俺達はその日、無言で帰途についた。今日は、梓の家に寄る気になれなかった。梓は何かを思い詰めていたし、俺はと言えば、梓の言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いて、足が地につかない。

 梓は、狡いと思う。

 梓は、自分の持っている全てを俺にぶつけてくる。多分それは、梓が自分で言ったように、俺のことを認めてくれているからだ。

 梓は天才だ。だからきっと無意識に、自分以外の全てを見下しているのだ。見下しているからこそ、周りに溶け込めない。それを、周りは大して気にも留めていないのに、梓だけが、気に病んでいる。溶け込めない自分を否定しようとするから、きっと苦しいのだ。自分の描いた絵を傷つけるのも、唇を血が滲むほどに噛むのも、爪を噛んだり、髪を引っ張るのも、自傷行為以外のなんだというのだろう。必要以上に自分を貶めている――俺から見た梓は、そういう人間だ。

 あの家でなければ落ち着かないというのは逃げだ。梓の家に訪れるうち、僅かながら肌で感じていた……恐らくあの家は、――少なくとも梓にとっては、上手くいっていない。だから梓は、いつでもあの玄関で絵を描いているのだ。母親と父親を繋ぐ砦を、守っているつもりで。鋏の刃と刃の間に挟まれて、苦しんでいるのだ。俺にはそれだって、まるで自傷行為だと思えた。無駄に傷を受けて傷だらけになった心で、母親の愛情だけを頼りに生きているのだ。だから梓は、花がなければいられない。

 そんな梓の心を開いたのが、まさか俺だなんて、想像すらしていなかった。俺にはそんな価値があると思えていなかったから。

 梓は、俺になら心を曝け出せると思っているのかもしれない。いや、それだって無自覚かもしれない。

 でも、俺には無理だ。

 分かれ道で、妹たちの世話をしなければいけないからと、聞かれてもいないのに言い訳をした。梓は何も言わなかった。またね、とも言わなかった。俺は梓の言葉を待ち続けて、諦めて、「また明日な」と呟いて背を向ける。

 俺には無理だ。俺は梓と同じ世界は見られない。梓にはわからないんだ。恵まれている子供だから、わからないんだ。梓の苦悩が些末だなんて言わない。けれど俺には、梓と同じ悩みを持つゆとりさえないのだ。梓にはきっとわからない。男なのにピアノを簡単に習わせてもらえるような梓には、きっとわからないのだ。

 俺は苦しさを覚えて、蹲った。何がしたいのか自分でもわからない。俺は一体どうなりたいのだろう。俺がこんなに苦しいなんて、梓はきっと知らない。もういっそ、友達なんかやめてしまえばいいのかもしれない。けれど、でも、嫌いじゃないんだ。梓のことが、嫌いじゃないんだ。

 俺はアスファルトに射した自分の影を見つめて、瞼を閉じた。何をやってるんだろう。帰らなきゃ。音と色を風呂に入れて、母さんの手伝いをして――

 再び目を開けて、ぼんやりと影を見つめていると、アスファルトの隙間に虫の死骸を視とめた。俺はどこか不快な気持ちになって立ち上がった。鳴りだした『夕焼け小焼け』に追い立てられるように、公園を駆け抜けて家路についた。



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