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『神夏祭へおいで』カクヨム公開

2017年8月にサイトで公開した『神夏祭へおいで』をカクヨムでも公開しました!

作中に散りばめられた、(桐詠の詠んだ)和歌について、説明していきたいと思います。かつてのわたしの最低限の古典文法スキルとなけなしの趣向で創作した和歌です。専門家の方がいらっしゃったとしても、どうぞ目を瞑ってやってください。

●「射干玉の 夕べの宴には 情けなき 烏合にあはぬは 夢ならむやは」
→(射干玉のように暗い)夕暮れの祭りには風情のない、やかましい彼らと出会わないようにすることは、夢のようなことなのだろうか。(いや、夢ではない)
ヒオウギの種子である射干玉は丸くて黒く、「夕べ(夜、黒、黒髪)」の枕詞と為す。句切れなし。桐詠はこの歌で『やかましい烏合の口を塞ぐ』という現象を具現させた。

●「風荒む すがらに連なる 熱き火は 光の陰やぐ 征矢の如し」
→風の荒むあいだに熱をなして燃える火は、(歳月が経つように速い)矢のようだ。
句切れなし。「光の陰やぐ 征矢の如し」は「光陰矢の如し」をからきたもの。光という字から「光速」も意識している。桐詠はこの歌で、提灯の灯りを利用した『炎の龍』を具現した。
本文抜粋【どっと一際強く風が吹き荒れて、提灯の灯りを大きく揺らした。たちまち提灯は炎を帯びて一本のけたたましい龍のようにふとん太鼓を襲う。】

●「聞こえしは 夢幻やと 思へども 潮満つ珠と 匂ひぞ薫る」
→耳に届いた(波の)音は、夢や幻の類だと思ったけれども、潮を満ちさせる霊力があるという玉の輝きと、潮の匂いがたしかに薫っている。
句切れなし。潮満つ珠とは、日本神話に出てくる、潮を満ちさせる霊力があるという玉のこと。桐詠はこの歌で、『海』を具現させた。

●「あららかに な食らひ給ひそ 我が君よ はづきに惑ひ しのばれずとも」
→荒々しく食らいなさらないで、我が君よ。熱い八月に(辱めるほど)我を失い、激しさを耐えられなくなろうとも。
ちょっと色気を出したかった。三句切れ。「はづきに惑い」の「はづき」には「葉月」と「恥づ」をかけている。桐詠はこの歌で、『ふとん太鼓の動きを抑制する』という現象を具現させた。

●「いはばしる 垂水のいきほひ 老ひにけり 来りて呉れよ 余のよき世をば」
→飛沫を上げて流れる激しい水の勢いは老いてしまった。やってきておくれよ、我こそが天下を取る時代こそを。
水が飛沫を上げながら岩の上を激しく流れる様を表す「いはばしる(岩走る)」は「垂水(滝、泡海)」の枕詞。また、二句以降からはしりとり(ほひ→老ひ、けり→来り、よ→余)になっている。ちなみに「来り」はラ変動詞「来る」の連用形で、カ変動詞「来」とは異なる動詞である。三句切れ。桐詠はこの歌で、『ふとん太鼓の動きを抑制する』という現象を具現させた。(ちなみにそれは失敗に終わっている)

●「綻ぶる 玉の緒落ちて 散り敷くは 彼の夢なりき 現にあらず」
→美しい玉を通す紐はほどけ落ち、ばらばらに散らばってしまったことは、(玉の緒よを詠んだ)式子内親王よろしくの夢幻であり、現実のものではない。
四句切れ。「ほころぶる」は「玉の緒」にかかる。玉の緒とは、首飾りなどに使われる玉を貫いた緒のことで、ここでの玉はスーパーボールにあたる。桐詠はこの歌で、討伐隊の撒いた『スーパーボールを消す』という現象を具現させた。

