梓が毎日眠れない程に思い詰めていたことと言うのは、夏休み明けの企画展に出す絵のことだ。

 俺たちの住む街の外れには、古さを感じさせる黒ずんだ木造の一軒家があった。隣家との間に挟まれたそれは、入り口は狭く、奥行きは長くて二階建て。狭い土地に残されたかつての湯屋だ。今でもその壁には、『湯』と彫られた古い木の看板が立て掛けられている。

 この街で、最も古い建物と言われていた。そこに暮らしていた老婆は、土地から立退き建物を改築することを頑に拒んだ。家々が流行に乗った西洋風の建物に置き換わり、町並みが一新されていく中、その建物だけがぽつんと時代に取り残されたようだった。老婆の死後、役所はこれ幸いにと建物の改修に着手したが、市長から突然ストップがかかった。

 この湯屋を利用して、かつての古い町並みを取り戻し、観光客を呼び寄せよう――要するに、そういうことだったらしい。

 湯屋の壁には、老婆が孫からもらった拙いクレヨン絵が額に入れて飾られていた。それらの絵は老婆の家族達が引き取ったが、その景色にヒントを得て持ち上がったのが、湯屋を小さな美術館にしようと言う考えだった。

 市から助成金が出たことにより、湯屋の周りの建物はやがて黒い屋根瓦に覆われた『日本家屋風』の外観へと変貌していった。その頃の街の移り変わりは凄まじく、当時小学生だった俺には、街全体が何か不思議な力に飲み込まれ、まるで時代劇のような異世界に変わってしまった心地がした。

 けれど少し成長して眺めてみると、付け焼き刃に作られた『古風めいた』家々の間で、かつての湯屋はかえってただ一つの異物に見えるのだった。

 兎にも角にも、湯屋がこの小さな街の小さな美術館として生まれ変わってから、今年で丁度五年目だった。五周年の記念に市が計画したのは、美術館に未来を担う若者の作品をずらりと展示すると言うことだった。対象となったのは市内に済む小中高生。テーマは既に決まっていた。【若者が見るこの街】。

 恐らくは、年齢の違いによる表現力の差を考慮したのだろうと思う。学校側は更にそこから小学生は街の動植物、中学生は街の人々、高校生は町並みを描く、と言ったように制限を設けた。俺の通う中学校の美術部のホープである梓は、特に期待されていた。全国でも今や有名になった天才少年は、一体どんな人物画を描くのだろう――そしてそれが、この美術展に隠された一つの目玉だった。それも金の目玉だ。

 だからこそ、梓は思い詰めていた。俺に零したように、梓は人物画を描くことを極度に嫌がった。そもそもがコンクールのために絵を描くのも嫌いだった。本人が元々「苦手だ」と自覚している絵に期待を寄せられているのだから、それがどれだけ梓にとって負担だったのか、俺には想像することしか出来ない。この際、周りが「君は苦手だと言いながら素晴らしい絵を描くんだよ」と褒めたところで、何の気休めにもならない。

 梓が人物画を描くのを躊躇う理由に、共感は出来なかった。俺には梓の見ている世界が見えないことが、もどかしかった。ただ俺は何も分からないなりに、梓の体が心配だったのだ。六月に課題が出されてからというもの、毎日のように目の下に隈を作って、怠い体でのろのろと動いては体育の授業中ボールに頭をぶつけて踞る――そんな梓を見ていると、たまらなく不安な気持ちになった。こいつがさっさとこの負担から解放されて、また好きに絵を描くことが出来るなら、もうどうでもいいかなという心地さえしていた。

「パシャー」

 口でカメラ音の真似をしながら両手の人差し指と親指で四角を作り、俺を覗き込む梓の無駄に大きい目をちらりと見て、俺は小さく息を吐いた。

「いいから、今は草むしれって」

 今日は子供会の活動の一貫で、街道の塵を拾ったり雑草を抜く作業をしている。小学生には空き缶やらの道端に転がる目立ったゴミを袋に詰める作業を任せた。代わりに俺達中学生は、道端の小さな草の根を黙々と手作業で引っこ抜く作業に勤しんでいた。夏の日差しが体温をじりじりと上昇させる。俺は土に汚れた軍手でペットボトルの蓋を回して、冷えた液体をぐい、と喉に流し込んだ。

 対して梓は暢気なものだ。元々絵以外のことには興味のない性格だけれど、今日はいつにもましてだらだらと草をむしりながら、気を散らして遊んでいる。その分頑張らなきゃいけなくなるのは俺の方だから、困ったものだ。まあ、本当は適当に頑張って適当に力を抜いてもいいんだろうけど。

 遊んでいる――ように見えるのは恐らく俺に芸術的な素養がないからで、梓は草むしりの最中も、自分が抜いた草の根や葉を目を皿のようにしてじっと見つめていた。梓の手が止まりがちなのは、梓が自分の目に映るもの全てを記憶に焼き付けようとしているからだ。周りから見れば、梓はぼうっとして絵を描く以外のことが何も出来ない子供のように見えるだろう。実際に、空の色を覚えておきたいからという理由で上を仰いだまま歩くのもしょっちゅうで、必ず数回は電柱にぶち当たる。勉強をしているはずなのに、いつの間にか欠けた消しゴムのデッサンを始めていたりする。俺からすれば、こいつはよくこの歳まで無事に生きて来られたなと思う。さぞかし親御さんは大変だったろう。それでも、梓に小言を言うより自由にさせてやる方が楽だと感じてしまっているのだから、俺も大概お人好しだ。梓が子供会の大人の人に見咎められて注意されないよう、要所要所で今は草むしる振りしとけ、なんて声かけまでしてしまうし。頼まれてないのに。

