十六

 家を出たのが早すぎて、俺は梓の家の前で数十分時間を潰す羽目に陥った。身勝手だなとは思うけれど、梓にメールを送る。多分、あいつは家を出るまでメールを見ないだろう。でも、何かしていなければ、落ち着かなかったのだ。

 花壇の縁に腰を下ろして、深い溜息をついた。

 俺は一体、何を今まで頑なに我慢してきたんだろう。ただ言ってしまえばよかったことなんだ。不満だって、嫌だっていう言葉だって。でも、ここまでならなければ、届かなかったような気もした。反抗期を終わらせる手段は、霧が晴れたようにわかる――俺が謝りさえすれば、いい。

 怒鳴ってごめんなさい。反抗してごめんなさい。もう、しないから――

 でも、本当に謝る必要があるんだろうか? 俺には、わからない。いつか諦めたら、わかるだろうか。

 少なくとも今の俺は、謝る必要なんてないと思っている。謝りたくない。俺が悪かったことにしたくない。たとえ、家族でおれが唯一の悪者になったとしても。俺が俺を悪者だと認めたくはない。

 車が車道を駆け抜ける。がらがら、とシャッターの開く音がする。数軒隣の魚屋から、生臭い臭いが漂った。笑い声が聞こえる。子供達が、ぞろぞろと中学校へ向かって歩いて来る。

「あれっ、赤司だ」

「おはよう」

「おはよー」

 同級生達が、きょとんとして俺を見下ろした。俺は、力なく笑った。

「おはよう、お前ら早いな」

「はは、何言ってんだよ、赤司の方が早いじゃん」

 彼らはからからと笑った。

 幸せそうだな。

 不意に、そんな気持ちが込み上げて、俺は苦しくて、笑った。

「え? ここもしかして、須﨑んち?」

 三人組の一人――大黒屋君が、ビルの上を見上げた。

「うん」

 俺はなんのことはなく答えた。

「そっ、か……」

 大黒屋君は、何かを言い澱むように視線を泳がせた。

「えっ、どうしたの」

 その様子に三人組のもう二人、林君と出田君が首を傾げる。大黒屋君は躊躇うように唇を噛んで、開いた。

「ほら、あの、崎方町の……」

「あっ」

 林君が声をあげて、出田君は車道にさっと目を逸らした。俺は何の話か分からなくて、眉根を寄せた。

「え、赤司知らないの?」

「何が?」

 出田君は目を伏せて、頭を掻いた。

「そっか……てっきりそれで迎えに来てるとばかり」

「だから、何が」

 俺は少しだけ苛立って、言った。

「美術館、燃えたって」

 大黒屋君が言う。

 何を言われたのか、よくわからなかった。

 もえたって。

 もえた、って。

 もえたって、どういうことだ? ……何が?

「全焼。昨日の夜さ、サイレンがずっと鳴ってたろ。詳しい原因は分かってないらしいけどさ、裏口の方に煙草の吸殻が落ちてたって噂。観光客の捨てたやつじゃないかなって言われてるけど。ほら、最近空気乾燥してて、すぐ火の手上がりやすいじゃんか……」

「全焼?」

 俺は壊れた機械のように繰り返した。

「う、うん」

「じゃあ、絵は?」

 俺はよほど気色悪い顔をしていたのかもしれない。三人の顔が、強張った。

「そりゃ……燃えたんじゃねえ、かな」

 出田君が、小さな声で言った。

 俺は呆然として、足元の石畳を見下ろした。

 三人の声が、じゃあな、と言って、離れていく。首が、動かない。

 虫が花壇の花にぶつかってきたけれど、それさえ振り払う気力が起きなかった。

 全焼。焼けた。絵は、焼けてしまった。全員の絵が。あの、昔からあった湯屋が。

 梓――!

 心臓が、どくどく、ばくばく、と激しく鼓動を打ち始めた。知っているんだろうか。知っているはずがない。この家に、そんな噂話が朝一で入ってくるわけがない。

 いつ、言えばいいんだろう。どう、伝えれば。タンタンタン、という音が鈍く耳の奥に響いた。心臓の鼓動にしては、軽やかだ。

 がちゃり、と音がして、ビルの玄関が開いた。俺の肩が、酷く跳ねた。

「ごめん……! 遅くなった、メールさっき気づいたよ。なんかあったの?」

 梓が、息を切らして顔を覗かせた。階段を駆け下りてきたのだろう。ああ、あの音は、梓の足音だったのかとぼんやり考えた。

 声が、出ない。

 梓は不思議そうに首を傾げた。頬が少しだけ上気している。俺の胸が鋭い痛みで貫かれた。

 言えない。言えるわけがない。どう言ったら、梓は傷つかない? 苦しまない?

 俺が微動だにしないのを見かねて、梓が俺の腕を引き上げた。俺はよろよろと立ち上がった。梓は眉根を寄せる。

「ほら、人が変に思って見てるだろ。なんかあったなら……話くらい、聞くから。とりあえず歩いてよ」

 梓に手首を掴まれ、引かれる。

 視界の端に白い靄がかかって、自分が踏みしめる歩道でさえうまく見えない。俺は梓の手をそっと引きはがすと、震える手で、鞄から眼鏡を取り出した。けれど、眼鏡をはめたところで、視界は晴れない。

「ねえ、どうしたんだよ。泣きそうな顔してるけど」

「今日、初めて、親に反抗した」

「なんだ、そんなこと」

 梓は肩をすくめた。違うんだ。俺は首を激しく振った。けれど、梓は別の解釈をしたようだった。

「反抗なんて……悪いことじゃないんだから、思いつめたって駄目だよ。いいんじゃない? たまには反抗すれば。家の中では敵になっちゃうかもしれないけどさ、僕はいつまでも味方でいてやるよ」