●「刺す竹の 舎人男へ 刺す竹や げに卑しきかな 吾とくらぶれば」
→(まっすぐに生長する竹のように)盛りを迎えている男たちには竹で刺すのがお似合いだろうよ。我と比べれば実に卑し(く、牢屋に入るにふさわし)い連中なのだから。
竹が勢いよく生長するところから、君・宮廷をたたえる意で用いられた「刺す竹の」は、「君」や「舎人男」などの宮廷関係の語にかかり、繁栄的な意味を表す。ただし、三句目の「刺す竹」は文字通り「竹で刺す」という意味である。桐詠はこの歌で、『討伐隊の足元から竹槍が伸びる』及び『竹の牢屋に閉じこめる』という現象を具現させた。
本文抜粋【地面から竹槍がにょきにょきと生えてくる。その竹槍は討伐隊のほうへと向かい、彼らを押しやったあと、その周りをぐるりと取り囲んだ。竹槍は、まるで牢屋の柵のように、討伐隊を閉じこめた。】

●「ちはやぶる 神の祭りと 言いしかど あらぶる人の 愚かさよ 星霜経ても あさましく 往ねと思ふは た易きも なめしく遣らふは めでたきも 人の命の 惜しくもあるかな」
→荒々しい神の祭りと言ったが、騒々しく乱れる人間の愚かしさよ。長い年月を経ようともみっともなく、いっそ消えてしまえと願うのは容易いことであり、無礼だと拒むのは素晴らしいことだけれど、(神罰が下ることで)命を落としてしまうのはさすがに惜しいものだなあ。
長歌。「ちはやぶる(千早振る)」は「神」の枕詞であり、勢いの激しく、荒々しいという意味がある。最後の「人の命の 惜しくもあるかな」は右近の忘らるる(忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな)の下の句の引用である。忘らるるの下の句には大まかに二種類の解釈があるので、お好きなほうを。桐詠はこの歌で、『討伐隊を(死んだように)気絶』させた。

●「こはいかな 身もはらめきて 絶えぬべし とどみなむとて おもほゆるかな」
→これはまあ、どういうことか。その身はぱらぱらと音を立てて、きっと絶えるのだろう。このままとどまっていたいと思ってしまうなあ。
……という意味である。多分。実はこの歌の意味をほとんど覚えていない。まじでなんなんだこの歌。どういう趣向を凝らしたのかもわからなければ、三句目の「(ぬ)べし」が強意+推量である自信もない。本当になにもわからない。言いきれるのはただ一つ。桐詠はこの歌で、『ふとん太鼓の動きを止める』という現象を具現させた。

●「かささぎの 渡せる橋の きらめくに え惑わされじ いざ我を見よ」
→天の川の燦然たるきらめきに、もう惑わされることなんてできやしないでしょう。さあ、私を見て。
 桐詠の心境を詠った歌。四句切れ。二句目までの「かささぎの 渡せる橋」は大伴家持の詠んだかささぎのになぞらえている。かささぎの橋は、陰暦七月七日の七夕の夜に牽牛織女の二星が会うとき、かささぎが翼を並べて天の川にかけ渡すという伝説からきたもの。

●「夏の夜の 我らが縁 かたければ ひももほどけず 君伝はするなり」
→見事な夏の夜に契った私たちの縁はとてもかたいので、その縁も氷もとけることなく、あなたを伝わせて跳ね返すのだ。
 四句の「ひも」は「紐(縁、絆の糸)」と「氷面」の掛詞。また、「かたい」は「縁の固さ」と「氷の堅さ」の現れでもある。四句切れ。桐詠はこの歌で、『大きな氷の壁を生みだし、ふとん太鼓から氏子を守りつつ、ルートへと飛ばす』という現象を具現させた。
本文抜粋【ふとん太鼓は氷の壁にぶつかり、勢い余ってスケルトン競技のように氷の上を滑る。凄まじいスピードに冷たい火花が散った。けれど、氷の壁はそんなものでは崩れない。】

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