」
ペルセポネは白い幹に寄り添うようにして立つと、じっと葉ずれのささやきに耳をすませた。
さらさら、さらさらと鳴る音が、胸に沁みいるように響く。
「ハデスさま、この木は――」
なんですか、と尋ねようと振り向いたペルセポネは、とっさに言葉を呑み込んだ。
少し離れたところから、ハデスがこちらを見つめている。
だが、見つめているものは自分ではなく、この白い木だとペルセポネはすぐに気づいた。
見つめる眼差しには影が差している。赤い双眸が、胸を刺す痛みに耐えるかのように、張り詰めて揺れていた。
心に負った傷が瞳を通して見え、その傷を隠すように瞳に影が差す。
「ハデスさま――」
不安に駆られて、ペルセポネはたたずむハデスに歩み寄った。
すぐ側からまっすぐにハデスの瞳を見上げ、呼びかけると、ようやくハデスは我に返った様子でペルセポネに視線を向けた。
「どうかなさいましたか?」
「……いや――」
遠慮がちに尋ねるペルセポネに、ハデスは短く答えて頭を振る。
そして、取りつくろうように口元に薄く微笑みを浮かべる。
「長居をした……そろそろ帰らぬか」
「はい……」
ペルセポネは素直にうなずくと、先に立って歩き出したハデスの後ろについて行く。
なぜ、あんな哀しそうな顔をされたんだろう――気にかかったが、率直に尋ねるのははばかられるようにも感じた。
ペルセポネは自分の胸にもその哀しみが移ってしまったような心地で、去り際に一度だけ白い木を振り返ってみた。
白い木は変わらず、澄んだ葉ずれの音で二人が去るのを見送っていた。
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