セシリアの教え


 セシリアが教えてくれたことは沢山あったが、それは自分の身を守る術ばかりだった。世間一般の礼儀、金の勘定、護身術、馬の扱い、野宿の仕方、楽器の弾き方に至るまで、いつかナディアが一人になっても生きていけるように仕向けていた。

 だが、幼いナディアはそのことに気づいていなかった。ただただ、見知らぬ世界が新鮮で目を輝かせていた。セシリアとの毎日が枯れた心に水を与えてくれるのを感じながら、無邪気に過ごしていたのだった。


 ある夜、馬車の中でセシリアに寄り添うように寝ていたナディアがうなされていた。


「ナディア、どうした?」


 セシリアがゆさぶると、ナディアが飛び起きた。荒く胸を上下させ、髪をかき上げる。


「施設の夢を見たわ」


「またか」


 セシリアが呟く。時折、ナディアは昔の夢を見てうなされた。


「他の子どもたちはどうしているのかな?」


 ナディアが力なく言った。


「施設にはね、ときどき大人が来て、子どもを引き取って行ったの。あの頃はわからなかったけど、単に里親が見つかったわけじゃなく、売られていった子もいたと思うわ。誰かが施設を去るたびに、羨ましくて仕方なかった。けど、あの子たちは今、笑っているのかな?」


 リンの後ろ姿がよぎる。彼は望まれて施設を出たように見えたが、本当のところはわからない。セシリアは毛布をかぶり、また横になる。


「どこへ連れて行かれても自分次第だろう。自分の力で生きていけない者はどこへ行っても同じ末路だ」


 それはセシリアの信条だった。『誰にも頼らずに生きていく強さを持て。誰にも媚びずに、流されずに、自分の意志を持て』というのが、彼女の口癖だった。


「……そうね」


 ナディアが力なく頷くと、セシリアが低い声で囁いた。


「お前はかつて施設を抜け出して、明日を切り開こうとした。その意志がある分、他の子どもたちとはどこか違うだろう」


 それはナディアへの励ましでもあり、同時に『他の子どもたちが穏やかな環境にいるとは決して限らないだろう』というセシリアの冷静な見解だった。


「はい」


 ナディアは短く答えて、また横になった。セシリアの言葉は同時に『自分を強く持て』という教えに聞こえた。

 ナディアの吐息が寝息に変わったのを聞き、セシリアが呟く。


「すまない。もっと早く出逢えていれば、お前は悪夢にうなされずに済んだろうに」


 セシリアの目には慈愛のような穏やかな光があった。だが、彼女はナディアにはそういう顔をなるべく見せないようにしていた。

 ナディアが心を許せば許すほど、突き放すようなことが増えた。かと思えば、ナディアが心細いときなどはそっと寄り添うことを忘れないのだった。


 野宿をしていた日のことだ。たき火の前で暖をとっていると、ナディアがすっと空を見上げた。


「セシリア、明日は雨だそうよ。雨雲がこっちに向かってるって月の精が言ってるわ」


「そうか」


 セシリアは精霊を見る力のことを一度も不気味だと言わなかったし、それどころか予言めいた言葉を重宝しているようだった。実際、ナディアに精霊が吹き込むことは旅に役立つことが多かった。


「なんだかんだ言って、精霊はお前を好いているんだね」


 セシリアが言うと、ナディアが笑う。


「意地悪もされるわよ。特に月の光の精なんて、無責任なもんよ。月の光は声が大きいからうるさいの。だけど、太陽の光の精は声が小さいわ。きっと遠くにいるのね、太陽の精は」


