六章 別れの贈り物
六章 別れの贈り物 ➀
地上から流れ落ちてくる水の流れが、その変化を地下にも伝えた。
水面を震わせる大地の嘆きの声を聞きながら、ハデスは川辺にたたずみ、さざ波を立てる川の面を見つめていた。
肌をかすめる冬の気配にハデスは何を思っているのか、その表情から心の中を読み取ることはできず、ただ深紅の双眸に浮かぶ暗い色が見て取れるだけだった。
ゼウスの命を携えて冥府へとやって来たヘルメスは、黙然とたたずむハデスのかたわらに立って、その顔色をうかがっていた。
「ハデスさま……」
「わかっている」
遠慮がちにかけられた声に、ハデスは短く応える。
「デメテルが許すはずがない……わかっていたことだ」
落ち着いた口調に、ヘルメスはかえってやりきれない思いをかみしめて肩を落とした。
気ふさぎな沈黙が二人の間に舞い降りた。
その空気を晴らすかのように、軽やかな足音が近づいてくるのに気づいて、ヘルメスは振り返る。
見ると、手に花を持ったペルセポネが、微笑みを浮かべてこちらにやって来るところだった。
「ヘルメス神、いらしてたんですね。
お仕事お疲れさまです」
何も知らない顔つきで、ペルセポネはヘルメスに向かって朗らかにあいさつする。
そしてハデスに向き直ると、手に持っていた小さな花束を差し出した。
「ハデスさま、どうぞ」
差し出されたのは菫の花束だった。
瑞々しい香りを漂わせる花を、ペルセポネの白い手からそっとハデスは受け取った。
「エリュシオンに咲いていたのを摘んできたんです。
後でお部屋に飾ってくださいね」
まっすぐに見上げてくる無垢な瞳を、ハデスはまぶしそうに見つめ返した。
「それから、ケルベロスがまた一つ芸を覚えたんですよ。
ハデスさまにも見ていただきたいので、ぜひ――」
「…………」
「ハデスさま……?」
ハデスが押し黙っているので、ペルセポネは小首をかしげて、赤い瞳をのぞき込むようにして見つめた。
ハデスはその視線から逃げるように、菫の花を胸に抱いて顔をうつむける。
「……ヘルメス」
「はい」
「後は、頼む――」
短く言い置くと、ハデスは不思議そうな顔をしているペルセポネの横をすり抜けて、静かに去っていってしまう。
歩み去る後ろ姿を引き留めることができずに、ペルセポネは困惑した顔でヘルメスを振り返った。
「ハデスさまはどうしてしまわれたんでしょう……」
尋ねられて、ヘルメスは金髪をかき回して小さく溜息をついた。
嫌な役だが仕方ない――意を決して、ヘルメスはペルセポネに向き直る。
「ペルセポネさま、大事なお話があります。
地上の世界にお戻りください」
「え?」
「あなたが地下の世界に来られてから、地上ではもう何日もの時が過ぎてしまっているのです。
母君デメテルさまは、あなたがいなくなってしまったことを非常に哀しまれて、神殿に閉じこもってしまわれました」
「お母さまが」
「デメテルさまは女神の務めを放棄してしまい、そのために今地上は、あらゆる実りが失われた冬になってしまっているんです」
はっとして瞳を見開き、ペルセポネは口元に手を当てて息をのんだ。
「このままだと、地上の生命は全て飢えてしまいます。
ペルセポネさま、デメテルさまの元に帰っていただけますか?」
「…………」
ペルセポネは瞳を揺らしてうつむいた。
言うべき言葉はわかっているはずなのに、なぜかのどがつぶれてしまったかのように声が出せなかった。
河の流れる音が、静かに胸に沁みいる。
地下を流れ、冥府を取り巻いているいくつもの河、そのひとつの岸辺にハデスはたたずんでいた。
さざ波も立てずに流れていく河面は漆黒の鏡のようで、打ち沈んだハデスの姿をはっきりと映していた。
ペルセポネはどうするだろう――それを思うと、ハデスの胸は刺されたように痛んだ。
胸の画布に焼きついた微笑みが、痛みと共に浮沈する。
あの心優しい乙女は、一度も地上を懐かしがる様子を見せなかった。
母を恋しがることも言わなかった。
ペルセポネは帰りたいのだろうか。
もしそうだとしたら、ハデスにはそれを止めることなどできはしない。
そんなことはわかりきっていた。
だが、もし引き止めたら、優しいペルセポネは地下にとどまるかもしれない、それが本意ではなくとも。
一度地上に戻ったなら、二度と会うことはできないだろう。
デメテルがそれを許すはずがない。
その手に娘を取り戻したら、あの女神は今度こそ手放しはしないだろうから。