 梓は穏やかな声で言った。俯いたまま立ち尽くしたままの俺の手首を、そっと握って、引っ張る。

「梓……なんで、そう言うこと言えんの」

「え、何が?」

 梓は不思議そうに首を傾げた。

「……じゃあ、梓には、味方がいないってわけだ」

 俺の言葉に、梓が立ち止まる。弱々しく顔をあげると、梓は険しい表情を顔に浮かべていた。

「なんで、逆になんで、絵哉はそういう発想になったの」

「お前、自分の知ってる言葉でしか話さねえだろ」

 俺は重たい足を引きずる。

「お前が反抗したら、誰が味方になってくれるのかなって思ってさ」

 今度は、俺が梓の体を引く番だった。まるで、鎖だ。手錠と手錠で、繋がっているみたい。

 梓はしばらく黙っていた。

「僕の父親はさ、どうしようもない人なんだ」

 ぽつり、と零す。

「ちょっとでも神経を逆なでしたら、怪物みたいに怒りだして、手が付けられない。そうじゃない時は優しいけどね。冗談だって言うさ。でも、怒ってる時の方が多いから、もう覚えてないや」

 なんで。

 そんなこと、今話すんだよ。

 俺は、後ろから追いかけてくる梓の言葉に、唇を噛み締めた。

「怒ったら、すぐ暴力をふるうんだよ。僕はぶたれたことないけどね。母親に暴力を振るおうとする。ドアを殴ってひび割れるし、コップは何度割ったか知らない。僕が見てるから踏みとどまるみたいだけど、僕が生まれていない頃は、母親ね、石畳の道の上で背負い投げされて骨折したこともあるんだってさ。人を叩こうが叩くまいが、壁はすぐ殴るし、商店街の真ん中だってのに大声でわめくし、止まらないし、最悪。だからね、僕だけが、母親の味方だったんだよ。でもね、母親が父親の悪口言うのもなんだか辛くてさ、小さい頃から、ずっと、二人の間で行き来してた。なんでこんなことしなきゃいけないのかなって思いながら、喧嘩した二人の間を行き来して、お互いの悪口を聞いて育ったんだ」

 梓は、笑った。

「楽しいことだってたくさんあったよ。親としてはいい親だと思うんだ。ピアノだって習わせてくれたし、欲しい本はなんだって買ってくれた。美味しいものは食べさせてくれる。笑いあったことだってたくさんだ。でもさ。でも、どうしたって、暗い気持ちになった時、真っ暗な家で二人の間を行き来して時間を潰していたことを思い出すんだ。それがいつだったか爆発してさ、僕はね、よりにもよって、母親に反抗したんだ。多分、父親は怖かったから、父親にはできなかったんだね。弱虫な僕は、弱者の母親に反抗した。否定して、産んでくれなきゃよかったのにって言ったりしてさ。ひどいよね。まあ、今でも続いてるんだけどさ」

「いつから?」

 俺の言葉に、梓は鼻をすすった。

「さあ……夏休みの途中からかな。ずっと家にいて、母親と四六時中顔つき合わせてたら、たまらなくなったんだ。何に苛ついたのか、自分でもよくわからないよ」

 梓は、ようやく俺と並んだ。俺の手首は、少しだけ赤くなっていた。

「ついでに言うと、絵哉を家に連れて来た時は、すでに反抗は始まってたんだ。僕ね、君を利用したんだよ。君を連れていけば、場が持つかと思ってさ。楽だったよ、すごく楽だった。君がいる時は、母親、君に気を使わせないように、いつもみたいに振る舞ってくれてたからね。でもさ、いなくなると、だめだね。僕が、僕だけが、悪者みたい」

 梓は息を切らしながら、呟いた。気が付かないうちに、二人で歩く速度は速くなっていた。

「僕が寝ている間にさ、今日の梓はこんなことを言ったとか、父親に言いつけてるんだよ、母親が。ああ、あんなに喧嘩してるくせに、こういう時は頼るんだなあと思ったら、どんどんどす黒い気持ちがたまってさ。君の絵を描いてる時も、ふとした時に目の前が真っ暗になるんだ。そう言う気持ちで君を描いてたから、君を振り回してしまった。よくなかったと思うんだ。でもさ、描き終わったら、どうでもよくなった。僕の味方は誰もいなくてもいい。いや、違うかな。本当は、両親だけが僕の味方なんだ。僕が二人を敵とみなしているだけ。でも、いいんだ。僕はね、もう誰のことも好きにならないし、好かれなくていい。でも、変だね。この間佐倉さんに泣かれて、すごく嬉しかった。頭を撫でたくなったし、抱きしめたくなったんだ。……馬鹿みたい」

「お前、あの人のこと好きだったの?」

「知らない。可愛いとは思うよ。一生懸命だし。僕の絵を見て泣いてくれたのなんて、後にも先にもあの子と、絵哉だけだよ。それで、好きにならない方がおかしいじゃない」

「言えばいいのに」

「言わないよ」

 梓は、少しだけ耳を染めて、目を伏せた。

「DV男の息子は、将来自分も好きな人に暴力をふるうようになるんだってよ。だから、僕は、女の子なんていらない。絵哉さえいればいい。だから僕は絵哉の味方になら、どれだけでもなるよ。でも、僕からはいくらだって逃げてくれていい。僕は、すごく歪んでるから」

「誰が言ったんだよ、歪んでるってよ」

 俺は、少しだけ苛立ちの混じった声で言った。

 梓は俺の目を見て、へら、と笑った。

「お母さん」



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