「あぁ、お前に脱走をすすめてくれた精霊か」


「そうよ。あのときは気づかなかったけどね」


 そう言ってナディアが伸びをする。「ふう」と吐息を漏らし、こう言った。


「あの朝、きっと太陽の光は森へ向かうセシリアを見かけたのね。セシリアが私を助ける優しい人だってことがわかってたのかも」


「さぁ。それはどうかな。それに、お前を助けたのは、目の代わりが欲しかったからだ」


 その憎まれ口がセシリアの照れ隠しだと知るナディアが微笑んだ。実際は、自力で施設を抜け出した根性を気に入ったのだろうと彼女は考えていた。


「セシリア、私たちずっとこうしていられるかな?」


 この頃のナディアは言い知れぬ不安に襲われるようになっていた。セシリアを家族のように思う自分に気づいてからだ。その存在を失うことが怖かった。それを見抜いてか、セシリアが淡々と呟く。


「いずれは別れなければならないね」


 心を押しつぶす痛みに、ナディアが膝を抱えた。嘘でもいいから「ずっと一緒だ」と言って欲しい。だが、何度訊いても答えはいつも同じなのだった。

 そして、セシリアのいう別れはすぐそこまで押し迫っていたのだった。


 ある日の朝のことだった。いつものようにナディアが幌馬車の中で目覚めると、隣でセシリアが荒い息をしていた。

 いつもならセシリアは自分より先に起きているはずなのに。そう訝しく思い、彼女を揺さぶると、力なく仰向けになった。その顔は汗にまみれ、苦しそうに歪んでいる。


「セシリア!」


 額を触るナディアの血の気が引いた。セシリアの熱は高く、慌てて熱冷ましを飲ませても、何も変わらなかった。


「医者に診てもらわないと」


 焦るナディアに、セシリアが苦しい息の下からこう言った。


「……必要ない。無駄だよ」


「そんなことない!」


 ナディアは一喝すると、大急ぎでたき火の後始末をし、馬車を走らせた。一番近い都市を目指す間にも、手綱を持つ手に汗が滲む。馬を急き立てる額に、うっすら焦りの汗が浮かんでいた。

 海沿いの都市にたどり着くと、彼女は真っ先に医師を探した。だが、どの診療所の扉を叩いても相手にされなかった。セシリアの様子を見た医師たちは誰もが治療すらせず「他所へ行ってくれ」とだけ言うのだった。

