第二章

英雄の虚像の魂

 翌日はどんよりと曇った一日だった。まるでテッドとナディアの心そのものだ。特にナディアは朝から黙りこくり、そわそわしているようだった。危うく食器を落としそうになったり、部屋をつかつか歩き回ったり、話しかけても上の空で返事がない。


「ねぇ、ナディア、少し落ち着いてください」


 たまらずテッドが声をかけた。


「あのジゼルという子は本当にあなたにそっくりでしたね。もしかして、彼女があなたの持ち主の『ナディア』ですか?」


 少しの沈黙のあと、彼女は首を横に振った。


「違うわ。だって髪の色も違うし、年だって違う」


「そうですか。持ち主に会いたいとは思わないんですか?」


 これは今までにも何度か訊いてみたことのある質問だった。だが、答えはいつも同じなのだ。


「会いたくないわ。そんな虫のいい話ないわよ」


 今回もそうだった。彼女は咄嗟に顔を歪め、吐き捨てるように言った。

 テッドはそんな彼女を見て、肩をすくめた。だったら、どうしてそんな泣き出しそうな顔をしているのだろう。

 ナディアは強い情念を受けて生まれた物憑きの精霊だ。彼女は自分の過去を何も話そうとしないが、それだけはテッドにもわかっていた。

 何故なら、齢百年を経て生まれた精霊は、その依り代の姿をとどめているものなのだ。あのジェニーの『お母さん』が人形の姿をしていたのも、そのせいだった。

 例えば、竜を象った置物が百年を経ると、竜の姿をした精霊になる。テッドの経験から言うと、ナディアのような依り代の姿を留めていない精霊は、その情念を発した者の姿をしている。おまけに、生まれたときに受けた想いが誰の物か、霊たちは本能で知っているようだった。

 だが、ナディアはその持ち主を快く思っていないようだった。彼女が生まれたとき、持ち主が『ナディア』だとわかっていたはずだった。それでも鏡で自分の姿を確認し、複雑そうな顔になった。それは、どこか素直になれない子どものような顔でもあった。

 今も彼女はそんな拗ねた顔つきで窓の外を眺めているのだった。


 長い一日だったが、とうとう待ち人は夜にやってきた。

 部屋の真ん中に突如として黒い闇が広がり、ジゼルが現れる。

 テッドは彼女の肩の向こうにある闇を見て、身震いがした。墓場の闇に慣れた彼ですら怯む、底冷えのするような重い色だ。ジゼルはよくこんな中を平気で歩けるものだと感心すらした。


「こんばんは」


 ジゼルは朗らかに挨拶し、テッドの前に歩み寄った。その背後で、闇がすっと消え失せるのが見えた。白い鳥は椅子の背もたれに飛び移り、羽をばたつかせた。


「答えを聞く覚悟は決まったの?」


 それは同時に、あの三つの魂を手渡す覚悟を意味していた。テッドは正直に、首を横に振る。


「まだです。僕は決めかねています。答えは知りたいけれど、あれを手放すことは、家族の残り香を失うということですから」


 ジゼルは黙って、テッドの様子をうかがっている。


「……でも、あなたは言いましたね。それがナディアのためになると」


「えぇ。たとえ彼女自身が望んでいなくても」


 その言葉に、テッドとナディアは思わず顔を見合わせた。やがて、テッドが呟くように言う。


「……わかりました」


「テッド、駄目よ!」


 ナディアが声を荒らげる。だが、テッドは彼女に微笑みかけた。


「大丈夫。僕にはナディアという家族がいるから、あれを手放しても寂しくはありません」


「あんた、何もわかってないわ」


 ナディアが苦々しく俯く。彼女が今、どんな言葉を心に浮かべているかわかならかったが、テッドには少なくとも自分を想っていることは伝わっていた。なにせ彼女は姉のような精霊なのだ。


「いいんです。僕にも一つくらいはわかっていることがあります」


 ナディアが何故、持ち主の話をするとき泣き出しそうな顔をするのか。その鍵は、ジゼルが握っている。そんな確信めいたものがあった。そして、なにより彼はナディアのそんな顔を見たくないのだ。