 とにかくこうして、梓が遊べば遊ぶ程、俺の気苦労も増えるし、さぼる梓の分の草むしりは俺がやらなければいけないわけだが、俺もその日はぼうっとしていた。梓が数日前に言い出した言葉が、ずっと引っかかっている。

 梓は、どうやら本気で美術展用の絵のモデルを俺にするつもりらしい。今も、指の窓を何度も俺に向けて口でカメラ音を零している。

 あれだけ人物を描くのは嫌だとか言っていたくせに、どういう風の吹き回しなのかとも思うが、梓は俺の姿を絵に描く代わりに、髪や瞳の色を実際とは違う色で着色するという発想で、【ありのままの人物を描く】という課題と【ありのままの生き物を描きたくない】という自分の我が侭に折り合いを付けたらしかった。そのため俺はそれ以来ずっと、梓に顔に穴が開きそうな程観察されているというわけだ。

 正直、俺あんまり人に見られるの慣れてないんだよな。女の子にもこんな風に見られたことないのに、なんで野郎に熱い眼差しで見られなくちゃいけねえんだよ。梓といるのが楽だったのは、梓が基本的に絵に関することにしか興味がなく、あまり俺の顔をまじまじと見ないからだった。誰も気にしちゃいないだろうが、俺は生来肌が白いせいでそばかすが出来やすいし、中学になってからはにきびも増えたし、口周りの産毛もだんだん濃くなってきて、人様に晒すのも憚られるような顔になっているのだ。その上最近は目も悪くなってきたから、似合いもしない黒ぶち眼鏡なんてかけててもう最悪だ。正直顔を見られるのは辛い。たとえそれが野郎にだとしてもだ。

 かと言って、楽しそうな梓を止めるのも忍びなくて、俺は「にきび面だけは忠実に再現しなくていいぞ」とだけぼやいて梓の視線を許してしまっている。

「パシャー」

 にやにやと笑っているのが顔を見なくても分かるような声で、梓が再び呟いた。俺は嘆息して、軍手の甲で額の汗を拭う。

「だから、なんだよそのカメラもどきは」

「構図をね、どうしようかなと思ってさ。やっぱり赤司君は青空が映えるよね。うん、なんかイメージ湧いてきた」

「一人で納得すんな。青空が映えるとかなんだ」

 俺は少しだけ赤くなった顔を、日に焼けたせいだと誤摩化した。

「だから、さっさと草むしりしろって。ここ終わらないと帰らないからな!」

「うーん」

 梓はぼんやりした眼差しで草を見つめて、ぶちぶちと引き抜いた。

「……あーもう、根っこ取らねえと意味ねえだろ? それ茎千切ってるだけじゃん」

「うん」

 素直に今度は根っこごと引き抜く。親しく喋るようになってから一年経つけれど、未だに読めない。

「赤司君、今日これ終わったら家に来ない?」

「は? なんで」

「色を何にしようか考えてて」

「何の話だよ」

「いや、赤司君の髪の色をね」

「いや、だから話が見えねえ」

 梓はよいしょ、と爺臭い声を漏らして膝に手をつき立ち上がった。

「実際に赤司君を目の前に置きながら色を塗っていった方が、多分いい感じになるんだよね。多分今日だけだから、だめかな」

「……別にいいけど、それ学校でもよくね?」

「え、僕学校で絵を描いたこと滅多にないよ」

「は? 美術部なのに?」

「落ち着かなくて」

 梓は目を伏せて、額の汗を首に巻いていたタオルで拭った。睫毛を伝って汗が一雫流れていく。眼に染みて痛かったのか、思い切り目を瞑って眉根を寄せる。

「ふうん」

 俺は追求はせずに立ち上がると、抜いた草の山を抱えてゴミ袋に入れた。

「はー、喉乾いた。じゃあ麦茶もらうついでに、初めて家に遊びに行きますかね」

「あ、うち麦茶ないよ」

「じゃあ何があるんだよ!」

「冷やし緑茶なら冷蔵庫に入ってるはずだけど……」

「……別に、てかむしろそれでいいけどよ……」

「何ちょっと笑ってんの?」

 わざとらしく嘆息する俺を、訝しげに見つめてくる梓。正直、仲良くなって初めて家に誘われたので、少しだけ楽しい気分になっていたことは否めない。今日は子供会の行事があるから、と部活を休んでよかったと思った。

「まあ、ちょっと男子にはきつい家かもだけど……母親の趣味全開だから」

 梓は考え込むように俯きながら、ぶちぶちと軍手の布目の隙間にこびりついた草を抜いていた。

「いや、それは俺姉貴も妹もいるから、少々女趣味でも別にいいけどさ」

「ああ、そうだったっけ。うろ覚えだなあ」

「ていうか、お前もいい加減たまにはうちに来いよ。広くはねえけどさ、それでゲームしようぜ。お前どうせやったことないだろ」

「ああ、うん……やったことはないけど……」

 梓は頭をこてりと横に傾けた。

「じゃあ、部屋に植木鉢置いといてくれる?」

「は? 何の話?」

「いや……なんか」

 梓はどこか遠くを見つめて、ぎゅっと片方の手首を握りしめた。

「僕さ、周りに花がないと落ち着かないんだよね」



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