泥棒は宇宙人に教育をする。

 まだ夢の余韻が残っており、宇宙船ではなくホテルにいることを確かめながら、無理やり体を起こして、歯を磨こうとして歯ブラシが一本しかなかったことを思い出す。

 うがいだけして、シャワーをひっかぶったあと、宇宙人に身支度を済ませるように言う。

「はい。あの、ええと、身支度、とは」

 口角を上げたまま、宇宙人は言う。ううん、困ったなら困ったような顔をすれば良いのに、こいつは律儀に笑顔を崩さない。物覚えの良い奴だとは思うが、ほとんど無表情と一緒だ。昨日の食事の時のような、自然な表情が見られるといいんだけどな。そうもいかないか。

「とりあえず歯を磨く。顔を洗う。服に、というのは、昨日里見に買ってもらった服があるだろう。それに着替える。そんなところか」

「手伝っては、いただけませんか」

「顔を洗うところまでは」

「服を、着替えるのは、手伝いが、欲しいのですが」

「あのな。君は女の子だろう。女の子は、一般に、男には服を着替えさせないんだ」

 いや、必ずしもそうではないんだが、とりあえずこれでいいよな? ルールとしては。

「はい……」

 と、初めて語尾を掠れさせて、ひとまず宇宙人は歯を磨きだした。

「あ、歯磨き粉、つけろよ」

 何の気なしに言う。単に、忘れていたと思ったからだ。ところが、宇宙人の返事には不思議な間が有った。

「……はい。すみません、忘れて、いました」

 そう言って、のろのろと、歯ブラシに歯磨き粉をつけようとする。なんとなくピンと来て、尋ねる。

「忘れていたというのは、本当か」

「……いいえ。すみません、これは、その、刺激が、強いので」

「嫌だったか」

「……はい。あの、すみません」

「いや、謝ることはないし、嘘をつくくらい嫌なら、別につけなくたって、いいんだ」

 笑いを噛み殺しながら、そう言ってやる。まったく、子供かよ。

 と思って、いや、子供と同じなんだと思いなおす。こいつが本当に、宇宙で長年生活してきたとしたら。あるいは、地球のどこかで、髪も切ってもらえずに、地球の映像だけを延々と見続ける生活をしてきたとしたら、こいつは何も知らなくって当然だし、というかなんだその生活。

 宇宙か座敷牢かしらないが、もうちょっと何かあるだろ。仮に宇宙だとして、宇宙はそりゃあ無菌なのかもしれないが、基本的生活習慣くらい、教えておけよ。靴を履かせろ。味のする飯を作れ。基本的生活習慣くらい、伝えておけ。異星人だか養育者だかへの文句はどんどん増えていく。


「あのう」

「なんだ」

「そもそも、歯を、磨くのは、何故ですか?」

「えっとなあ」

 そういうもんだ、と答えるのはたやすかったが、これは結構大事な質問なんじゃあないかと思った。何故自分がそういうことをするのか。何故こいつの言うことを聞かなきゃあいけないのか。自分が納得してから行動する。それはとても大事なことだ。それがなければ、悪い奴に騙されて、この子は何をさせられるか、分かったもんじゃあない。

 泥棒が悪い奴でないかどうかは議論が必要なところだとは思うが。

「まず、それは非常に大事な質問だ。自分が納得いかないことは、極力質問しろ。何故、それをするのか。あるいは、しないのか。それで、納得したことだけを、するのがいいんじゃあないかと思う。判断は、難しいだろうけどな」

 そう。その判断は、とても難しい。

 でもその判断ができなければ、誰かが言ったことを、ただ諾々と行うだけの人間になる。ただ生存するだけの。

「はい」

 と、笑顔を作って宇宙人は言う。

「だからまず、最初の質問に答えると、地球には、こう、目に見えない細菌とかウイルスとか、そういう生物――でいいのかな。まあ、なんか、そういうものがある。で、それはお前の体に取付いて、良いことをすることもあるが、時には悪さをする。歯にくっつく虫歯菌というのがいて、こいつらは、夜の間に口の中で繁殖する。虫歯菌の調子がいいと、虫歯、と言って、まあようするに、歯がぼろぼろになる。これは相当痛いし、人間は一度しか歯の生え変わりのチャンスがないし、お前はもうそのチャンスを行使してしまっているから、ようするに、一度虫歯になったら取り返しがつかない。だから、虫歯にならないように朝起きたら歯を磨く。ここまではいいか」

「はい。虫歯菌を、減らすために、洗浄、するのですね」

「そう。物分かりがいいな。そういうことだ。で、ここからは詳しく知っている訳じゃあないから、お前がこう……地球で暮らせるようになったら、歯医者に行って詳しく聞いてほしいが、まあ、普通にブラシでこするだけでは菌が減らないこともあるらしい。だから、歯磨き粉を付けて、その、効率化を図るんだな。だからまあ、不味いというか、刺激が強いかもしれないが、つけた方がいいんじゃあないか、という気もする。でも、嘘をついてまで……ふふっ、怒ってる訳じゃあないぞ、おかしいんだ。嘘をついてまで、つけたくないんだったら、つけなくたっていいんじゃあないか」

「はい。でも、そうですね。効率化、の、ために、努力します」

「それがいいかもしれないな。それからな」

「はい」

「その、なんだ。いつまでも、不自然に、笑っていなくたっていいんだ」

「不自然、でしたか」

 口角が下がる。急に真顔に戻り、なんだかすごく落ち込んでしまったように見えて、少しだけ、焦る。

「いやその、なんていうかな。まあ、笑いたいときに笑ったり、泣きたいときに泣いたり、そういうのが良いと思うんだ。だから、理由もなく、言われたから笑顔を作り続けようというのは、ちょっと、違うんじゃあないかなと思って」

「理由は、あります」

 理由、あるのかよ。

「なんだ」

「光平が、『いい顔だな』、と言ったので」

「言ったか、そんなこと」

「はい。言いました」

「そうか」

 そんなことを理由にしないで欲しい。ただやはり、良い子だな、とそう思った。

「まあなんだ、その、だったら、そうだな。微笑んでいるのは、悪いことではない。たぶんその方が信頼も得られやすいだろうし。ただ、無理はするなよ」

「はい」

 そう言って微笑んだ宇宙人の笑顔は、少しだけ、柔らかくなったような気もした。


 歯磨きを終えて、着替えをバスルームの外から応援して、髪をどうにかこうにか地面につかないようにして。気づけば一時間が経っている。今この宇宙人は化粧の一つもしていないにもかかわらず、それでもこれだけの時間がかかるということは、このペースで果たして、こいつを「地球で暮らせる」ようにするにはどれだけの時間がかかるのか。前途多難な予感がして、残念ながら、その予感は外れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る