第二章


 T島の空港に降り立った玲は、爽やかな南国の風景美に圧倒された。滑走路は海に並行して伸びており、ヤシ科の高木と不思議な形の建物の取り合わせは、とても空港ビルには見えない。

 整然と整備された街の道路を玲は汗を拭きとりながら歩いた。空港から、目指すリゾートホテルは、すぐそこに見えていた。ツアー客には送迎の車が用意されていたが、個人で旅行する玲のような人間には、そんなものはない。わずかな距離でも暑さのために、かなりの体力を使った。

 チェックインして、玲は荷物を部屋に運んでもらったベルボーイに、チップを渡しながらレノという青年について聞いてみた。ベルボーイもよく知らないらしく、首をかしげていた。

 このホテルで働いていた人間だ、と説明して、チップをはずむと、詳しい人間に聞いてみる、とベルボーイは言った。確かな情報を持ってきたら、もっとチップを払うことを約束して、玲は部屋で待った。一泊数万円もする高額なホテルだ。ある程度まとまった金を克哉から預かっては来ているが、拓真の捜索にどれほど時間と費用が掛かるか分からないので、このホテルにいつまでも滞在するのは避けたいところだった。

 ベッドに腰掛けて、玲は考えた。レノはもうこのT島に居ないとしたら、何も得ることもなく日本に帰らざるを得ないかもしれない。それだけは避けたかった。何としても情報が欲しかった。

 部屋から出るのもためらわれて、玲は惜しいと思いながら、日本から持ってきた栄養機能食品を手にした。空港で何か食べるものを買ってくるのだったな、と思った。今、部屋から離れて、さっきのベルボーイと入れ違いになるのは避けたかった。

 ベルボーイは、一時間半後に帰ってきた。一人の女性スタッフと一緒だった。ベルボーイよりもこの女性スタッフのほうが英語が堪能なようで、レノのことをいくらか聞き出すことができた。

 レノは、このホテルに一か月もいなかったらしい。理由はわからないが、あまり都会の雰囲気になじんだ様子ではなく、この洗練されたホテルになにか合わないものを感じたのではないか、というニュアンスのことを言われた。いくらか冷ややかな雰囲気をその女性スタッフから汲み取れた。

 現在のレノのことを聞いてみると、庭師をしている、というような話をしていた。外国人が長期滞在するような安価なロッジで、庭を手入れする仕事に従事しているようだが、この島にはそのようなロッジが多く点在しており、それのどれかであるかはよく覚えていない、と言った。

 ベルボーイとその女性スタッフに、いくらかチップをはずむと、女性スタッフはメモを書きはじめ、そのロッジは、この三つのうちのどれかである、というようなことを言い始めた。いくらか手がかりがつかめたような気がした。

 二人を部屋から出すと、玲はベッドに仰向けになった。長時間のフライトで疲労が溜まっていた。目をつぶると、そのまま玲は意識を手放した。


 次の日、ホテルのフロントで、玲は一台のタクシーを予約した。

 車はすぐに用意された。三つのロッジを見て回って、玲はもっとも庭が手入れされていると思われるロッジに泊まってみることにした。ロッジの管理人に聞いてみると、長期バカンスのシーズンまで間があるということで、空き室はあるようだった。

「庭が大変美しいようですが、どのぐらいの頻度で手入れをされていますか。」

玲が聞いてみると、一週間に一度、芝の手入れに庭師が来る、と教えてくれた。

 ちょうど昨日来たばかりのようで、次に来るのはちょうど一週間後のようだ、ということだった。仕方なく、玲は八泊の予約を入れた。多額の費用が掛かるが、仕方がなかった。庭師は決まった人間が来るのか、と聞くと、怪訝な顔をされながら、そうだ、と答えてくれた。それ以上のことを聞くのは、はばかられた。

 このロッジは独立したコテージのようになっていて、長期滞在する外国人向けに建てられているもののようだった。隣に住むオーストラリア人の老夫婦は、親切で、色々と玲に教えてくれた。

