いつも国以下略をご愛顧頂きありがとうございます。
今回は三好 長慶と細川 晴元に付いての補足となります。
丹波国の喪失、三好 政勝の寝返り、香西 元成の討ち死によって、細川 晴元は三好 長慶への抵抗を断念して和睦(事実上の降伏)の道を選びますが、この和睦に三好 長慶は涙を流したそうです。
また、三好 長慶の政敵である三好 政長が討ち死にした江口の合戦後、三好 長慶は細川 晴元との和睦を熱望していました。この事から細川 晴元個人に対しては敵意を持っていなかったと言われております。
1561年の和睦後、細川 晴元は普門寺(普門寺城)に幽閉されますが、所領として富田庄が与えられます。普門寺は足利 義栄が将軍宣下を行い征夷大将軍に就任した場所ですし、富田庄は酒造りで有名な土地でもあります。
普門寺は6,000坪とも9,000坪とも言われる広大な敷地に枯山水の庭園や見事な伽藍があるそうです。足利 義栄の居城となったという点も考えると、とても幽閉するための施設とは思えない作りです。監視の目があったとは言え、生活自体はとても快適だったのではと思われます。実質隠居地ではないでしょうか。どう考えても長年敵対した相手に対しての処遇にはほど遠いので、三好 長慶の格別な配慮があったと思われます(但し、細川 晴元は2年後の1563年に50歳で死亡)。
三好 長慶は氏綱派に転向してからもずっと細川 晴元に拘っていたというのが妥当かと思われます。
それと、後日限定近況ノートにて三好 長慶の弟である十河 一存の簡単な解説を書きます。軽くwikiを見てみると、これで十河 一存像を掴むのは難しいと思えました。
内容的には173話の触れた部分への付け足しです。
いつも通りのマニアックな内容ですが、面白かったなら嬉しいです。