 最後の診療所では診てもくれなかった。老いた医師がこう言ったのだ。


「うちは旅の者は診ない。お前たちは大抵、金がないからね」


 追い出されたとき、閉められた扉を力任せに叩き続けた。


「お願いですから! ちょっとでもいいから診てください!」


 涙まじりに声が枯れるまで叫んだ。

 背後の幌馬車の中でうめくセシリアを思い、ナディアが唇を噛んだ。この世は施設となんら変わらないじゃないか。なんて無情なんだ。


「お願いですから……」


 扉のそばにうずくまり、涙声で何度も繰り返した。

 そのとき、錠のはずれる金属音がし、扉が開いた。中からさきほどの老いた医師が出てきて、苦り切った顔でこう声をかけた。


「ちょっとでいいんだな?」


「はい! お願いします!」


 医師は幌馬車へ上がり込み、セシリアの脈を測る。口を開けて喉の奥や舌を見ると、次いで首筋や胸元、腹部を触診し、最後に唸り声を上げた。

 祈るような気持ちでその様子を見ていたナディアに、老医師は首を横に振る。


「これは無理だ」


「無理ってどういうことですか」


「つまり、あんたがどんなに金貨を山積みしたところで、治せる医師はいないということだ。治療法がわからないからね」


「そんな……」


 崩れ落ちるようにへたり込むナディアに、老医師はにべもなく言う。


「原因すらわからない」


 そして彼は幌馬車を降り、扉の中に半分身を隠しながら言った。


「儂をヤブ医者と恨まんでくれよ。たとえ王家の御典医でもわかりゃしないさ」


 そう言い残し、扉が重い音をたてた。

 ナディアは呆然としながら、潮風の精が歌うのを聞いていた。


「時がきたんだよ。別れの時が。諸手を振ってさようならさ」


 潮風の精を睨みつけた瞬間、背後から「ねぇ、君」と声をかけられた。


「大丈夫かい?」


 振り返ると、年若い優男が立っている。その顔はにやけていて、心から心配しているようには見えなかった。


 ナディアは涙を拭い、吐き捨てるように言った。


「いえ、なんでもありません」


 この男の下心を隠そうともしない顔が気に入らなかった。上から下まで舐めるように、視線を走らせている。


「実は聞こえてたんだけどさ、連れが熱病なんだって?」


 馬車に乗り込もうとしたナディアが、思わず動きを止める。男はナディアに歩み寄り、耳元でこう囁く。


「俺の屋敷には氷室があるよ。氷を分けてやろうか?」


 氷が貴重品なのは、ナディアもよく知っていた。同時に、こんな暖かい港町にあるはずもないことも。


「だからさぁ、少し俺と過ごさない? 君、可愛いよね。幾つ?」


 男の手が腰まわりを撫でようとする。その途端、ナディアの肘が男のみぞおちを思い切り突いた。

 叫び声を上げた男の襟首を掴んで持ち上げ、今度は首の後ろに思いきり拳をくらわせる。

 男が白目をむいて倒れ込むのを見届けもせず、ナディアは馬車に飛び乗って馬に鞭を打った。

 都市の出口をめざすナディアの視界がぼやけ、嗚咽が漏れ出た。

 金ばかりの社会も、弱みにつけこむ人間も、セシリアの病も、彼女を助けることすらできない自分もすべてが憎かった。セシリアは脱走した自分を助けてくれたのに、自分はなんて無力だろうともどかしさに泣いた。それはまるで、叫びにも似た泣き声だった。


 都市を出ると、見渡す限りの草原が続いていた。草原を割るように流れる小川の水面が太陽の光を反射していた。

 ナディアは馬車を街道から草原に移し、小川に向かう。川沿いに木が茂る場所を見つけ、そこに馬をつないだ。

 小川の水は浅く、冷えていた。ナディアはその水で布を濡らし、馬車の中へ駆け上がる。セシリアは相変わらず苦しい顔で横になっていたが、額に冷たい布をあてると、呻くように言った。


「だから無駄だと言ったのに」


「起きたの?」


 安堵と心細さの入り交じるナディアの声に、セシリアはそっと微笑む。


「いけないねぇ、ナディア。むやみに拳を振るなと教えたはずだよ」


「身に危険が迫ったときは容赦するなってセシリアは教えてくれたわ」


 額にまとわりつく白い髪を払ってやりながら、強がることがこんなに辛いとは知らなかったと、苦々しく思った。

 セシリアの容態は夜になっても、変わらなかった。それどころか、どんどん衰弱していくのが見て取れた。セシリアの最期を覚悟しなければならないと悟り、ナディアの心は萎れていく。