「ここのロッジの芝生は綺麗ですね。」

 そう言うと、まるで自分の庭がほめられているかのように、夫婦は得意げな顔をした。

「T島と言えば、水上コテージが人気なようだが、それよりもここのように庭の美しいところのほうが住みやすいよ。僕たちも庭を見て、ここに決めたんだ。」

「よく手入れされているようですが、いつも決まった庭師が来るのですか?」

 玲は尋ねてみる。

「そうだね、ここ一か月は決まった庭師が来て、芝を刈っていく。若いがよく働く青年だ。」

「そうですか…。庭師と会話をされることはありますか?」

 玲は聞いてみた。

「いつもチップを渡してやるのだが、その時に少し話したな。ここではない違う島から働きに来ているというようなことを言っていた。」

…克哉に聞いたレノの姿に重なる。しかし、まだ断定はできなかった。この島は、働き口を求めて多くの人間が周辺から来ているのだ。

 この周辺の島は、旧フランス領と旧英国領に分けられる。玲は事前に調べていた。けれども、ほとんどの島が公用語として英語を使っているので、その出稼ぎに来ているという庭師にも、英語で話しかけても問題はないだろう。現に、英語しか使えなさそうなオーストラリア人の夫婦も、庭師と問題なくコミュニケーションを取っている。仮に庭師がレノだとしても、英語で会話することに不都合はなさそうだ。玲はそう考えた。

 外出すると、南国のものが珍しくて、ついつい余分な費用を使って買ってしまう。観光地であるこの島の物価は高い。もちろん、そんな時は克哉から預かった金ではなく、自分の財布から出すのではあるが、それにしても先の見えない長期滞在に浪費をするのはためらわれて、玲はほとんど部屋から出ず、庭を見つめながら日本から持ってきた文庫本を読んで過ごした。

 ついに、庭師が来る日がやってきた。その日は朝から玲はそわそわして待っていた。小型の芝刈り機を持って、庭師が現れた。五つ並んだコテージの庭園の芝を、丁寧に刈っていく。玲のコテージは三番目だ。冷たく冷やした飲み物を用意して、じりじりと自分の庭に庭師が来るのを待っていた。


 やがて、隣の庭で働く庭師の姿がはっきりと見えるようになった。

 庭師の横顔を、じっと玲は見つめていた。二十歳をいくらか過ぎた風な青年だった。オーストラリア人夫婦の言うように、暑い中、手を抜かずに、勤勉に働いている様子が見て取れた。芝刈り機を丹念に動かし、綺麗に芝を刈ると、鋏を取り出してきて、伸びている庭木のカットもしていった。熟練の技、とは言えないが、丁寧に仕事をしている姿は好感が持てた。

 庭師が玲のコテージの庭にやってきたときに、玲は庭師に声をかけた。たくさん暑い中仕事をしてきたので、休憩を取ったらどうだろうか。飲み物を用意している、と言うと、丁寧に礼を言われて、この庭の手入れが終わったら、そうさせてもらう、と素直に答えてくれた。

 庭園に置かれた白いテーブルの前に腰かけて、庭師の顔を玲は見つめていた。端整な横顔で、彫が深かった。一文字に結ばれた口は、芝刈り機が思うような方向に動かなかったときに、少し悔しげに開かれる。彼が、この仕事にかける情熱が見て取れるようだった。

 やっと仕事を終えて、玲の待つテーブルに庭師がやってきた。玲は飲み物を渡した。礼を言って庭師が受け取った。彼がそれを飲んでいるときに、玲は英語で、「自分は日本人だ。」と伝えてみた。

「コンニチハ。」

 そう日本語で言って、彼はにっこりと笑った。自分は日本語があまり使えないが、「コンニチハ」「アリガトウ」は言える、と言った。そして、もう一つ。「ハルハアケボノ」と言った。意味はよくわからないが、親友の日本人に教えられた、と。

