三章 冥府への招待

三章 冥府への招待 ➀




 オリュンポス山の宮殿で、高らかな笑い声が響く。

 自室の長椅子に悠然と寝そべり、悦に入った様子で杯を傾けているのは主神ゼウスである。

 そのかたわらでは、ヘルメスが憮然とした表情で控えている。


 エレウシスの野で起きた一部始終について、ヘルメスからゼウスに報告がなされたところだった。


「ハデスもやればできるじゃないか。それでこそ我が兄。

なあ、ヘルメス」


 そう言ってご満悦のゼウスを、ヘルメスは複雑な面持ちで見つめる。

 自身の企み事が図に当たって、ゼウスはご機嫌なのである。


 恋多き神であるゼウスは、他人の恋愛にも首を突っ込みたがる癖がある。

 自分の介入によって恋の局面が動くことが、楽しくて仕方ないらしい。


「無事にペルセポネを冥府に招くことができたし、ハデスと引き合わせることもできて、まずは上首尾、だな」

「……無事……」


 あれを無事と言い切って、この父なる神は良心にとがめることがないのだろうか。

 眼前で起きたエレウシスの大惨事を思い出して、ヘルメスは表情を引きつらせる。


「あの地震に地割れ……あれは一体何だったんですか。

女神の加護の下にある土地があんなに荒れるなんて、考えられません」

「なに、ちょっとした舞台装置ってとこかな」


 ヘルメスの疑問に、ゼウスは口の端を上げて得意そうな笑みを浮かべて言った。


「まあ、早い話が、冥府直行の落とし穴にペルセポネを誘い込んだってわけ。

水仙の花をえさにしてな。

ハデスがペルセポネを助けるのも、当然のことだが計算ずみさ。

それで、落とし穴の口を閉じてしまえば作戦成功。

冥府の館へ、一名様ご案内ってな」

「はあ……」

「そして、劇的な状況で出会った男女は、たちまちのうちに激しい恋に落ちるというわけさ」

「……あの裂け目は、まさかゼウスさまが作ったんですか」


 いかにオリュンポス十二神の筆頭といえども、他の神の聖域である土地にそうそう手を出せるものではない。

 しかし、この破天荒な主神ならやりかねない、とヘルメスは疑念のこもった目つきでゼウスの美貌をねめつけた。


「いや、あれには協力者がいるんだ」

「協力者? 誰です、それは」

「胸幅広き、我らが母上さまさ」


 満面の笑みを浮かべて言われたその名に、ヘルメスは愕然として息を呑んだ。


「……大地母神ガイア……まさか、原初の神を引き込んだんですか――」


 無茶な事実に衝撃を受けるヘルメスを、ゼウスは心底愉快そうに見やって言った。


「大地母神は今も、世界の隅々まで意識を張り巡らせて、我々のことを見守っているよ。

その考えや思いを、我々に見せて示してくれることはないけどね。

大地は我々と同じように、その身に意志を持っている」

「そうなんですか……」

「それで、今回の作戦を話したら、快く協力を約束してくれてね」

「そんな馬鹿な」

「ほんと、ほんと。で、地下までの入り口を開けてくれたのさ」

「無茶苦茶だ……」


 軽やかな口調でゼウスは言ってのける。


 ヘルメスは手のひらに顔を埋めると床に向かって盛大な溜息をついた。

 オリュンポス神族よりも遥かに強大で畏れるべき原初の神を、ささやかな恋愛沙汰の協力者として気軽に引き込むとは、無茶苦茶にもほどがある。


「何はともあれ、今日はめでたい。実にいい日だな、ヘルメス」

「……そんなに喜んでいる場合でしょうか」


 杯に満ちた神酒ネクタルをうまそうに飲みほすゼウスに、ヘルメスは静かな口調でやんわりと水を差す。


「何言っているんだ、喜ばしいじゃないか。

あのハデスが大昔の失恋からようやく立ち直って、新しい恋に踏み出そうとしているんだぞ。祝杯の一つも上げてやらなきゃ」

「まだそうと決まったわけじゃ……」

「いや、絶対にそうだ。

もし、仮に、万が一そうでなかったとしても、ハデスは必ずペルセポネに恋をする。そしてペルセポネもハデスに恋をする。間違いない」

「……では、仮にそうなったとして。

けど、このまま円満に話がすむとは思えないんですが」

「だよなあ、それは私もわかっているさ。

何しろハデスは超のつく奥手だし、不器用でしかも口下手だろ。

ペルセポネは箱入り娘で初心だしな。

この恋の成り行きを当人たちだけに任せていたら、不死の神々でも結末を見られないかもしれない。

そのくらい、時間がかかってしまうだろうなあ。

やっぱり、ここは誰かが後押ししてやらないと……」

「いえ、僕が言っているのはそういうことではなくて――」


 ヘルメスの言葉を、ゼウスはまるで聞いていない様子で、妙に真剣な面持ちで独りごちる。


「ハデスの側には、ペルセポネみたいな子が必要なんだよ。

それに言っただろ、二人はお似合いだって」

「どういうことですか」

「ペルセポネはね、優しくていい子なんだよ。

迷子を見つければ一緒に親を探してあげるし、往来で困っているご老人を見かければ手を引いてあげるし、雨に濡れてる捨て犬がいれば拾ってあげてしまうというくらい」

「……ハデスさまは捨て犬ですか」

「たとえ話だよ。

でもさ、同情心は恋愛のはじまり、だろ」


 そううまくいくものだろうか――どうにもつながらない話に、ヘルメスはゼウスの表情を疑わしそうに見返す。


「で、ヘルメス、お前に頼みがある」


 また来た――ヘルメスは不承不承の態でうなずく。


「……何でしょうか」

「ちょっと冥府まで行って様子見てきて。

それで、事態が膠着してたら、さりげなく手助けして二人の仲を取り持ってやって」

「そういうことは、僕じゃなくエロスの管轄だと思うんですけど」

「あいつは気まぐれすぎてだめだ。

いいだろう、定期連絡のついでにすませてくれればたりるんだし」

「ですが……」

「頼むよー。

ちょっと行って、様子見てくれるだけでいいからさー。

な、お願い?」


 しつこく言いつのって、ゼウスは両手を合わせると、上目遣いにヘルメスのしかめっ面を見つめる。

 そんな仕草でおねだりされても全く可愛くない――真面目にそう突っ込むのも馬鹿馬鹿しく思えて、金髪を乱暴にかき回しながらヘルメスは嘆息する。


「わかりました。

行ってきますから、その顔やめてください、気持ち悪い」

「あ、ひどいな、お前ー」


 ゼウスは抗議の声を上げたが、その顔にはしてやったりと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。


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