「ねぇ、セシリア。一度でいいからあなたの瞳の色を見たいわ」


 セシリアに寄り添うように横になりながら、ナディアが言う。


「その瞼の裏で、どんな色をしているのかな?」


 セシリアは唇だけで笑う。


「この世界に生まれ落ちてから一度も開いたことのない目だ」


 ナディアがそっと瞼を撫でる。


「きっと、優しい色よ」


 心からそう言えた。どんな色だとしても、きっとその眼差しは誰よりも優しいはずだ。実の母よりも、ずっと美しい色をしているだろう。


 翌朝、セシリアは苦しい息の下から、こう呻いた。


「あぁ、ナディア。鳥の鳴き声が近づいてきたよ」


 熱による幻聴だろうか。ナディアの目から思わず大粒の涙がこぼれ落ちた。


「セシリア、鳥の声なんてしないわ」


 だが、セシリアはなおもこう続ける。


「まさかこんなに早いとは思わなかったな。この体はこうも脆い。……いや、お前が強いのだな」


「何を言っているの?」


 咄嗟にセシリアの手を握りしめるが、セシリアの意識は朦朧としていた。


「あぁ、鳥の羽ばたきが聞こえる。もう時間だ」


 鳥の羽ばたきはおろか、風の音すらしない。

 ナディアにはセシリアが何を言っているのかわからなかったが、一字一句聞き逃すまいと、じっとセシリアの声に耳を傾けた。


「私の役目はお前を強く育てることだった。いつかくる日のために」


「いつかくる日?」


 問い返すと、セシリアが微笑む。


「お前が幸せになる日だ。お前はきっと、この世で最も幸せな女になる」


 ナディアは堰を切ったように泣き出した。


「セシリアがいてくれなきゃ無理よ」


「案ずるな。時はくる」


 セシリアはふっと息を飲み、静かに言った。


「最後の教えだ。精霊には用心なさい」


「えっ?」


「お前を好く精霊もいれば、妬んだり陥れようとする精霊もいるだろう。いろんな奴がいるという点では、彼らも人間と変わるまい」


「はい」


 人間よりはいくらかマシだとは思いながらも、彼女は素直に頷いた。今までセシリアの教えが間違っていたことは一度もなかったからだ。


「闇に呑まれるなよ」


 ナディアは何度も頷き返し、セシリアの骨張った手を両手で包み込んだ。


「愛しい子……私の……」


 それがセシリアの最期の言葉だった。


「嫌よ! ねぇ、セシリア!」


 力の抜けた手を必死で擦る。体を揺さぶり、セシリアの胸に顔を埋めた。


「お願い! 戻ってきて!」


 彼女は心の底から何度もそう叫んだ。セシリアに向かって口に出した願いは、これが最初で最後だった。


 小川の傍に寂しく立つ木の下に、セシリアは埋められた。墓標として立てたのは、彼女が愛用していた杖だった。

 ナディアは小川のせせらぎを聞きながら、墓前に突っ立っていた。傍らで小川の精がもらい泣きをしている。だが、ナディアの涙はもう止まっていた。

 強くあれ。この日のために、セシリアはいろんなことを教えてくれたのだから。

 ナディアがそう自分に言い聞かせて唇を噛んだときだった。頭上から一羽の鳥が舞い降り、墓標の杖の上にとまった。雪のように白い羽と長い尾をしていて、見たことのない鳥だった。


「あぁ、お前。そこは私の大事な人の墓だから乗るのはやめてちょうだい」


 ナディアが諌めると、まるで言葉が通じたかのように鳥が翼を広げる。


「うわ!」


 白い鳥は颯爽と羽ばたくと、ナディアの左肩に飛び移ってきた。


「お前、人に慣れてるのね」


 思わず笑うナディアに、白い鳥がたき火のはぜる音に似た声で鳴いた。


「お前も私みたいに、どこかから逃げてきたの?」


 恐る恐る手を伸ばしても、白い鳥は逃げようとしなかった。その羽を撫でながら、彼女は呟く。


「柔らかい。まるでセシリアの髪ね」


 鳥の目を見やると、小さな紅玉をあしらったような目をしている。


「綺麗ね。セシリアももしかしたら赤い瞳だったのかもしれないわ」


 鳥は羽をばたつかせながら、せわしなく動いているが、飛び立つ気配はなかった。


「一緒においで」


 ナディアが言う。


「私の一番大事な人の名前をあげよう。お前の名前はセシリアだ」


 その日以来、ナディアの肩には白い鳥が乗るようになった。

 この鳥の習性なのか、決してナディアの前では何も食べようとしなかった。ときどき数日間いなくなることがあったため、ナディアは自分で食料を調達してくるのだろうと考えていたが、何を与えても水すら口にしないのだった。

 初めてこの鳥が姿を消した日、ナディアは心から落胆した。翌朝になってセシリアの羽ばたきが聞こえたとき、思わず歓声を漏らしたほどだ。

 白い鳥は時折いなくなることがあったが、それでも、必ずナディアの元に帰ってくる。それが、彼女を喜ばせた。あのセシリアは戻らない。だが、この小さなセシリアだけは必ず戻ってきてくれる。

 次第にナディアは、この鳥にだけ微笑むようになっていた。かつて、吟遊詩人にだけはとびきりの笑顔を向けたように。

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