 玲は確信した。この青年は、レノだ。

「あなたの親友という日本人は拓真という少年ではないか。」

 レノは驚いた顔を玲に向けた。

「タクマは、僕のふるさとの島に住んでいる。弟のようなものだが、確かに日本人だ。」

 レノは語った。

「あなたは、レノ、そうでしょう。」

「…確かに、僕はレノだ。あなたは?」

「私は、玲。拓真を探しに、日本から来た。」

 玲は、レノにはっきりとそう告げた。


 レノとの話は一時間に及んだ。どうやって、レノの島に渡るか、そのことも詳しく聞いた。

「……本当に大丈夫か。」

レノは心配そうに聞いた。

「タクマも、最初はとても戸惑っていた。トイレが無いことが一番の衝撃だったようだ。自分たちはそれが普通で驚きはないが、日本人が住むのは大変だ、とタクマはたびたび言っていた。」

…そうか、そんな島に、拓真は住んでいるのか。

「…覚悟をして行きたい。彼に会うために私は来たのだから。」

玲は答えた。

「タクマはどうやってあなたの島に来たの?」

「誰かのクルーズに乗せられてきたようだ。本人の意思ではなさそうだった。」

「それから、ずっと、あなたの島に居ついたのはなぜだろう。」

 玲の問いに、やや顔を陰らせてレノは答えてくれた。

「タクマは、僕たちの家族をとても大事にしてくれている。島を出てしまった僕の代わりを、いまは彼が担ってくれている。いつまでも彼に頼っているわけにはいかないとは分かっているが、うちの母も、弟も妹も、とてもタクを頼もしく思っているんだ。」

「そうなんだ…。」

 レノの家族の中で役割を得て、拓真は生きている。

「彼は帰りたくないのだろうか、日本へ。」

「わからない。ただ、このままでは良くないとは、僕も思っている。だから、あの葉書を彼に書かせたんだ。」

 レノは言った。それを聞いて玲は葉書のことを思い返す。

「…なんて彼が書いたか聞いてる?」

「父親に居場所を知らせて、無事であることを書いた、と彼は言っていた。」

 レノの言葉に、玲は黙った。拓真はレノに嘘をついている。

「拓真の書いた葉書を、私も見せてもらったが、居場所のことなど書いていなかった。レノが葉書を渡した人が、わざわざ父親に直接届けてくれることがなかったら、私はレノとこうして会えていない。」

 玲の言葉に、レノは顔をうつむけた。なにか思案しているようだった。そして、レノは考えながら口を開く。

「タクマは、きっと帰りたいと思っていると思う。僕にはわかる。…でも、なぜか帰りたいとは言わない。その理由が僕にもわからないまま、島を出てきてしまった。ずっとそれが気になっているので、玲が聞いてくれるならありがたい。」

「難しいが、やってみる。そのために、私は日本から来たのだから。」

 玲は答えた。


 T島からレノの島までは、すぐに行けるわけではなかった。レノの国の本島に飛行機の便が週に一回。そこからレノの島までは船で行くのだが、定期便はなく、自分で船を持つ人間と交渉しなくてはいけない。レノは、いつも船に乗せてくれるというサピラという老人を紹介してくれた。

「サピラは英語が使える。サピラに行って、コルノ島まで行ってくれ、と頼むと良い。料金はこれぐらい。」

 レノは丁寧に教えてくれる。

「サピラは、いつも灰色の帽子をかぶって、鷲と魚の彫刻のしてあるパイプをくわえている。少しあごひげもあると思う。船に乗っていないときには、いつも同じところに座っている。すぐにわかると思う。」

「わかった。」

 玲は答えた。

「レノの島には、英語を使える人は少ないの?」

「子どもは、みんな使える。ただ、大人はまだそういう教育を受けていない。大人はフランス語のほうが得意な人間も多いし、自分の母は現地語しか使えない。」

「拓真は、どうやってお母さんと話をしているの?」

「拓真は島のことばを覚えてくれた。英語も少し使うが、玲ほど上手くはない。弟や妹は両方使えるので、拓真は基本的に島のことばでしゃべっている。」

 語学留学に来たとはいえ、一週間もしないうちに学校からいなくなったのだ。英語が使えなくても無理はないが、島の言葉を先に覚えたという拓真は、何を思って島に居続けているのか…。とりあえず、拓真に会わないと何も見えない。