 テッドは寝室から一つ目の魂を持ち出した。ジゼルに差し出したのは、紅玉のような魂だった。燃え立つような光で、彼の手のひらが緋色に染まってた。

 ジゼルは魂をそっと受け取ると、しげしげと灯りにかざして見入っている。


「哀しいことに、綺麗だとか美しいとか、どんな言葉を並べても陳腐になりそうね。語り部失格だと思うけど」


「ありがとうございます」


「どうしてテッドがお礼を言うの?」


「僕の父の生きた証だからです」


 それを聞いたジゼルの瞳に光が走った。語り部の性なのか、興味を引かれたようだった。


「テッド、もしよかったらの話だけど、私にこの魂にこめられた想いを話してくれない?」


「興味があるんですか?」


 ジゼルは力強く頷く。


「この魂は私に言ってるわ。自分の人生を語り継いでくれってね」


「魂が?」


 怪訝そうな声を上げたのは、ナディアだ。その声色に怯むことなく、ジゼルはにっこり笑う。


「私が語り継ぐ限り、この魂は物語の中で生き続けるでしょう。もちろんテッドの中でもね」


 テッドはふっと目を細め、魂に向かって呟くように言った。


「父さん、いいですよね? 僕は家族を守りたいんです。それがたとえ望まれないことであっても、不器用なほどに強引なやり方であっても。そう、あなたのように」


 ぐっとナディアが言葉を詰まらせるのを横目に、彼はジゼルに向き合った。


「少し長くなりますが、よろしいですか」


 ジゼルは頷き、こうして彼らは食卓を囲んで座ることになった。

 ナディアがお茶をいれている間、テッドは魂を手で転がしていた。

 今は亡き父の狂気との戦い。今は亡き母との安息の日々。それを伝えに来た一人の精霊。そんなものに想いを馳せながら。

 

「それでは、始めましょうか」


 お茶が出されると、テッドはそう切り出し、ゆっくりと語り出した。


 父が病で死んだ翌日のことだった。

 テッドを産んですぐに死んだ母はこの墓地の一番奥に眠っていたが、そこに真新しい墓標が並ぶことになった。テッドの墓守として初仕事は、父の埋葬だったのだ。

 父のいない、初めての独りの夜だった。正確にはナディアもいたが、傍目に見れば独りだ。ナディアの姿は人間には見えないのだから。

 神官のダスティンが彼を気遣い、夕食を運んでくれた。


「おかしいなぁ、美味しいはずなのに」


 テッドは独りごちて、匙を置いた。

 ダスティンの妻は料理上手だというのに、なんとも味気ない。一向に食が進まないのは、料理のせいではなかった。

 そのときだ。彼は弾かれたように顔を上げ、墓地の方を見た。ナディアも「テッド、妙だわ」と鋭く口走る。

 何者かが、墓地を訪れたのだ。ひしひしと伝わってくる気配は炎のように滾るもので、とてもではないが人間ではなさそうだった。

 彼らは慌てて墓地の中を走っていった。そして、テッドは両親の墓の前に浮く大振りの剣を見つけたのだった。

 それまで、何度か依り代の姿をとどめた精霊を見たことはあった。だが、彼は驚いて声も出なかった。それが両親の墓の前に立っていたからということもあったが、なにより剣の姿が半分透けていたのだ。こんなことは初めてだった。


「お前がテッドか」


 剣の精霊が低い声で呟いた。


「とうとうレイも逝ってしまったんだな」


 父をレイという愛称で呼ぶ彼は、ひどく哀しげな声だった。テッドが答える前に、ナディアが眉をしかめながら話しかけた。


「あなた、随分と無茶をしてるわね。その体が透けているのは、依り代から遠く離れてきたからでしょ? あんまり無茶をすると、魂が壊れるわよ」


 ナディアの心配をよそに、彼はこう答えた。


「俺がこんなつまらない世を生きてきたのは、この日のためだ。明日からはいつ死んでも構わない」


「あなたは父をレイと呼びました。何者ですか?」


 父は限られた者にしかそう呼ばせなかった。テッドが知る限りでは、ダスティンくらいのものだ。

 すると、剣がふっと声にならない笑みを漏らした。


「俺はレイがふるった最後の剣。依り代は『英雄の剣』として遥か彼方の街にある博物館で保管されている」


「英雄? 何かの間違いではありませんか? 父は墓守でしたが」


「お前が産まれる前に、英雄に仕立て上げられた哀れな男だ」


「話してください。父とのことを」


 剣は少し黙ったあと、こう囁いた。


「言われなくても。俺はそのために来たんだから」


 そして彼は語り始めた。一人の英雄の虚像を。狂気と畏怖に逃げた男の話を。呪われた己の血を憎んだ果てを。

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