神隠しの闇
懐かしい道に馬の蹄の音が木霊していた。草原の揺れる草が、風の形を映し出しているようだった。
ナディアは馬車の上から、目映い陽射しに目を細める。見覚えのある草原に、セシリアを埋めたときのことがまざまざと思い出された。
セシリアのことを話してくれとせがむパーシヴァルに、延々と思い出話をしてきたからかもしれない。ナディアの胸はすっかり感傷的だった。
「あぁ、あの木だ」
寂しく立つ木と、その傍らで光る小川の水面を見つけ、ナディアがそっと呟く。その傍にセシリアの墓があるはずだった。
横になっていたパーシヴァルが起き上がる。
馬車を止めると、苦々しい思い出のつまった場所で降り立った。
だが、墓に向かったナディアは目を見開いて立ち止まった。墓標の杖が地面に横たわり、セシリアの墓は暴かれていたのだ。
愕然としたあとに激しい怒りが沸き起こり、彼女は傍らに佇んでいた小川の精を呼びつけた。
「セシリアの眠りを邪魔したのは誰だ?」
彼女の声は怒りのあまり震えていた。
幼い少女の姿をした小川の精は小刻みに震え、泣き出してしまった。ナディアの気迫にすっかり怯えている。
「答えろ!」
ナディアが睨みつけると、彼女はすっかり小さくなりながら呟くように言った。
「わからない。でも、すごく怖かった」
「人間か?」
すると、小川の精が首を横に振る。
「違うわ。だけど、精霊でもないの」
彼女は気まずそうにパーシヴァルを見やった。
「その人と似た匂いがしたわ」
ナディアがパーシヴァルに鋭い視線を送ると、彼は両手を上げて肩をすくめた。
「睨むなよ。俺じゃない」
「じゃあ、誰が?」
「多分、俺の親父だ」
「黄泉の帝王か」
「恐らくな」
その瞬間、ナディアの体から闇が巻き起こる。小川の精の悲鳴はナディアの耳に届かなかった。
「セシリアの体を取り戻す」
そう言った刹那、沸き起こった闇が一斉に彼女に降り注ぎ、まるで津波に飲まれたように埋もれる。闇がふっと消えたとき、そこにナディアの姿はなかった。
「これだから時の女帝の力は厄介なんだよ」
残されたパーシヴァルがげんなりしたように、うなだれていた。
「セシリア」
彼は白い鳥を呼んだ。セシリアは翼を広げ、馬車から彼の差し出された腕に飛び移る。
「ナディアのあとを追うぞ。案内してくれ」
彼がそう言うや否や、セシリアがたき火のはぜる音に似た声で高らかに鳴いた。
その瞬間、小さな体がまるで行灯のようにぼんやりと光り出す。すると、パーシヴァルの前に闇が広がった。
それはパーシヴァルの生み出す闇ではなかった。もっと冷たく、もっと深い、すぐ先も見通せない深淵の闇だった。
彼はため息をついて、その闇の中に消えて行った。
小川の精が震えながらその光景を見守っている。パーシヴァルが闇に消えた瞬間、すべてが消え失せた。目の前に広がるのは、いつもののどかな草原の風景で、小川のせせらぎが何もなかったかのように響いている。
小川の精はその場にへたりこんでしまっていた。
「初めて見た……『神隠しの闇』なんて」
その声は、小川のせせらぎにかき消されるほど小さかった。
一方、我にかえったナディアは見たこともない場所に立っていた。
「ここは、どこだ?」
そこにあるのは薄暗い闇だった。ぽつり、ぽつりとぼんやり光る花が点在する他は、何もない。
辺りを見回し、背筋が凍りついた。彼女の背後には花の姿もなく、闇が深くなっている。その色の冷たさに、戦慄が走る。本能で彼女はそちらに行ってはいけないと悟った。
花があるほうはまだほのかに明るい。そちらへにじり寄り、ため息を漏らす。
ナディアは深い闇と正反対の方向に進んでいった。次第に花の数が多くなり、明るさも増していく。そのうち、光の絨毯を歩いているような気分になった。
「私はここを知っている」
思わず呟いたとき、ふわりと蛍のような光が飛んで来た。
「そうだ、ここはパーシヴァルがいた場所だ」
闇の盤が見せてくれたパーシヴァルは、確かにここにいた。しかし、ここがもし冥界だとしたら、自分はどうやってここに来たのか。
彼女が眉根を寄せたとき、前方から近づいて来る者がいた。
闇のような色の服。闇のような色の髪。闇のような色の瞳。髭をたくわえた精悍な顔つきの背が高い男で、見る者を黙らせる威厳があった。
ナディアには、彼が誰であるかすぐにわかった。彼はパーシヴァルにそっくりだったのだ。
「ようこそ、嫁御」と、彼は低い声で静かに言った。
「まさかパーシーを置いてくるとは。今度の女帝は気が強いらしいね。いや、今度の女帝も……と、言うべきかな」
話し方もパーシヴァルにそっくりだ。彼を『パーシー』と呼んだことで、彼女は自分の直感が正しいことを確信した。
「あなたが黄泉の帝王?」
「いかにも。だが、そんなに怒らないでおくれ。セシリアを取り戻しに来たんだろう?」
ナディアが目を見開くと、彼が高らかに指笛を鳴らした。
「何故知っているのかって顔をしているね。なに、驚くことじゃない。私の妻は世界中を見通せる水鏡を持っているからね」
彼の言葉が終わらないうちに、ナディアは鳥の羽音を聞いた。見ると、黒い鳥がやって来る。
「あれは……セシリア?」
「違うよ。この子は私の使い鳥だ」
黄泉の帝王の肩に止まった鳥は、まるでセシリアと同じ姿をしていた。ただ、その羽は闇のように真っ黒。そして蒼玉のような色をした瞳が三つある。
「さぁ、行こう」
「どこへ?」
「我が神殿だよ。お前をここに置いて行っては、私が妻と息子に叱られる。ここは冥界の果て。お前はとても危険なところにいるんだよ」
「危険って?」
「後ろにある闇をごらん」
ナディアが言われるがまま振り返り、無限の闇を見た。さきほど本能が警鐘を鳴らした闇が、どこまでも続いている。
「その先は『神隠しの闇』と呼ばれる次元の狭間だ。魂を好んで食らう魔物も住まう。我ら帝王でさえ道案内なくては行き来できない、正真正銘の闇だよ」
「道案内とは?」
「この鳥だ」
黄泉の帝王はそう言うと、肩の黒い鳥に柔らかな視線を向けた。
「セシリアに似ているわ」
ナディアがまじまじと見つめると、彼が短く笑う。
「そうだろうね」
訝しげに眉をひそめると、彼はパーシヴァルによく似た笑みを浮かべた。
「さぁ、ここで立ち話をしていても仕方ない。案内しよう。私の妻であり、お前の義理の母となる時の女帝のもとへ」
母という言葉に、ナディアの胸がざわついた。
「……わかったわ」
彼女は歩き出した黄泉の帝王についていく。
その背中は一見するとパーシヴァルに似ていたが、やはりどこか違っていた。その肩にかかる重圧をものともしない力強さを感じる。荘厳さすら感じる彼の雰囲気に、すっかり気圧されていた。
ナディアの視線の先に、いつか闇の盤が見せてくれた神殿があった。石造りの巨大な建造物は、神隠しの闇よりももっと謎に満ちて見えたのだった。
ナディアはいつしか、きつく唇を噛んでいた。自分で運命を切り開こうとしていたはずなのに、結局は何か大きなうねりに流されていただけのような気がして仕方なかった。
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