 飛行機は三日後に出るようだった。また明日、来る、と言って、レノは仕事に戻った。一時間も手を取らせてしまったが、島の空気は鷹揚だ。今日できないことは明日すればよい、といった緩やかな空気が流れている。

 いよいよ、拓真に会える…。拓真の居場所がわかったことを、克哉に知らせるべきか、玲は迷った。けれど、克哉がこの島に来ることさえ躊躇していたことを思い返し、まず拓真に会って、真意を確かめてみよう、と思った。島にいる拓真が本当に克哉の子であるか、それすら確かめないうちにぬか喜びをさせてもいけないとも思った。

 T島に来て、十日足らずではあるが、拓真の居場所がつかめそうなところまで来て、玲は少し安堵したが、同時に強い緊張感に胸を鷲掴みにされる。…拓真は、父親の代理としてきた玲を、なんと思うだろうか?


 三日後、玲がコルノ島の船着き場に着くと、目の前に屋根だけの大きな建物が建っており、ココヤシの実のようなものが山積みされていた。工場と言うか、作業場のような場所であるらしかった。人影は何もなかった。船着き場にいたサピラという老人の言葉を思い出す。

「今日は日曜日だ。安息日であるのに船を動かすのだから、料金は倍になる。」

 このあたりの島は敬虔なクリスチャンが多いようだ。玲は言われるままに素直に料金を支払った。老人は一言も言わず船を動かしてくれた。日本の海とは違う、ひたすらに碧い海だった。船に揺られながら、ほんとうに拓真がいるのか、信じられないような気持ちがしていた。T島のような観光化された島ではなく、まったくと言っていいほど、日本人を見かけない島々だった。

 工場の反対側に、一軒の店があり、そこにも人はいなかった。安息日である以上仕方ないのかもしれない。レノの村まで、この一本道を三十分ほど歩かないといけないらしい。舗装されていない道からは赤い煙のような砂埃が舞い上がる。玲はため息をついて、足を進めた。とにかく暑い。吹き出る汗を首に巻いたタオルで押さえながら、玲は道を進んだ。貴重なペットボトルの水を少しずつ飲みながら進む。この先、安全な水は手に入るのだろうか?心配になるが、ここまで来たら足を進めるしかない。人に一人も会わないのが不安だった。

 村に入った。想像していたのと少し違い、意外に現代風な家々が点在し、中央に大きな教会が見えた。協会は白い壁だが、家々は黄色の壁で統一されている。南国の風景にあまりマッチしていないような風景に玲は戸惑いを覚えた。ここは海からは少し離れていて、波の音も聞こえない。放し飼いされている豚がそこここで走っている。痩せた犬もいる。

 しばらく玲が立ち尽くしていたら、教会の鐘が鳴り、人々が一斉に教会から出てきた。服装も顔だちもあきらかによそ者のの玲の顔を、じろじろと見つめてくる。一人の子どもが駆け寄ってきて、ニイッと笑顔を見せてきた。学校に通っている子どもには英語が通じる、そうレノから聞いていた玲は、レノの家を訪ねてみた。すると、その子が手を引くように案内してくれた。

 一軒の黄色い壁の家の前に案内され、お礼の小銭を案内した子どもに渡すと、あっという間に子どもは去って行った。玲はあらためて、家を見上げる。他の家と同じような、家だが、扉が外れて壊れたのか、代わりに簾のようなものがかけられている。ここが、レノの家か…では、ここに拓真がいるのか…。玲は扉代わりのすだれをめくってみた。英語で訪れを告げてみる。

 レノの弟と妹らしき姿と、その母親の姿が見えた。それ以外の人間は見えなかった。ここがレノの家か、と尋ねると、子どもたちは笑顔になった。子どもらが母親に何か言う。母親が突然、あふれるような笑みになり、中に入るように玲に言った。

 突然の歓迎のされように玲は戸惑う。南国風のおおらかさなのだろうか?中に入って、いろいろと子どもたちに尋ねられる。レノとどこで会ったのか、と聞かれるので、ロッジの庭の手入れで来ているレノと話をした、というと、子どもたちは母親にそれを言い、大きく母親がうなずいて、また笑顔になる。母親が何か子どもたちに言うと、レノの妹が大きな目で玲を見上げて、どこの国から来たのか、と言うので、「日本だ」というと、「タクと一緒だ」と言うようなことを言われ、玲の胸は大きく高鳴った。母親にそれを言うと、笑顔でうなずく。弟のほうが立ち上がった。「タクを呼んでくる」というようなことを言って、戸口から駆け出していく。妹もそれを追った。言葉の通じない母親と家に二人で取り残されて、玲は無言になる。


 母親は、最初は何も言わず、ただ黙って笑いながら、玲のことを見つめていたが、やがて玲の手を取って、島の言葉でなにか言い、玲の手を撫でさすった。暖かな手触りが心地よいが、何を言われているのかわからず、玲は戸惑いながらうなずいた。

 その時、戸口の簾が巻き上げられ、一人の青年が入ってきた。玲は振り向いて、その青年を見上げた。島の人間と変わらないぐらい日焼けをしているが、彫の浅い、いかにも日本人らしい顔だ。あまり克哉とは似ていないように見えた。切れ長の細い眼が、玲を見てにっこりと笑った。

「レノの日本人の恋人が来たって、ソロファが教えてくれたから、来てみたんだ。はじめまして。日本語が話せるなんて、嬉しいな。」

 まぎれもない日本語だった。その笑顔は、どこか克哉に似ているような気がした。拓真だった。

玲は黙って座ったまま拓真を見上げ、涙をはらはらと流した。

 拓真は驚いた。

「なんで、レノの彼女が僕を見て泣くの?」

「…ごめんなさい。」

 玲は拓真から顔をそむけて、首にかけているタオルで涙をぬぐった。

「誤解があるようだから、あなたからご家族にお話ししてほしいのだけど、私はレノの恋人ではない。あなたのお父さん…大森克哉さんからあなたの話を聞いて、あなたを探しに来たの。あなたは、大森拓真くん、そうでしょう?」

拓真の表情が驚愕の表情を見せたまま固まった。

 拓真の表情に驚いたのか、早口でレノの母が何か言う。呆然とした表情のまま、拓真が知らない言葉で母親に何か伝えた。

 それから、拓真は表情を立て直して、にっこりと笑った。

「こんな遠いところへようこそ。…名前、なんて言うんですか?」

 玲も涙をぬぐって、笑って答えた。

「水川玲です。よろしく。」

 拓真は言った。

「玲さん、今、ちょうど僕は海辺で今日の夕食の準備をしている。見に来る?」

「ありがとう、行かせてもらう。」

 玲は答えた。拓真は、レノの母に、何か一言二言話して、にっこりと笑いかけた。やや硬い表情になっていたレノの母は、短く何か答えた。

「行こう!玲さん。」

 拓真は立ち上がった。レノの妹も一緒に立ち上がり、拓真の手にすがって歩きはじめた。そして、玲の顔を見てにっこりと笑う。玲も笑い返した。レノによく似た澄んだ瞳をしていた。

「この子はね、アロファって言う。もう学校に通ってるから、英語使えるよ。玲さん、英語しゃべれる?」

「うん、まあ、日常会話程度なら。」

 玲が答えると、拓真は自嘲気味な笑みを浮かべた。

「僕、とうとう英語使えないままだったな…せっかく留学させてもらったのにな。覚えよう、覚えようと思いながら、島の言葉のほうが先に身についちゃった。」

「そっか…。まあしょうがないよ。そういう環境だったんでしょう。」

 玲が答えると、ふっと拓真はまた笑って、しばらく黙った。玲はアロファに話しかけてみる。学校では二年生だと話してくれた。八歳だとも。

「学校の授業はね、ほとんど英語で行われてるみたい。昔はそうじゃなかったみたいだけど…。算数の授業とかも英語。だから、必然的に英語が使えるようになるみたいだね。子どもはね。」

 拓真が解説してくれる。

 海が見える空き地にたどり着いた。そこには簡素な屋根だけの小屋があり、燻されたような煙が上がってきている。

「みんなが教会に行ってる間にね、ぼくが日曜日の料理の準備をしている。」

 説明してくれる拓真。

「石を熱く焼いてね、その火は消してしまって、その焼けた石の上に、この葉っぱでくるんだ肉や芋や魚を乗せて蒸し焼きにする。結構時間はかかるんだけど、美味しいよ。日曜日はこうやって、どこの家庭もこんな料理を作って食べることが多いみたいだね。」

「そうなんだ。」

 拓真の言葉に感心する玲。拓真が、アロファに何か話しかけると、アロファがキャッキャと声を立てて笑う。子どもの笑い声は、万国共通だな、と玲は思った。

 まだ料理が蒸しあがるまで時間がかかるようなので、その間に玲は聞いてみる。

「今晩、私が泊まれるところはあるかな?」

「レノの部屋に泊まると良い。母さんにそう言っておく。」

 拓真はあっさりと言い。玲は二重の意味でドキリとする。レノの母のことを、まるで自分の母であるかのように呼ぶ拓真…。

「…さっき、なにか私、レノの恋人じゃないってわかったみたいなとき、レノのお母さん、あきらかにがっかりしてるふうだったから…、そんなことしていいのかな?」

「大丈夫だよ。僕がちゃんと言っておくから、玲さんは何も心配しないで。」

 拓真の言葉に、玲は克哉の話を思い出す。……こうやって、彼は、幼い日から、自分の母を支え続けてきたのだろうか。

『大丈夫だよ。お母さん、僕がちゃんとやっておく。心配しないで。』

 そう言っている今より少し幼い拓真の顔が想像がつく。そして、佐緒里が発作を起こすたびに、動揺する佐緒里の母に、

『大丈夫、お母さん、いつものことでしょう。私が佐緒里を見ているから、お母さんは病院にすぐ連絡して!』

 と、言っていた自分の姿もそれに重なる。

 なんとなく黙ってしまった玲に、拓真は違うことを心配したのか、

「大丈夫だよ。レノの母さんはね、ほんとうはお客好きな人だ。僕も最初から大歓迎してもらった。ただ、レノの彼女って言う人は外国の人で、この島に来るのを好まない、なんてレノに聞いてたから、レノの恋人が訪ねてきてくれたって思って、最初に喜び過ぎちゃったんだよね。」

 などと気を使って話してくれる。

「……そう、だといいんだけど、誤解させてわるかったね。」

 玲はぼんやりと相槌を打つ。

「いつまで、ここにいられそう?」

 不意に拓真に聞かれる。

「どうだろう、二~三日かな。考えてなかったけど…。」

「そっか。なるべく長くいてくれると嬉しいな。僕、日本語に飢えてるから、玲さんと日本語が喋れるのが嬉しいんだ。」

 拓真の言葉に、ふっと胸をつかれる。拓真にはやはり、望郷の思いがあるのだ。

 そして、そんなことを言いながらも、拓真はけして、克哉のことを玲に聞こうとしない。

「……なにか、日本語の書いてある本とかある?ガイドブックとかでもいいんだけど…。」

 拓真に聞かれる。

「ガイドブックもあるし、文庫本も何冊か持ってきている。」

「文庫本?」

 拓真の声が弾む。

「読みたいな。日本語。ちゃんと読めるか心配だけど…。」

「大丈夫でしょう。拓真くんは優秀だったって、お父さんが言ってた。」

 父の名を聞くと、拓真は黙する。

「文庫本、帰国する時にあげるよ、全部。」

「ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しい。遠慮なく受け取っていいかな?」

「全然いいよ。」

 玲の言葉を受けて、拓真は嬉しそうに笑った。どこか寂しさの見える笑顔で。

「そういえば、レノが『春はあけぼの』って言ってたよ。拓真くんが教えたんでしょ?」

「うん、僕が話した。……ほら、ここって、南国だから、季節の感覚が薄くて、雨季か乾季みたいなざっくりした感じだから、日本には四季があるんだよ、ってレノに話をして、それで…。」