自分はどうしたいのだろう――ハデスは痛む胸を押さえて、河面に視線を落とした。
不意に、今まで静かだった河面が変化した。
風もないのにさざ波が立ち、川面に映ったハデスの姿をかき乱す。
波は次第に大きくなり、激しい水音が地下に響く。
そしてハデスの見つめる先で、大きな水柱が天井に向かって吹き上がった。
波立つ河面がおさまり、水しぶきが降りそそぐ中に現れたのは一人の女だった。
しっとりと濡れた長い白髪をか細い肢体にまとわりつかせて、その女は川面に浮かぶように立っている。
幻のように頼りない立ち姿だが、白い面の中で青い瞳がはっきりとした意志を示して、目の前にたたずむハデスを見据えている。
ハデスもまた、突如現れた女に驚くことなく、その視線を見返す。
「ステュクス……」
「――冥府の王よ」
ハデスの呼びかけに、その女――ステュクスは、厳粛な響きの声で答える。
ティターン神族の系譜に名を連ねながら、ティタノマキアにおいては、子らと共に真っ先にゼウスの陣営に味方したのがこの女神であった。
その報酬として、彼女にはどこでも望みの領域を与えられることとなり、ステュクスは冥府を流れる河のひとつを選び取った。
冥府を七重に取り巻いているこの河は、彼女の名を取って呼ばれ、彼女の身に宿った魔力がそのまま河にも宿っている。
普段は水底にたゆたい、身を潜めるようにして静かに過ごしている彼女が、こうしてその姿をはっきりと現すことは珍しかった。
「王よ、なぜそのように悩ましい顔をしているのです」
「なぜ? それをお前が聞くのか、ステュクス……」
「わかっていますとも。
わたくしが地上から運んだ面影の持ち主、あの心清らかな乙女のためでしょう」
ハデスの声には、わずかながら非難がましい響きがにじんでいた。
それに気づかなかったわけはないだろうに、ステュクスは平然とした様子で言葉を返す。
地上から流れ落ちる水の記憶。
ペルセポネの面影を映した記憶を地下へと運び、ことさらに河面に映し出して見せたのは、他の誰でもない、このステュクスの仕業であったのだった。
「わたくしが余計なことをした、と思っていらっしゃるのですか」
「…………」
「ティタノマキアでオリュンポス神族にお味方してより、わたくしはオリュンポスの方々に不利益をもたらしたことはございません。
今回のことも、あなたに必要だと考えたからこそ」
「必要、だと……」
「そうです、王よ。
さすが、ゼウスは心の問題に聡くていらっしゃる。
伝達するまでもなくわたくしの考えを察し、わたくしの力の及ばぬところを見事にお助けくださった。
王とあの乙女を引き合わせてくださって」
「それが余計なことだと――」
「いいえ」
ステュクスの声が、ハデスの言葉を打ち払う。
その厳しさすら含んだ声音に、ハデスは思わず口をつぐんだ。
「知らねばよかったなどとは言わないことです。
悔いる前に、あなたにはすべきことがあるはずです。
あなたがどれほど無関心を装っても、世界にはあなたを想う者がいる。
あなたは世界と無関係にはいられない。
あなたはそれを知らねばならないのです。あなた自身の思いも」
「…………」
「あなたを想う者のことを、あなたも想うようになるでしょう」
「……お前たちが、そう仕向けるからか」
「いいえ、あなたがそれを望むからこそ」
「私は何も望まない」
「誓えますか?」
ステュクスの足元で、河面がざわりとさざ波立った。
ハデスはステュクスの青い瞳を見据え、彼女もまた、冥府の王の瞳を見返していた。
にらみ合うように対峙して、ステュクスが冷淡なほど静かな声で言う。
「悩める王よ、今のあなたの誓いでは、わたくしは受け取ることはできません」
ステュクスの河の水には魔力が宿る。
神々はいろいろな誓言に際して、この水を飲んで誓いを立てる。
もし偽りの誓いを立て、誓いを破れば、その魔力によって呼吸が止まり、飲食を禁じられる罰を一年間、また他の神々と交わることを禁じられる罰を九年間、受けるという。
「偽ることはもうおやめなさい。
あなたを想う者たちのためにも――」
そう言い残すと、ステュクスは現れたときと同様、河から大きな水柱を立ち上らせた。
その水柱が消えると共にステュクスの姿も消え、波立つ河面が静まった後は、再び地下は静寂に包まれる。
ハデスは川面に映る自分の顔を、しばらく身じろぎもせずに見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます