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 学生の頃の記憶は貴重。

 僕はちゃんと授業を受けてた時は、教壇に立つ先生の話をよく聞く真面目な学生でした。
 ので、授業の内容だとか先生の話していた雑談なんかは今でも結構覚えています。
 んで、物語を執筆する時は頻繁に中学時代の国語だとか高校での現代文を思い出します。

 最近だと「オツベルと象」の授業を思い出したり。

 冒頭で確かオツベルは「もみ殻が舞う作業場で目を細めるような男」みたいに描かれていたと記憶してるのですが、それに関する先生の説明は以下です。

 オツベルは臆病者。

 というモノ。

 コレは先生の解釈なのか、教科書側が用意していた「正解」なのかは定かじゃないのですが、どちらにせよ重要な説明でした。

 オツベルが目を細めてるのはもみ殻が目に入らない様にする為、です。

 実際、そういう作業で目にもみ殻が入りそうになるのかは似た様なお仕事をする人にしかわからないと思います。
 僕的には「そんなにもみ殻が飛び散る作業なのか」ってな感じでしたが、色々と解釈が分かれそうですよね。
 
 重要なのは「描写で人物の性格を匂わせる事ができる」という事です。

 もみ殻が「足下」で舞っているような場所なら、確かにオツベルは臆病者でしょう。それか心配性。

 もみ殻が僕の想像通りに頭の高さまで舞っている場所ならば、目を細めるのは妥当。
 でもそういう場所でも全然気にしない人も居そうですよね。作業に慣れてれば「ちょっとぐらい目に入っても平気」みたいな人も多いと思いますし。

 どちらにせよオツベルは「神経質な人物」であると言えます。
 臆病者は、ちょっと飛躍し過ぎかも知れませんが、神経質である事は確かです。
 
 そして続きの描写。

 オツベルは白象に重労働を課すのですが、白象は「仕事が楽しい」と言い、それに対しオツベルはビビります。
 やっぱり臆病者かもしれません。
 白象の強さを脅威に感じていたのでしょう。反抗されたらヤバい的に。
 今のところ友好的な白象を恐れているという。
 つまりオツベルは他者を信用できない人物とも言えます。

 だからオツベルは白象の餌の量を徐々に減らして弱らせようとします。支配しやすいように。

 オツベルにとって支配できない者は信用できないのです。
 でもそれは自分の行いの裏返し。
 言葉巧みに他者を支配しようとする、或いはその方法を知るオツベルにとって他者とは、隙を見て自分を支配しようとする「敵」なのかもしれません。

 支配•管理できない者は、敵。

 みたいな。

 だからこそ狡猾なのかもしれません。
 大地主としての自分の立ち位置の脆さを理解している分、それを守りながら利益を上げようとしている。的な解釈もできますよね。

 そしてなんやかんやあって最終的にオツベルは、白象を助けに来た象の群れに踏み潰されて死にます。

 助けられた白象は最後に「寂しそうに笑い」、この物語は幕を閉じました。

 なんで寂しそうに笑ったのかは、諸説あるでしょう。

 僕の場合は、

 白象は「仕事自体は好きだった」「オツベルも嫌いではなかった」「最初の楽しいお仕事をしていた日々はもう戻って来ない」「だから寂しそうに笑った」

 と解釈してます。

 酷い事をされてツラくなったから外に手紙を書いたというだけで、すげー人懐っこく他者を憎み切れない、そういう優しい象さんです。

 こういう解釈って単なる僕の想像、妄想の類いで、元々そういう読み方をする「癖」はありました。だって幼少期から父親の持ってた本を読んだりしてましたから。
 でも、明確に意識する様になったのは中学の国語の先生の「オツベルは臆病者である事がわかる」みたいな「決めつけ」に端を発してます。

 その用意された答えが果たして宮沢賢治の意図と合っていたのかどうかは知りませんが、「キャラクターとはそうやって読む事もできる」というヒントになりました。

 学校はくだらない、碌な教師がいない、という言葉をよく聞きます。そんな言葉が溢れているという事はたぶん、そういう事なのでしょう。
 でも少なくとも「ヒント」くらいにはなるんじゃないっすかね?
 先生方は結構、活用できる事を言ってくれたりしました。

 すげーおかしな先生もいましたけど。
 生徒の前で「自分の政治的な考えを全て正しいかの様に吐露する先生」とか「生徒に署名させようとする先生」は何考えてんですかね?
 それでも「おかしい」と思うヒントにはなりました。

 どんな大人であっても、その話を聞く価値はあるんじゃねえかなぁって思います。

 ところで上に書いた「キャラクターの読み解き方」ですが、自作を描く上での一つの指標になったりしてます。
 ですが明治とか大正とか昭和と平成とかとは違い、今は「令和」であります。
 描写よりも「説明」に重きをおいた方が良いと考えておりますし、僕の作品は説明が多めです。
 でも、描写も捨て切れません。
 でも、それはとても難しい事です。

 読者にわかりやすく解釈してもらえるキャラクターってどんな人物だと思います?

 僕は「その読者層に於ける平均的な性格に近い性格の持ち主」だと思ってます。

 現実と同じですよね。「浮いた人間」ってのは理解され難い、それは物語でも同じだと思います。

 でもさー、色んな人達を描きたいじゃん?

「多様性」なんてモノを謳っておきながら、相容れない人からは離れる、似た様な価値観を持つ人同士が集まる、それが人間です。
 若しくは「我」を隠しながら集おうとする。
 隠さない人からは離れる。
 とか。

 ファンタジーが好きな人達、SFが好きな人達、ミステリーが好きな人達、ホラーが好きな人達、順張りが好きな人達、逆張りが好きな人達。

 それぞれに合ったカテゴリーでそれぞれに合ったキャラクターを出すのが最適解である事は理解してるつもりなんですが、僕自身がどんな作品のどんなキャラクターも素直に読めちゃう以上、最適解とは別のキャラ達を出していきたいという欲があります。

 うーん、ジレンマ。

 ってな事はありません。
 かなり好きな様に描いてます。
 思うがままに。
 葛藤なんてせず。
 
 一応、人としての良識は持ち合わせてるつもりなんすけど、良識の「逆」も知っているつもりです。
 両方知った上で「善く思う方向」を選ぶというのが善行に対する僕の持論なので、これからも色んな人達を描き続ける事でしょう。

 それには学生という立場での記憶と、その後の記憶、その両方が必要だよなぁって思ってます。


 終わり。

 


 

 
 

 
 

 

4件のコメント

  • Yっち
    お疲れ様です。

    そういった「演出」が理解できない輩が増えてひさしいですね。
    伏線と回収という当たり前が通じない。
    初めは映画、次に小説。
    今では漫画。次はアニメかな?ゲームかも知れない。
    ラノベはそもそもお約束とやらでふわっとしてちゃんと
    演出手法が採用されてないテンプレが多すぎるので論外。

    映画も漫画もながら見で台詞で言ってないことは起こってないという幼稚園児も真っ青な世界の昨今では何を言って良いやら・・・
  •  えーちゃん🤨
     たぶん、勉強の意義と学校というシステムが合致していない事による弊害なのだろう、とか思ってます。

     以前何処かで、物事を狭くしか見れない人だとか、近くの物事しか見渡せない人だとかを、「畜生道に居る人達」みたいに書きました……書いたかな?

     転生などしなくとも、既にそういう道に居る的な。
     外道よりはマシですが、とても不自由であると思います。

     自身の生命に関わる事にしか興味を見出せず、楽しさを感じる事柄も少ない、まさに「寂しい獣」です。
     もちろん「知り過ぎてる人」も、それはそれで了見が狭くなってる場合が多いので、やはり「寂しい獣」かもしれませんが。

     でもどちらにも「現状より自由になる方法」があります。

     それは学ぶこと。

     知識に乏しい人は文献に学ぶ。
     知識が過度な人は「人に学ぶ」です。

     ですが「システム」がそれを邪魔するんですよね。

     勉強とは良い成績を得る為にするモノ。
     良い成績を得るのは良い学歴を培う為のモノ。
     良い学歴を培うのは良いお仕事に就く為のモノ。
     良いお仕事に就くのは沢山の金を貰う為のモノ。

     という「手段」になってるんすよね。

     確かにお金持ちは日常に於いて選択肢が多く、すごく自由に見えるかもしれません。

     でも、果たして自由な人が

     腹の底で見下してる人に「誰も自分を理解しない」と愚痴をこぼすでしょうか。
     誰かの言葉を引用して「自分は凄いやつだ」と見栄を張るでしょうか。
     何かにつけて「自分に反発するな」と威嚇しまくるでしょうか。

     幸いな事に、学校というシステムの中にも「何かを語ってくれる人間」がいます。
     教科書の中にも「方法」が数多く書かれてたりします。

     それをもっと活用した方が良いんじゃないかなぁって思ってるんですよね。

     学校の勉強は役に立たないって言葉、僕が子供の時から世に溢れてました。まぁ確かにそれぞれの職業に於いて重要なのは、それぞれの職業に於ける「お金の稼ぎ方」であります。
     そういう意味では役に立たないのかもしれません。

     でも「お仕事から離れた自分」の役には立ってくれるんですよ。学校で習う程度のお勉強でも。
     何かをする時、心に余裕が生まれます。
     それなりに自由な発想で物事を考え、日常を快適に過ごす事ができます。

     創作物を楽しむのなんて、まさに日常的な物事ですよね。
     芥川の「虱」でもちょっと語りましたが、何かを識っていると日常でちょっとだけ得ができます。「小さく些細な事柄にも楽しみを見出せる」以上の得があるでしょうか。

     そーゆー楽しい事を僕は色んな人と共有したいんすよね。無理かもしれませんが。

     ちなみに「ロジカルマキアート」は、その為の「参考書」として描いたつもりです。
     あんまり上手くはいきませんでしたけどね。

     

     
  • 金の稼ぎ方を教えてくれる学校なんてないのにいつからその勘違い
    始まったんだろうね。自分のメシの種を教える馬鹿はいない。

    学校の勉強って「索引」だと思ってます。
    興味が持てる事柄を知るとっかかり。
    なので役に立つ必要はないのよね。こんなことが世の中にあるって
    知るだけで良い。
    「知っている」事が大事、とはあらゆる事に言えますよね。
    防災などの危機管理に於いても知っているだけで精神に余裕が
    出来る。
    応急治療などでも同じ。出血量が体重の1/13以下なら病院行けば
    輸血しないでも助かる。とか。


    マキアートは「楽しもうとするのが大事」ってちゃんと
    伝わったけどなぁ。
  •  えーちゃん🤨
     本末転倒だとは思うのですが、「学」に対する勘違いは最初からだと思ってます。

     というのも古代、中世に於いての知識人とは、多くの人々が持っていないモノを持っている「特別な存在」であったと考えます。

     ですが「学のある人」は知っています。
     自分はたまたま知識を持っているだけで、決して特別な存在ではないという事を。
     そして「知る」という事は教材さえあれば誰でも持てるという事もです。

     だから知識人達は、多くの人達にそれを分け与えようと様々な学問の広め方をするのですが……。

     ——人々は「学を積めば自分も特別な存在になれる」という事をモチベーションにして勉強をする様になった。

     これが僕の考える「学問に対する誤解のストーリー」ですね。

     広めようとする人達の意図と、修めようとする人達の目的には最初からギャップがあった、的な説ですね。

     勿論、ただの妄想ですけど。

     

     
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