「そうか、春とかわからないよね。南国にいると。」

 照りつける太陽が砂浜を熱して、さらに蒸し焼き料理をしている傍にいるのだから、ひどく暑い。けれども海からカラリとした風が吹いてくるから、そこまで不快な気分にはならない。青く輝く空と海はけして溶け合うことなく、それぞれの色をはっきりと主張している。

「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫立ちたる雲の、白くたなびきたる。」

 拓真の口からつづられる言葉は、そんなここの気候や風景にまったくそぐわない。玲は笑った。

「まさか、南の島に来て、枕草子を聞くとは思わなかったな。」

 拓真はふっと笑った。

「日本にいるときは、授業でむりやりこんなの暗誦させられてさ、面白くもなんともなかったのに、なにか不思議だね、遠く離れたところにいると、そんなのが無性に懐かしくなる…。」

「そっか…。」

 なんと言えばいいのか分からず、玲は黙った。拓真も黙り、しばらく火箸のようなもので、石の上に載った葉っぱに包まれた食材を移動させたりしていた。

 手持ち無沙汰に、玲はアロファにいろいろと喋る。佐緒里のことをなんとなく思い出すが、華奢で透けるように白く、いまにも折れそうだった佐緒里の手足と違って、服からすらりと伸びたアロファの手足は日に焼けていて、いかにも健康そうだ。

「そうだ、トイレ!」

 不意に拓真が声を上げる。

「一週間前に、村の長に言って、僕、トイレを作らせたんだ…お客人用にって。なんかまるで玲さんに準備したみたいだね。」

「…そうなんだ」

 玲は安心する。

「ま、穴掘って、そこをぐるっと囲ってあるだけなんだけどね。あるとないじゃ雲泥の差だよ。」

「ありがたいな。」

「あとで案内するよ。」

 そう言って、拓真はにっこりと笑った。

「……それにしても、村の長にそんなことをお願いできるなんて、すごく信頼されてるんだね。拓真くん。」

「くんづけなんかしないでよ。村のみんな、タク、かタクマしか呼ばないから、なんか違和感ある。」

 拓真にそう言われる。

「アロファちゃんにも?」

「だから、ちゃんもいらない。くんとかちゃんとか、そういう他人行儀なの、この島ではなし。」

 拓真に笑いながらきっぱりと言われる。

「そっか。なんか難しい。そう言われると。習慣て怖いね。」

「…玲さんはさ、きょうだいとかいないの?」

「…妹が一人。」

「だから、アロファも妹だと思えばいい、妹にちゃんづけなんかしなかったでしょ?」

「そうだね…。」

 佐緒里のことをまた思い出す。今度は涙が出てきそうになり、顔をしかめた。

「…どうしたの?」

 拓真の心配そうな声に、むしろ堪えられなくなった涙が出てきた。

「…ごめん、妹のことを思い出して…。妹は、アロファちゃんぐらいの時に亡くなったの…。」

 実際は佐緒里が亡くなったのは十一歳だったが、病気のせいか、何歳も幼い体に見えたままだった。

「なんか、僕、余計なことを言ったみたいだね…。ごめんね。」

 拓真の声が深く沈む。

「ううん、もう七~八年も前のことだから、もう大丈夫って、自分では思ってたんだけどね。」

 涙がなかなか止まらないので、玲は立ち上がる。

「ごめんね、ちょっとその辺を散歩してくるよ。」

「わかった。」

 アロファも立ち上がろうとしたが、短い言葉で拓真が止めた。玲はそのまま、ひとり海辺へ向かった。

 浜辺を歩いていると、入江に抱かれるように少し高台に立っている高床式の建物を見つけた。昔ながらの南の島の家といった雰囲気で、壁と屋根はヤシの葉のようなものに覆われている。実際にこの島に来るまで、こういった家ばかりかと想像していたが、実際の村は意外にも近代的な木造の家ばかりだったので、玲は驚いたのだ。

 家には気配がなかった。そのままくるりと反転して、もとの浜辺を歩こうとしたら、拓真がいることに気づいた。


「ここ、僕がいま暮らしている家だよ。」

 拓真はにっこりと笑った。

「お料理、いいの?」

 玲が聞くと、

「アロファが見てくれてる。僕の家、上がってみる?」

 そう言われて、玲は拓真に導かれるまま、拓真の住む家に上がった。

 固い板敷の、簡素な家だった。隅に少し古い袋のようなものがあるが、それだけで、他の物は見当たらない。

 玲が不思議そうに家の中を見渡していると、

「海辺だからね、津波とか高潮とか突然来たらいつでも逃げられるように最低限のものしか置いてないよ。」

 拓真が説明してくれる。

「食事するのは、レノの家族とするし、寝に帰るだけ、みたいな場所。」

「そうか…。」

 玲は納得する。拓真は床に足を投げ出して座る。

「……でも、なんで、レノの家族と一緒に住んでないの?」

 そう言いながら、床に座り込む玲。

「島に来た最初はね、一緒に住んでた…。でも、だんだん一人の場所が欲しくなって、レノに相談したら、ここを使っていいって言われて、ここに住むことにした。この家、レノとその仲間が建てたんだよね。昔ながらの家を建ててみようって、レノと仲間たちが力を合わせて立てて、ま、誰が住むってわけでもなくて、仲間たちの集まりのために立てたみたいだけど、だんだん、レノの仲間も島を出て、そのうちレノも出て行って、使う人もいないからって、僕が住んでる。」

「そうなんだ…。」

「レノもその仲間も、すごく島を愛している。でも、島にとどまることができない。難しいよね…。」

「どうして…?」

「一言でいえば、働き口がないから、かな。」

「そっか……。」

「レノが島を出て行ったのは、二年半ぐらい前かな?……最初はT島じゃなくて、やっぱり同じような観光化された島に行った。それから一年ぐらいして、誘われてT島のホテルに行ったんだけど、ちょっと働きづらかったみたい。それで今の仕事してる。」

「そっか……。」

「もう少ししたら、パヤパヤのお祭りがあるから、その時はレノも帰ってくるだろうし、その頃まで、玲さん、ここに居たら?」

 無造作に拓真は言う。

「…お祭りって、いつあるの?」

「…あと三週間ぐらいかな?」

「結構先だね…。」

 トイレも、シャワーも満足にないこの村で、何日も暮らせるだろうか?玲は考えていた。

「…大丈夫、人間、どんな環境でも慣れるよ。」

 玲の気持ちを見透かしたように、拓真はにやりと笑ってそう言う。そう言いながら、固い板敷の床にごろりと寝そべる。

「…で、玲さんて、なにしにこの島に来たわけ?なんか父に頼まれて僕を連れ戻しに来たってわけでもなさそうだけど…。」


 玲は黙ったまま、拓真と同じように床に寝転がってみる。

「なんでこんなところまで来たの?」

重ねて、拓真に聞かれる。

「…拓真に会いにだよ。」

「だから、なんで俺に会いに来たのさ。」

「…なんでかな…。」

固い板敷の床に寝そべっていると、波の音が間近に聞こえる。まるで、家の下に海があるようだ。

「来てみたかっただけかも、ここに。…だって、拓真は帰りたくないんでしょ?日本に。」

「帰りたくないってわけじゃなくて…、帰るのが怖いだけだよ。」

言いながら、拓真は寝返りをうつ。二人の手が触れあった。つなぐでもなく、ただ、指先だけを絡ませて、そのまま二人は目をつぶった。玲は海の底に沈んでいくような気がした。

 目をつぶったままの玲に、拓真の声が響いた。

「このまま、海に落ちて沈んでしまえばいい、そんな気持ちが無くなるまでは、帰っちゃいけない気がしてるんだ…。僕……。」

 拓真の言葉になにも答えず、ただ、波の音に玲は耳を澄ませていた。

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